毒
「はぁあぁぁっ! てやぁぁ! くっ……!」
叫び声と荒い息とともに、男は必死に剣を魔物へと突き出していた。
深い森を抜ける道中、周囲の空気が急激に重たくなったかと思うと、突然目の前に現れたのは、四足歩行の、旅人たちの間ではよく出くわすとされるお馴染みの魔物だった。それは一般的な旅人や冒険者にとっても、いわば手頃な「最初の関門」のようなものだ。
しかし、魔法をたいして使えず戦闘能力が低い僕にとっては、それだけでも十分に命がけの難関だった。仕事で旅をするときには、時折腕利きの冒険者を護衛として雇うこともあった。
最低限の護身として剣の扱いを学んではいたものの、戦術の基本はあくまで「避けること」であり「逃げること」だ。そういう意味では、実戦よりも逃走の術のほうがよほど得意だったかもしれない。
だが、今の僕には後ろに退くわけにいかない理由があった。なぜなら、すぐ背後で自分を見守る「妻」の姿があったからだ。
――なんて、彼女の前で少しでも男らしい格好いい姿を見せたかったのだが、現実はそう甘くはない。
後ろの木陰で佇む存在は、まるで初めて出会ったときを彷彿とさせるような、薄気味悪くて冷ややかな笑みを浮かべながら、その戦いをただ静かに眺めているだけだった。
(まあ、手助けしてくれるわけないか。むしろ、僕が苦戦して滑稽に暴れている様を面白がって観察しているんだろうなぁ……)
「……ふうん。そう。弱いもの同士が必死にじゃれ合って、なんとも滑稽ね」
まったく、彼女の言う通りだった。存在は高みの見物とばかりに、男の無様な様子を冷ややかに見下ろしているのだ。
このままでは押し切られると悟った男は、懐のポケットから小さなガラス瓶を取り出すと、中に満たされた謎の液体を自身の剣の刃へと数滴垂らした。それは、特定の魔力に反応して特殊な作用を引き起こす仕掛けが施されたものだった。
男の微細な魔力が瓶の液剤に呼応するように伝わると、ただの剣がみるみるうちに紅く輝き出し、ごうごうと猛々しい炎を纏った。
(なに……、あれは何なの?)
突然発生した炎の熱と圧倒的な気配に恐怖したのか、魔物は思わず一歩後ろへと身を引いた。男はその隙を逃さず、追随するように炎の剣を振り抜き、手応えと共にその肉を深く切り裂いた。魔物は断末魔の悲鳴を残したまま、その場でピクリとも動かなくなった。
「……ねぇ、さっきの剣に垂らした液体は何なの? ちっぽけなものだけど、たしかに魔力の反応を感じ取れたけれど」
「これかい? これは『魔装瓶』っていってね、人間の魔力にごくわずかに反応して、色々な魔法の現象を起こしてくれる優れものなんだ。細かい仕組みや原理は、専門の科学者じゃないと分からないみたいだけどね」
戦闘の緊張と疲労で全身汗だくになり、息を切らした男は、その場に崩れ込むように近くの太い木へと背中をもたれかけさせた。
その、わずかな気の緩みだった。
「――動きなさい! 何か来るわ!」
存在が鋭く声を張り上げるよりも早く、鬱蒼とした茂みの隙間から、禍々しい黒い影が凄まじい勢いで飛び出してきた。
ねっとりと濁った瞳、ぎらりと光る鋭い牙、そして体表をぬらりと滑る硬い鱗――それは、ひとたび噛まれれば命を脅かすと言われる、猛毒を持つ危険な蛇型の魔物だった。
男は咄嗟に反応し、剣を抜き放って必死に応戦した。
短いが、息もつかせぬほど激しい攻防の末、どうにか刃が魔物の分厚い喉元を浅く裂いた。
だが、その致命傷の直後、死に物狂いで暴れた魔物の太い尾が、鋭い鞭のようにしなって男の脇腹を激しくかすめた。
「っく……!」
それは、服が破れる程度のかすり傷に見えた。
だが、魔物の牙や尾に含まれていた猛毒は、彼の皮膚の裂け目から侵入し、静かに、そして確実に体内へと回り始めていた。
「だ、大丈夫……だよ。ちょっと痛むけど……すぐに治癒魔法を使えば、なんとかなるさ……」
そう言いかけた瞬間、男の膝からガクリと力が抜け、その場に崩れ落ちた。急速に呼吸が浅くなり、青ざめた額には大粒の脂汗がにじみ出ている。
存在はすぐさま男の傍らへと歩み寄り、その胸元にそっと手をかざして治癒の魔力を注ぎ込んだ。
