落とし物
町を通り過ぎてから、果たしてどれほどの日の暮れを迎えただろうか。
気づけば、幾重もの異なる風景が自分の後ろへと流れ去っていくのを、存在は感じていた。
振り返るべき過去など持たないはずの彼女の脳裏に、かつてなら一瞥すらされずに消えていったはずの光景が、不思議と鮮明に対比として浮かび上がってくる。これまでの長い生において、山も、川も、森も、ただ無機質に過ぎゆく「現象」でしかなかった。
だが、今――あの男の歩幅に合わせて並び、共に一歩ずつ踏みしめているこの道程だけは、確かに彼女の「記憶」という名の刻印として深く定着していく感覚があった。
「ねぇ。君の故郷までは、まだどれほどの距離があるの?」
「そうだね……君の感覚からしたら大した時間じゃないかもしれないけど、ちょうど旅の真ん中、折り返し地点といったところかな。この先のもう少し先に大きめの都市があるんだけど、そこでね、君にちょっとした面白い贈り物を渡そうと思っているんだ」
彼はニコリと、何か愉快な企みを隠しているような、含みのある笑みを浮かべた。
幾度となく見飽きたはずの、男のその表情。それは彼女の胸の内に、またしても未知のざわめきを引き起こす予兆――いや、もはや確信に近いものだった。
「わざわざこんな不便な距離を歩いて、森へやってきたの?」
「いや、行きは馬車を使ったりもしたよ。ただ、こうして自分の足で長い旅をするのはこれが初めてだったんだ。旅ってやつにはやっぱり危険もつきものでさ、この先は少しずつ魔物が出没する地域に入っていく。僕は魔法なんてまったく使えないし、身を守るために最低限の護身術を習ったくらいだからね。……でも、まぁ今は『最強の妻』が隣で守ってくれるって期待できるから、すごく安心な帰り道になったよ」
ここまでの道は人々にしっかりと整備され、いわば人間の管理地と言っても過言ではなかった。しかし、人間の手が届かない場所や、どうしてもうまく舗装しきれない険しい土地も存在する。そういう境界の領域には、残忍な魔物たちが頻繁に姿を現すものだ。
「自分の妻を盾にするような夫がいるなんてね。よほど甲斐性なしの、情けない男だとしか言いようがないわね」
「それなら、そんな風に頼りないながらも、必死に君を守ろうとする僕の無様な姿を、どうか御高いところから面白おかしく眺めててよ」
険しい山道を越えようかという頃、行商人の男性と出会ったのは、峠の風をよける小さな木造の小屋のそばだった。
大きな木箱を背負い、年季の入った手製の荷車を引いた中年の男。山間を行き来しながら、日用品や小さな品々を売り歩いて生計を立てているという。
「おや、たくましい男に綺麗な女の子だ。よかったら、次の峠まで一緒に連れて行ってもくれないか? 人が多いほうが魔物よけにもなるし、なにより久々の山道で話し相手がほしかったんだよ」
男は「いいですよ」と、あっさりとその誘いを受け入れた。
存在は小さく眉をひそめてみせたが、特に反対の声を上げることはしなかった。
道中、行商人は本当によく喋った。長年の商売で培った人生経験を感じさせる、自然体で軽妙な振る舞い。
自分には可愛い娘が二人いること。妻を若くして亡くしてからは男手一つで育て上げたこと。どの季節にどの商品が売れるのか、そして風の匂いで天気を当てるコツ。
そんな話をしながらも、行商人は時折、チラチラと傍らを歩く存在のほうに視線を送っていた。何か話しかけたそうではあったが、隣にいる男の手前と、これまでの人生経験から培った勘で、絶妙な話しかけ時を慎重に見計らっているようだった。
一方の男はというと、なぜかいつもより少しだけ饒舌になっていた。
「彼女はね、僕の妻なんだ……。ほら、普段はあまり自分からペラペラ喋らない人なんだけど、すごく気が利いて、いざというときは頼りになるんだよ。ねぇ、見た目だって……すごく綺麗だろう?」
「ほぉっ! こりゃあ実に気立ての良さそうな、凛とした奥さんだ! いやぁ若い若いとは思っていたが、一体おいくつなんだい?」
その質問に、存在の端整な眉がぴくりと微かに動いた。
男は一瞬間を置き、慌てて言葉を探した。見た目は確かに若々しいが、彼女の正確な生きた年数など、彼自身も聞いたことがなかった。そもそも存在が自身の過去や年齢を微塵も気にしておらず、無理にその古い記憶を掘り起こすような真似をすれば、彼女の機嫌を損ねてしまうと直感的に察知したからだ。
「あはは、えっと……その、見た目よりもずっと年上かなぁ! でも、精神的な年齢で言ったら、たぶん僕なんかより何百歳……いや、もっと大人かもしれないな。僕なんかじゃ足元にも及ばないくらい、ずっと物知りだし頼りになるんだよ」
「なんとっ! こりゃ一本取られたな! いやぁ旦那さん、こりゃすっかり尻に敷かれてるんじゃないのかい?」
「敷かれてるよ、おかげで背筋が伸びて、歩く姿勢もすごく良くなったんだ」
山道に響く、和やかな笑い声。
その温かな空気の中に包まれながらも、存在はただ黙って歩き続けていた。
“妻”という、人間たちが勝手に作り上げた形式的な単語にも。
