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モバイルバッテリーで充電したスマートフォンの電源を入れると、10月下旬の日付だった。
時間は安物の腕時計とは数分の差があり、もはや正確な時間はわからなかった。
この数週間はあちこちの店を物色して冬支度と人探しの両方の準備をしていた。移動手段は自転車なのであまり大きな荷物は運べない。
運転免許を持たない僕だが密かに自動車を動かそうとした。静かな街に響くエンジンの始動音に不安を感じながら路上駐車の車に乗り込みキーを回したが結局エンジンはかからなかった。どうやらこの4ヶ月以上の間にバッテリーが上がったようだ。鍵の見当たらないリモコン式の車も多く自動車は諦める事にした。荷物を運ぶには車のほうが便利だが人探しには不便であろうし無免許運転では人影に気付く余裕も無いだろう。
店から持ち帰ったものを整理しながら、大量のゴミをあちこちのゴミステーションに分けて置き捨てた。一応ゴミの分別はしておいたが回収されないゴミを一箇所にまとめて捨てるわけにはいかない。結局かなり遠くのゴミステーションまで捨てに行く事となり、かなりの時間を費やす事となった。
食事は肉や野菜に困る事はなくなったが、なかなか慣れなかった。
肉も野菜も腐らないし虫も湧かなかったが、肉の鉄分が酸化して嫌な臭いを発したり、ジャガイモの芽や青みが乾燥してわからなくなり腹痛になる事が何度かあった。
また僕は良からぬ事も頻繁に考えていた。元の状態に戻った時の事を考えるといまのうちに様々なものを……つまりは金目のものを盗んでおくべきではないかと何度も何度も考えた。
既に僕はコンビニに留まらず様々なものを盗み出している。必要なものを仕方が無く盗んでいるつもりだが、盗まれた側にとっては盗んだ側の事情など関係ない事だ。ならば偽善者ぶらず泥棒として開き直って金目のものを盗んでも同じ事ではないか。
その良からぬ考えで、一軒家に不法侵入した時に財布を見つけ中身の札を抜き取りかけた事がある。1万円札が束になっている財布から何枚か、もしくは全部を抜き取ろうと思って軍手をはいた指を財布に滑り込ませた。これだけ金を持っていながら何処かに姿を消したのだから盗まれてもしかたがないだろうなどと考え、ふと自分がどれほど醜悪な姿をしているのかを考えて思い留まった。その時の僕は街に誰もいないという事とは関係ないただの火事場泥棒だった。止める者や裁く者がいないからといって不要な悪事をしていいわけがない。僕は財布を元の場所に戻した。どうせ金を取っても元に戻らなければ使う相手もいないのだ。道徳心によって火事場泥棒をやめたというより自分自身への嫌悪感でやめただけだったが、それ以降は店から物を盗る時にも余計なものを取らないようにしている。
冬支度の為の蓄えを確保する事と、何処かにいる誰かを見つけ出す為の旅に出る準備の両方をしながら、僕は毎日忙しく自転車で街を走り回った。街から人がいなくなった状況で何が必要で何がそうではないかというマニュアルは無いので、店から商品を拝借する時には常に本当に必要かどうかで悩む事となった。既にあるもので対処できるかもしれないし、持ち運ぶのが大変でも不可欠なものかもしれない。
何度か安アパートではなく気密性の高い新築の一軒屋に移り住む事も考えた。街の全てが空き家なのだから問題はない筈だ。
安アパートの家賃が安いのにはもちろん理由があり、その理由は築年数の経った木造建築だからで、減価償却の済んだ木造アパートの断熱性能など無いも同然だった。僕は既に何度も安アパートの冬の冷え込みの厳しさを経験し、何度も体調と精神状態を悪くした。
ならばもっと良い部屋に移り住めばと考え実行しようと思ったのだが、他人の家はどうにも居心地が悪かった。ベッドには他人の匂いが染み込んでおり、部屋のあちこちに僕には関係の無い住人の思い出が刻まれていた。冷蔵庫に貼られたシールにさえ他人が手を触れてはいけない「この家の家族だけの思い出」が封じ込められているかに思えた。もし街がこのまま誰もいないままなのだとしたら冷蔵庫のシールが化石になるまで手を付けてはいけない気さえした。