彼女の放つ高次の治癒魔法は、確かに男の激痛をいくらか和らげ、意識の糸がプツリと切れるのを繋ぎ止める役には立った。けれど、それだけだった。彼女の魔法は肉体の損傷を塞ぐことはできても、血管を巡る毒そのものを無力化することはできなかったのだ。
「……君は治癒魔法を万能なものだと誤解しているようね。毒というのは、ただの傷とは違う。治癒魔法では、毒そのものを消し去ることはできないわ。……少し、じっとしなさい」
みるみるうちに男の体温が奪われ、急速に低下していくのが分かった。吐き出す息は白く、全身の震えが止まらない。顔色は血の気が引いて真っ青だった。
存在はしばらくのあいだ、男の苦しそうに歪んだ顔をじっと見つめながら、彼の体内で猛威を振るう毒の構造を細かく解析していたが、やがて何かを決意したようにスッと立ち上がった。
「……毒の構成と仕組みが分かったわ。じっと待っていなさい。すぐに戻るわよ」
彼女は倒れた男の周囲の空間に手を向け、幾重もの魔力の壁を織り上げ、外敵から身を守るための頑丈な「籠」のような結界を瞬く間に構築した。
そして、一切の迷いなく、周囲の薄暗い森の奥へとその身を投じた。
目を閉じ、自らの持つ膨大な感知の魔力を霧のように霧散させ、森の隅々まで一気に広げる。毒の作用を打ち消す特殊な薬草が自生している場所の気配を、瞬時にその脳裏へと捉えた。
地上を歩くことすらもどかしく、彼女はふわりと身体を浮遊させ、鬱蒼とした木々の頭上からその薬草のありかへと矢の如く飛翔した。
夜の帳が急速に下りつつある深い森の中。
存在は黙々と足元の草木を掻き分け、葉の匂いを嗅ぎ、薬草の持つ性質を一つひとつ感知しながら探し続けた。
(……この草の成分は違う。こっちは同じ解毒でも作用が強すぎるわね。おそらく、人間が口にしたら命を落とすことになる……)
夜の気配が、いよいよ本格的に辺りを包み込もうとしていた。
不気味な虫の音、木々を揺らす風のうねり。夜の冷気をたっぷりと孕んだ湿った空気が、彼女の肌を冷たく撫でていく。
(……私は一体、なぜこんなことをしているの?)
その思考の浮上と同時に、私の中にこれまで一度も感じたことのない、得体の知れない「違和感」がざわめいた。
これまでの長い永い年月において、人間のような下等な外敵を返り討ちにして倒すことはあっても、誰かの命を繋ぎ止めるために自ら動き回るなど、そんな面倒なことをした記憶は一度すらなかった。
ましてや、“自分以外の生き物”、しかもほんの気まぐれで生かしたはずの“人間の”命を生かすためになど。
あくまで彼は、命乞いから始まった不格好な契約の相手であり、退屈を紛らわすための少しばかり面白い観察対象でしかなかったはずだ。
――「妻」という、人間たちが好んで使うその呼び名の意味すら、私はいまだに本当の意味では持ち合わせていないというのに。
「……本当に、手のかかる男ね。黙ってそこで大人しく寝ていればいいものを……」
先ほど、彼が意識を失いかける間際に言い残した言葉が、なぜか耳の奥から離れなかった。
『大丈夫』と、彼は笑ってみせた。
自分のせいで私に面倒をかけているからと、これ以上心配させないための気遣いだったのか。それとも、心のどこかで、ただ単純に私に心配してほしかったからなのか。
そんな人間の複雑な感情の理由など、私に分かるはずもなかった。
理解する必要すら、本来ならないはずなのだ。
ただ――。
「……勝手に死ぬことは許さないわよ。私に五月蠅い世界を教えておいて、こんなところで終わるなんて……。せいぜい生きていなさいよ、私がその『答え』を完全に導き出すまではね」
草むらの奥で、ついに求めていた毒を中和する特効の薬草を見つけ出すと、存在は素早くそれを手で引き千切った。
そして、一切の無駄な時間を惜しむように、再び男の待つ方向へと全速力で駆け戻っていった。
「んっ……。はぁ……」
静まり返った夜の野営地、赤々と燃える焚き火のそばで、男は苦しげに荒い息を吐き出していた。
投与された薬草が効いたのか、全身を蝕んでいた毒の熱はすでに引き始めていたが、まだ体の芯は重く、喉の奥は焼けたようにひどく渇いていた。それでも、朦朧としていた意識はしっかりと現実に戻ってきていた。
「……そうだ、あのとき、薬草を煎じた汁を無理やり飲まされて……それから気を失ったんだっけ……」