そして“年齢”という、時の流れに縛られた者たちの無意味な問いにも。
いまの彼女は、どこか遠い世界の出来事を聞いているかのように、ひどく穏やかな気持で、ただその響きを受け止めていた。
その夜のことだった。
道中で選んだ草地の野営地で静かに休んでいると、突然、行商人が青ざめた顔で慌てふためき、周囲の草むらを必死の様子で探し回りはじめた。
「困った……ない、どこにもないぞ。どうしよう……あの、亡くなった妻の形見だったんだ。いつも肌身離さず持っていたはずなのに……っ!」
その必死な焦燥の声を耳にして、男はパッと立ち上がり、傍らに座る存在の方へと振り返った。
「ねぇ、君がいつも森で僕を見張るために展開していた、あの精度の高い感知魔法があったろ? あれを使って、どうにかそのブローチを見つけ出すことはできないかな」
「……は? どうしてそんなことをしなくちゃいけないの。この世界に装飾品なんていくらでもあるでしょう。また別のものを買えばいいだけの話よ」
「たとえ代わりがあったって、そんな問題じゃないんだよ。きっとあの人にとっては、お金じゃ買えない何よりも大事な思い出の品なんだ。だから……頼むよ、力になってあげてくれ……っ!」
見ず知らずの他人のために、頭を下げて必死に懇願する男の姿は、冷徹な彼女の目から見れば不格好で、見るに堪えないほど無様だった。
「……少し、静かにしていなさいよ」
存在は小さく息を吐き出すと、すらりとした指先をスッと空間に掲げた。
その指先から放たれた微細な魔力が周囲の空気を優しく揺らし、淡く光る蜘蛛の糸のような細い探索の軌跡が、夜の闇深い森の奥へとスーッと伸びていく。
風の流動を読み解き、わずかな気配を捕らえ、人間の記憶にある金属の「形」の残響を辿る。
古い木の根の隙間に引っかかっていた小さなブローチの波長を捉えるまで、わずか数秒もかからなかった。
「……これでしょ」
彼女は周囲が息を呑むのも構わず、明かりのない漆黒の森の奥へと、まるで昼間の散歩道のように一切の躊躇いもなく足を進めた。そして、すぐに見つけ出したそれを拾い上げ、何食わぬ顔で野営地へと戻ってくる。
戻るやいなや、存在は無造作に行商人の足元へそれを放り出すように差し出した。
行商人は地面に転がった小さな輝きを見て、信じられないものを見るように目を丸く見開いた。
「おぉ……っ! ほんとうに、本当に出てきた……! いやぁ、本当にありがとう、奥さん! 君がいなかったら、この大事な形見は一生見つからなかったよ……っ!」
その言葉を聞いた瞬間、存在は思わず言葉に詰まった。
「ありがとう」――その響きが耳に届いたとき、なぜか胸の奥がざわつき、苛立ちにも似た奇妙な違和感がひやりと心を掠めた。
(……どうして、私にそんな言葉を言うのよ。これは……ただの魔力を使ったちょっとした作業にすぎないのに)
戸惑う彼女に向かって、行商人がさらに頭を下げる。
「奥さん?」
「……うるさいわね。次からはもっと気をつけなさいよ。落し物なんて、後始末が面倒くさいだけなんだから」
「あ、はい……すみません……」
その隣で、男はまるで自分の手柄であるかのように威風堂々と胸を張り、ニヤリと得意げに笑っていた。
「すごいだろ、うちの妻は。頼りになって本当に便利でしょ」
「……便利って、何よ、それ」
存在は腹立たしさを紛らわせるように、男の足のつま先を、靴でさりげなく、しかししっかりと踏みつけた。
「いてっ……!!」
男は小さく間抜けな悲鳴を上げ、その場でうずくまりそうになったが、彼女の冷ややかな視線を察して、それ以上は慌てて口をつぐんだ。
その夜遅く、行商人が寝静まり、男と二人きりになった後。
揺らめく焚き火の明るさをぼんやりと見つめながら、存在は、ずっと喉につかえていた疑問をぽつりと言の葉にした。
「さっきの男……“ありがとう”って、あんな風に……どうしてわざわざ言うのかしら」
「……ん? そりゃあ、感謝の気持ちを相手に伝えるためだよ」
「気持ち? それなら、言葉にしなくても、相手の心にちゃんと気持ちが伝わっているなら、そんな挨拶なんて要らないのじゃないの?」
「ううん、違うな。言葉ってのはね、目に見えない心を見せるための大切な手段なんだよ。人の気持ちってさ、自分ひとりの胸の内で感じているだけじゃなくて、こうして言葉にして誰かに伝えることで、初めて動いていくものなんだからさ」
その言葉を聞いて、存在はふっと口をつぐみ、それ以上何も言わなくなった。
“ありがとう”というたった一言の響きが、人の心を動かす。
これまでの長い永い生涯の中で、誰からもそんな言葉を向けられたこともなければ、自分の心が動かされたことなど一度すらなかったというのに――。
言葉が、夜の静寂の中にいつまでも残っている。
さきほど指先に触れた、あのブローチのひんやりとした冷たさの余韻と一緒に。
それは彼女にとって、本当に「ただのちょっとした手伝い」などではなかったのかもしれない。
ただ、その変化の意味を、彼女自身がまだ自分の言葉でうまく理解できていないだけで。




