帰りましょうか
夕陽が傾き、部屋に柔らかな橙の光が射し込んでいる。
男はベッドの端に腰をかけ、膝に一枚の紙を広げていた。片手にはペン。もう片方の指先には、擦れて少し黒くなったインクの跡。
夢中で描いていたのは、一軒の家のスケッチだった。
現実感はまだ薄い。けれど、形にしてみたかった。ぼんやりとした未来が、線を引くことで少しでも輪郭を得る気がしたのだ。
窓の外から、鳥のさえずりが小さく聞こえる頃。
ドアが静かに開かれる音がした。
「おつかれさま」
顔を上げると、そこには存在がいた。弟との修行を終えたのだろう、額に少し汗をにじませながらも、表情はどこか穏やかだった。
「ええ、弟さん。少しずつだけれど、感情の抑制が上達してきたわ」
相変わらず落ち着いた声音。でもその端には、ほんのりと楽しげな色が混じっていた。かつてはどこか機械的だったその声も、今では柔らかさを帯びている。
「それは、なに?」
ふと存在が男の手元に視線を落とす。スケッチの紙。
何のためらいもなく、彼女は男の隣に腰を下ろした。以前なら、きっとどこか距離を保っていたはずの彼女が。今は、自然に、近くにいる。
その仕草に、昼間の母の言葉が脳裏をよぎる。
——ようやく、うちの娘が二人になったみたいで……
ほんのりと頬が緩む。やっぱり、変わってきている。
「……なに描いてるの?」
「……家。僕たちの」
存在の目がゆっくりと細くなる。まるで、その言葉の意味を正確に受け止めようとするように。
「ここにあるじゃない。……私たちの家とは違うわね。どうして?」
男は、昼間の出来事を静かに話し始めた。
父の言葉。母の想い。夫としての責任。そして、自分の戸惑い。
お金のこと、暮らしのこと。人間が家族という形にどんな意味を持つか——それを彼女に、なるべく分かりやすいように、丁寧に伝えた。
存在は、黙って聞いていた。その眼差しには迷いも反発もなかった。ただ、まっすぐに、男の声を受け止めていた。
しばらくの沈黙のあと、彼女は静かに立ち上がり、窓の外を見た。
そして、ふわりと振り返る。
「……じゃあ、帰りましょうか。私たちの始まりの場所へ。私は君と一緒なら、どこでもいいから」
風のような、あまりにあっさりとした言葉。
けれど、そこには飾りも演技もない。まっすぐで、迷いのない想いが込められていた。
男の胸の中に、重くのしかかっていたものが少しだけ軽くなる。
——自分と一緒なら、どこでもいい。
たったそれだけの言葉なのに、どれだけ心を救われただろう。
不老不死の存在という名の彼女が、まるで“人”のように、彼の不安に寄り添ってくれる。そのことが、何よりも嬉しかった。
だが、それでも——
「……君の言葉には救われるよ。……だけどさ、それも素敵だけど。違うんだ」
男はゆっくりと立ち上がり、紙を胸元に抱えるように持ち上げた。
これから伝えるのは、未来のかたち。その最初の一歩。
「僕は……君と“帰る”場所じゃなくて、“進む”場所を作りたいんだ」
存在が、静かに目を見開いた。
「君がどこでもいいって言ってくれるなら……僕は“どこか”を、君のために選びたい。君と歩く未来を、僕が描いて、君と一緒に作っていきたい」
それは、まだ未熟で、不安定な決意かもしれない。
けれど確かに、男の声には覚悟があった。
紙の上に描かれた家——それは、夢でも理想でもなく、現実のための設計図。
二人で暮らす“これから”の象徴。
存在は、ゆっくりと微笑んだ。
小さな、小さな笑み。でもそれは、これまででいちばんあたたかかった。
「まだ曖昧だけどさ。僕たちだけの場所を、二人で作るって、ワクワクしない?」
男の声には、普段にはない高揚感があった。
紙の上に描かれる線は少し歪み、雑に伸び、ところどころ途切れている。それでも、男の表情には確かな確信が宿っていた。
「あの家も、この家も、元々は誰かが用意してくれた場所だった。……でもそれってさ、言ってみれば“借り物”だよね。誰かの理想の延長に、僕たちが乗ってるだけっていうか……。それじゃ、僕たち自身がどこにもいない気がしてさ」
存在は、黙ってその言葉を聞いていた。
以前の彼女なら、きっとそういう感情の話に戸惑っていたに違いない。けれど今の彼女は、ちゃんと理解しようとしてくれている。
「だから、僕たちだけの理想を、ありったけ詰め込んでさ。自分たちの場所を作るんだ。誰にも決められない、僕たちの自由で」
「……私の、好きなものを?」
小さく問い返すように存在がつぶやく。
男はうなずきながら、さらにペンを走らせた。
「そうさ。広い部屋に、好きなだけ光を入れて——君が、いつまでも眠れるような大きな窓をつけるんだ」
存在が一度まばたきをした。
「それから、食べ物を育てられる場所も。君の好きな果物を、庭でたくさん実らせてさ。朝起きたら、ふたりで一緒に収穫して、ふたりで作った料理を食べる……そんな日々を過ごすんだよ」
ペンが止まらない。羽根のように軽く、想像が紙の上を踊る。
すでに設計とは呼べない、線の海。窓は巨大に、庭は果樹園のように、部屋は幾つも重なりあって、形を成していない。
でもそこには、確かに“未来”が描かれていた。
「はじめから用意されたものじゃなくて、自分たちの好きで、満たしたいんだ」
ペンの動きを止め、男は存在に目を向ける。
「きっと、意味のある幸せになる。……そう、思うんだ。君と一緒なら」
その言葉は、迷いなく。彼の目はまっすぐに存在を見つめていた。
よくわからないけど、今の彼の言葉が気持ちよかった。なぜか胸があたたかくなる。
存在は、ほんの少し唇を開き、何かを言おうとした。
でもすぐには言葉が出てこなかった。
それでも、ゆっくりと——本当に、ゆっくりと、笑った。
「……いいかもしれないわね。それって、楽しそう」
その笑顔には、以前のような曖昧な微笑ではなく、確かな感情の色が宿っていた。
「うん、一緒に考えよう」
男は手元の紙を見て、はにかんだように笑う。
理想を詰め込んだあまり、紙はぐしゃぐしゃ。もはや設計図というには程遠い。
「ははっ……めちゃくちゃになっちゃったな」
新たに紙を引き寄せ、ペンを握る。
今度は、彼女と一緒に描いていく未来。
「ねぇ、どんな部屋が好き? どんな色が落ち着く? 朝陽が入る部屋がいい? それとも月がよく見える場所がいい?」
男が問いかけるたび、存在は少しずつ答えていった。
最初は短い単語だけ。でも、そのうちに、言葉はふくらみ、部屋はふくらみ、家はまた一歩、形を持ち始めた。
広さも、かたちも、何もかも不格好な設計図。
だが、そこには確かにふたりの時間と想いが宿っていた。
紙の上に、ふたりの未来が詰まっていく。
それは、まだ遠く不確かで、それでも愛おしい、ふたりだけの“はじまり”だった。