ふと視線を横に向けると、焚き火の柔らかな明かりの残る傍らに、存在が静かに腰を下ろしていた。眠っているわけではないようだったが、その切れ長の瞳はどこか遠くの闇を見つめていた。
「……ねぇ、君、ずっとそこにいてくれたのかい。……おかげで、薬草がしっかり効いたみたいだ。助けてくれて、ありがとう」
その言葉を聞いても、存在はすぐに返事をしようとはしなかった。ただ、ほんの一瞬だけ、じっとこちらに視線を向けた。
その冷徹なはずの瞳の奥に、いつもとは違う名状しがたい揺らぎが走っていることに、男はぼんやりとした頭でもしっかりと気づいていた。
「……なんだか、少しおかしいのよ」
静寂の中で、存在がぽつりと呟いた。
「私が助けた。君が、まだ死なずに生きている。……ただそれだけの、大したことのない結果のはずなのに。どうしてこんなに、自分の胸の奥がざわついて落ち着かないのかしら。まったく、意味がわからないわ」
面倒くさいことに巻き込まれるくらいなら、いっそ見捨ててしまえばよかったはずだ。なのに、実際に下した結果は、自分にとってさらに厄介で複雑な感情の澱を胸に残すことになった。この苛立ちは何なのだろうか――いや、それはただの怒りなどではない。胸の奥から離れない、もっと別の何かだった。
男は痛む体をかばうようにゆっくりと上体を起こし、薪がパチパチと心地よくはぜる音を聞きながら、小さく息をついた。
「……たぶんそれはね、君の心のなかに、新しい『何か』が芽生えているからなんだと思うよ。まだ自分でも名前がつけられなくて、うまく言葉にもできないものかもしれない。だけど確実に、君はその感情に意味を見出そうとしているんだよ」
その言葉を聞いても、存在はすぐにそれを理解しようとはしなかった。
ただ、彼の意見を否定するわけでも肯定するわけでもなく、静かに黙りこくったままだった。
「僕はね……こうして君に助けられて、心の底から嬉しかったんだ。正直に言えば、冷たく見捨てられるんじゃないかって、心のどこかではずっと不安だったからね。だから、こうしてまだ君の隣で息をしていて、生きていられることが、ただただ嬉しいんだよ」
パチパチと爆ぜる焚き火の赤い光が、男の青ざめた横顔を温かく照らし出している。いや、照らし出しているのは炎の光だけではない。男の胸の奥で、確かな「新たな火」が再び燃え上がったのだ。
「ずっと、君のことを『妻』って呼んできたけれどさ……正直に白状すると、最初は半分以上が自分に対する言い聞かせみたいなものだったんだ。僕の――いや、もっと言えば『人間』が定義する『妻』っていう都合のいい形に、君を無理やり当てはめようとしていただけだったのかもしれない」
男は、どこか気恥ずかしそうに自嘲気味に笑った。
「でも、今は違うんだ。形だけの肩書なんかじゃなくて、これからも君と一緒に歩いていきたいと思う『理由』を、僕はほんの少しだけ知ることができた気がするから。君がもし、これからもこうして心を揺らすことがあるのなら……僕はその瞬間を、ずっと隣で見守っていたいんだ」
「……そんなもの、いつか永遠なんてものはなく、唐突になくなってしまうかもしれないのに?」
「それでもいいさ。今、この瞬間にちゃんとここにあるっていう事実が、僕にとっては一番大事なんだから」
存在は、またしても言葉を失ったように黙り込んだ。
けれど、その真っ白な指先は、知らず知らずのうちに膝の上で小さく、しかし細かく震えるように動いていた。それはまるで、自分の中に生まれたばかりの言葉にならない感情を、手探りで確かめようとしているかのように。
「……少しだけね。これからは、ちゃんと君のことを『妻』って呼びたいって思ったんだ。誰かに見せるための形じゃなくて、本当の意味での、ふたりの関係としてね」
「……馬鹿みたい。そんなもの、何の保証もないし、永遠の永続性すらないというのに」
「うん、ほんと、自分でも馬鹿みたいだと思うよ。でもさ……そういう先の見えない不確かなものを信じたくなるのが――『人間』ってものなのさ」
焚き火の火勢が小さく弱まり、静かな夜の帳の隙間から、新しい朝の柔らかな光が木々の葉を揺らして差し込んできた。
その光は、昨夜までの冷たい闇を溶かすように、どこまでも優しく、温かな色をしていた。




