07
僕は海に行こうと思った。
自転車なら2時間ほど走れば近場の海水浴場に辿り着く筈だった。
誰もいなくなったとはいえ季節は例年通りであるようだったし、夏の季節の毎日が好天に恵まれるわけでもない。
誰がいようといまいと、夏の海を眺めに行く事を遠慮する理由はない筈だ。
もちろん安アパートのある街から離れた場所の様子を自分の目で確かめておきたいという目的もあった。1ヶ月近くの間にあちこち見て回ったつもりだが、自分の住む安アパートを中心にした行動範囲だけだったとも言える。
大体このような奇妙な状況がいつまでも続くとも思えない。突然誰もいなくなったように、突然元の日常が戻ってくるかもしれない。理由も原因もわからないので、元に戻る日は1週間後かもしれないし明日かもしれない。元に戻ってからこの状況のうちにしておけばよかったと後悔するのも愚かしいように思えた。貯金も無く無職の中年だからという引け目で安アパートに引き篭もる事に意味は無くなったのだ。
相変わらず自転車のペダルは重く感じたが、消えた信号機の並ぶ道路の真ん中を走るのは気分が良かった。もし街に人が戻ってきたら貯金を切り崩してでも自転車を買おうとさえ思った。日差しに焼きつくアスファルトの匂いが夏を感じさせた。どこか懐かしい匂いだった。排気ガスの無い街の空気がこれほど爽快に感じられるとは思わなかった。
落ち葉の舞う雑木林の脇の坂道を上りきれば、あとは海までの緩やかな下り坂だった。
休まず走ったので2時間もかからず海に辿り着きそうだった。途中に何箇所か不法侵入したい建物があったが、それは帰り道で立ち寄ろうと思った。誰も見かけないのに迷子になったら大変だからだ。
坂道を登りきると潮風が漂ってきた。潮風の匂いは海からかなり離れた場所でも感じられたが、その匂いの輪郭が一気に明瞭になった。あまり高低差がないので水平線は見えなかったが、海が間近に感じられた。
公道から海水浴場に続く未舗装の道を走りながら、僕はふと幼少の頃の光景を思いだした。
多分まだ幼稚園に通う前の頃だっただろうと思う。板張りの海の家を後ろから見上げのその壁に打ち付けられたホーロー製のコカ・コーラの看板を眺めた。筆記体のレタリングの看板の角はペンキが剥がれて赤錆が浮いていた。幼かった僕はその看板に非日常の気分を感じた。
そして海の家の横を抜け、焼けた砂浜の熱気の向こうに海が広がっていた。濃い青色の夏空と、その濃い青を更に凝縮したような青い海だった。僕は親に見守られながら波打ち際で遊んだと思うが、そのあたりの記憶はとても曖昧だった。
そんな感慨に耽りながら僕は砂浜で進めなくなった自転車を置いて、海の家の横を通り抜けて浜辺に出た。
焼けた砂の匂いは昔の思い出に似てはいたが、波打ち際には流木が連なっていて、海の青さはどこか不自然なほど透き通っていた。
(海開き前の清掃作業をしないまま夏になったという感じだな)
僕は少しばかり落胆したが、透き通った海の美しさはなかなかのものだった。まるで海外のリゾート地のような澄み切った海だった。
(何か冷たいものが……冷えた炭酸が飲みたい)
夏の気分でコーラを飲みたかったし、よく冷えたビールも飲みたかった。
折角の海なのだから焚き火をして焼肉やバーベキューを堪能したい気分でもあった。
しかし人がいなくなってからの1ヶ月近くの停電で冷たいものと生鮮食品は望んでも得られないものになっていた。コンビニに置いてあった野菜はどれも乾燥していたし、レトルト食品も殆どのものは常温では長持ちしないだろう。
(バニラアイスが食べたい。アイスキャンディーが食べたい。高級なものじゃなく、昔ながらの普通のアイスが食べたい)
閉まったままの海の家の日陰にしゃがみこんで、僕は煙草に火をつけた。
多分、40代半ば過ぎの僕が生まれる10年前か20年前には冷蔵庫はそれほど普及していなかったと思うし、冷凍異なればなお珍しいものだったのではと思う。そういった昔の時代にはどうやってアイスクリームを作っていたのだろう? 氷売りの行商はどこで氷を作っていたのだろう? そういった事は教科書には書いていなかったと思うし、映画で描かれる昭和レトロの小道具でしか知らない。