(街に人がいようといまいと、元々一人きりの僕の何かが変わったわけじゃない)
僕は安アパートで冬を越す事に決めたが、人探しの旅に出る事はなかなか覚悟が決められなかった。
冬支度をしながら人探しの方法を考えていた頃に悪天候が続き部屋から出られない日が続いた。悪天候の中で自転車での旅は難しいだろうし、雪が積もれば尚更だ。徒歩で旅するほど若くないし、出向いた先に家屋が無ければ野宿するしかない。もっと早くに人探しをすべきだったと思ったが、街から誰もいなくなったという信じられない現実を確認するだけでも長い日数がかかったので後悔先に立たずというものだ。
なので冬は安アパートでしのぎ、その間に世の中が元に戻ればいいし、そうでなければ春になってから人を探せばいいと考えるようになった。
悪天候の中で安アパートに引き篭もっていると、気分は次第に悪化していった。結局のところ僕の生活は街から人がいなくなる前と大差なく、人目を気にせず不法侵入や火事場泥棒をした事で僕が幸せになったというわけでもない。僕はただの後先の無い孤独な中年で、街に残されたものを漁り、腐りもしない肉や野菜をハイエナのように食べる毎日なのだ。
(僕は大勢の見知らぬ誰かが残したものを漁る事しか出来ないのか)
ネガティブな感情が次々と湧いて脳裏にこびりついた。もっと出来る事は無いのか、どうしてもっと学んでこなかったのか、このまま死ぬまでこんな日々が続くのだろうか、僕は一体どうすればいいのだろうか。
もちろんこんな非現実的な現実に際して用意された正解など無いだろうが、考えずにはいられなかったし、考える事しか出来なかった。
呆れる事に悪天候が過ぎ青空が見えると僕の陰鬱な気分もあっさりと晴れた。
(冬の間は陰鬱な気分の日々が数ヶ月続くかもしれない)
よく考えればこんな状況を4ヶ月も続けて発狂していない僕は結構ふてぶてしい人間なのかもしれないと思った。
朝のコーヒーを飲み、何処に出かけるかを考え、身支度をして安アパートから出かけようと玄関を開けると、黒い影が見えた。
歪んだ丸い影だった。
僕は硬直して動けなくなり、ただ影を見つめた。
歪んだ丸い影は朝日の光とは無関係にアパートの通路の床と壁に張り付いていた。動いていないように見えたが、よく見るとゆっくりと微妙に形を変えている。そして映画「ターミネーター2」の液体金属のようにするりと移動し、再び動いているのかわからない状態になった。
僕は息を殺して部屋に戻ろうとした。足が震え、手も震えた。掴んでいるドアノブの感触がわからなくなるほどの恐怖心が僕の身体の自由を奪っていた。僕は何とか体重のかかった軸足を持ち上げ部屋に戻した。音を立てないように動こうとして何かを蹴飛ばしガタガタと音が響いた。しかし歪んだ黒い影は音には反応せずゆっくりと微妙に形を変えただけだった。
玄関に戻った僕はゆっくりとドアを閉めた。
歪んだ丸い影は音にも振動にも反応しなかった。
ただ何かを探しているように蠢いていた。
部屋に戻った僕はドアの覗き穴から様子を伺った。
影は次第に僕の部屋のほうに近付いてきたが、ドアの前の床の辺りは覗き穴からはよく見えない。影は無関係のほうに動いた後に普通の物影と重なって、そして見えなくなった。
(なぜ、アパートに、影が!)
歪んだ黒い影は音にも振動にも気付かず、視覚や嗅覚も無いようだった。そもそも「影」のように見えるが本物の影とは違った「何か」で、つまり肉体も質量も持たない何かという事になる。現実とは異なるSFかファンタジーのようなものなのかもしれない。
ただ、感覚や視覚といった五感を持たない影のような何かは、やはり僕を探しているのであろう。
(あの影に見つかれば、僕も他の人達と同じように消え去ってしまうのかもしれない)
その想像の可能性は極めて高いように思えた。街から人が消えてからの4ヶ月ほどの間、意思を持って動いているのは僕の他にはあの歪んだ影だけなのだから。