もし僕がきちんと考えて仕事に勤しみ何も失敗せずにいたら、結婚して家族連れでこの海に来ていたかもしれない。そしていま僕が見ている景色を子供の記憶に残っていたのかもしれない。しかし僕は一人きりで、それは街から人がいなくなった事とは関係なく、ただ僕は一人きりだった。
では僕は不景気の90年代に何回失敗しなければ幸せな家庭を築ける可能性があったのだろうか?と考えてみたが、どう考えても一度でも失敗したら無理だったようにしか思えない。席数の足りない椅子取りゲームに大勢が群がっている時に何度も立ち上がってしまうようなものだ。座った椅子にはしがみつかなければならなかったのだ。その行為を若い頃には醜悪に思ったりみっともなく思ったりしてしまいがちで、僕の落ちぶれた原因ももっと良い椅子がある筈だと勘違いしていたところにある。
煙草の味に乾いた砂が混ざった。髪の毛も潮風で砂っぽく感じる。
アイスを食べて、風呂に入って、ビールを飲みたい。
夏の暑さを全身で堪能し呆けた後、ふと周囲を見渡して違和感を感じた。
海開きの準備もされていない海水浴場だからか、海の家が並ぶ一角に落葉が吹き溜まりになって山のようになっていた。潮風でカサカサと乾いた音を立てていた。落葉など珍しいものではないが、何かが変だ。
しばらく考えてみたが違和感の正体がわからず、再び煙草に火をつけて他の事を考えようとした。風に乗って足元に飛んで来た落ち葉を手に取り、しばらく眺めた。
「……どうして落葉が緑色なんだ?」
緑色の落葉はすっかり乾燥していて、指で曲げるとパキッと割れた。焚き火をすればさぞかしよく燃える事だろう……まるで秋にやる落葉炊きのように。
そういえば街のあちこちを自転車で走っていた時にもあちこちで落葉が舞っていたし、その葉は緑色だった。まるでドライフラワーのような色で、紅葉してはいなかった。
(もしかしたら本当に放射能や細菌兵器が広まっているのかもしれない)
その可能性は背筋が凍りつくような恐ろしいものだった。こうして安穏と海までサイクリングしている僕も放射能やウィルスで突然倒れるかもしれない。
……そう思いつつ、落ち着こうと煙草を吸い込み、そして(呑気に煙草を吸っていて放射能が怖いというのも変な話だ)と思った。煙草は健康に悪いというのが定説になっていて、大震災の時でさえ放射能の危険を煙草の健康被害と比較する論調が山のようにあった。ならば日本人の大半が煙草を吸っていた世代が元気に高齢化社会になっている事と辻褄が合わない。煙草で寿命が縮むなら社会保障費や年金の数字に表れる筈なのに、僕が社会人になった頃から続く禁煙ブームの成果は四半世紀経っても出ていない。「煙草葉健康に悪い」という恐怖心が冷静な判断力を奪っているのだろう。もちろん煙草が健康に良いものとも思えないが。
落ち着いて考えれば、放射能やウィルスが原因で街に人がいないのなら、街のあちこちは死体だらけになっているだろうし、僕だけ無事でいる事の説明もつかない。
改めて海を眺めてみたが、綺麗に見えた海もいまや映画「ヘヴンズ・ドア」を想起させるだけのものだった。誰も見かけなくなった世界はとても天国とは思えないし、誰もいないのだから海の話をしている者もいない。
どうにも居心地が悪いので僕は早々に海から離れる事にした。
帰り道で雑木林の脇の坂道を上りながら、木々の殆どの青葉が落ちている事に気付いた。潮風に吹かれて葉が落ちた海側の木々は枯れ木のようになっていたのだ。
(何が起きているのかもっと考えなきゃ駄目だ。しかし先ずは帰ろう。道に迷えば日が沈む前に帰れなくなる)
途中、雑木林の奥に何かの影が見えた気がした。それは公園で見た歪んだ丸い影を思い出させたが、自転車で走っている最中に横目で見ただけなので見間違いかもしれない。