ピカピカ②
その男の三本指の左手と五本指の右手は、所狭しと鍵盤上を飛び回る。それは水の世界しか知らなかったオタマジャクシが成長し、初めて陸上にあがって飛び跳ねるカエルの子供のよう。動きに連動して大きく口を開いたピアノの中から、音がこぼれてる。
開かれたピアノの中を覗くと、切り分けられたかまぼこ(ハンマーだったかな)が張られた弦を下から叩き、これまた切り分けられた海苔巻き(ダンパーでしたよね)が跳ねて、弦を押さえる。なるほど、ピアノってこうやって音だすんだ。ここから見ると鍵盤を押してからのワンアクションがよく分かるぜ。それと鍵盤を押してる間は、ダンパーが弦に落ちず音が継続してるんだね。
構造は置いといて……リュウ君の演奏は弦音さんに負けないくらいの速弾きだ。密集した音たちがあたしの耳に飛び込んできて脳を揺らしにくる(うわ、ちょっと待って。処理しきれないって)。でも音符でおぼれて窒息死しそうになったら、いきなり息継ぎしろとばかりに緩慢なフレーズに変化。
すっご~いスロ~テンポだ~。ふう~、あくびが出ちゃうぜ~、一休み一休み~。
と、思ってたら、また盤上ではっちゃけだすリュウ君の指。それに伴って起こる、音の洪水・濁流・奔流。あたしは、そのまま流されていく。おぼれるぅ。
その後もリュウ君のピアノはスロー&ファスト演出を続け、音の湖にあたしをいざなう。立ち込めるシンフォニーは聴き手の心をつかんで離さない、混じりっけなしの名演奏です。
「ほら、ぼさっとしてないで、愛ちゃん。助っ人到着だよ」
ピアノに陶酔しているあたしを、聞き知った声が呼び覚ました。だれだよ、邪魔するのは……あ、和泉ちゃん(和服をたすき掛けしてて、粋です)。彼女はお化け屋敷で使った、黒塗り脚立をソウ君と二人で抱え、あたしの背後にいた。
「持って来てくれたんだ。重ね重ねありがとう、和泉ちゃん。あなたこそスーパーウルトラ魂マイフレンドです」
「いいってことよ。蒼様のお願いだったら、わたしが断るわけないし。こんな時に意図せずして『二人で初めての共同作業』しちゃった~。どぅふふ」
「うんうん。お似合いだよ、和泉ちゃんとソウ君」
「……愛ちゃん、いいから早く設置するよ。ほらリュウ、イスの代わり持ってきたよ、どいて」
「お、すまんね、新婚さん。祝儀は今度な」
そう言ってリュウ君は演奏を中断して立ち上がり、イスを背後へ蹴っ飛ばした。おいおい、学校の備品を手荒に扱うんじゃないよ。幕横で仁王立ちしてる、まっちゅんがこっちにらんでるぞ。あたし、知~らないっと。
脚立をイスがあった位置に立てて、一番下の細い足場にリュウ君は腰かけ、ピアノの下にあるペダルに足を当てる。あのペダルって何に使うんだろ? さっきは使ってなかったな、短足さんめ。
「おっしゃ、ピッタリだ。サンキュー、ソウちゃんとオタフクちゃん。じゃあ本気でいく」
カエル男は笑顔でそう言って、またもや鍵盤に指を走らせ始める。
先ほどの緩急織り交ぜた演奏がまたもや壇上を支配して、あたしを音の世界に再度引きずり込んだ。だけど没入度はさっきよりも段違い。なぜなら、メロディに奥行があるから。曲が平面から立体になったって感覚。浅瀬から深海だぜ。
あの足ペダルを踏むことによって、中の海苔巻き(いや、ダンパー)が指を鍵盤から離しても、浮いたままになって弦を押さえない。これで音を持続させたまま、他の鍵盤が押せるのか、納得です。ギターでいうトコの弦を時間差つけて弾く『アルペジオ』がしやすくなったみたいだ。
たった一人の演奏なのに、重なり合った音と音がバトンタッチするようにリレーをつないで、旋律を形成する。ハーモニーの厚みが増してる。音符のミルフィーユ、ドレミのヴェール、音楽の階段――なんて言えばいいのかな、いいんだ、ここで耳を傾けていれば。それだけで十分だ。
ピアノからはじけだす音波があたしのカラダを突き抜け、心を揺らし過去を蘇らせる。
苦しかったこと、寂しかったこと、泣きかったこと、怒りにまみれたこと、喜んだこと、楽しかったこと、おばあちゃんのこと、カズヒロくんのこと、晶ちゃんのこと、お母さんのこと。
エモーショナルなメロディで胸の奥が熱くなり、心臓の鼓動が大きくなって、あたしの全身に響きわたる。リュウ君ありがとう。あたしのわがままで、またピアノやってくれて。
何かがこぼれ落ちそうなあたしの目に、脚立に座ったカエルさんが映る。なんだか悲痛そうな顔だ。いま弾いてるのも、彼の感情を表してるような悲しいメロディ。音の湖を、月光が静かに照らす。そんな楽曲。
やっぱり左指のハンデは重いらしく、必然、鍵盤左よりの低音側が不足がちに聞こえる。失敗(?)の度に彼の口からブツブツ小言がこぼれてる。
ミス、なんちゅうしょぼいピアノじゃ、ホントに調律したのかよ、安モンのハンマーフェルト使いやがって。ミス、下手くそが、またママに怒られる、いや、あんなババア知るか、オレが神で天才だ。ミス、鬼婆め、ぜったいに許さん――なにが許さないだ、笑えるわ、花を殺したオレが。ミス、指が足りねえ、やっぱ、二本はくれてやりすぎたかな、それでも、花は許してくれないだろ、ミス。花、ごめん、オレ、ピアノやっていいのかな、ミス。触れていいのか、許されるのか。ミス、でも楽しいんだ、満たされるんだ、ミス。オレの何かが、ミス。この八十八の鍵盤、ミス。これがオレの始まりだ、でも、ミス。
ミスでグチだったのが、グチでミスになってる。悪循環のらせん階段だ。そんな迷いは邪魔だよ。
ちゃんと響かせて、キミの音を。
「花ちゃん聞いてるよ。天国で優しいお兄ちゃんを応援してる。それが信じられなくても弾いて。あたしが聞くから。あたしがここにいるから。他の誰でもなくあたしが、聞きたいんだ、あなたのピアノを。あたしの為に、弾いてほしい――お願い」
あたしの声、届いたのか、わからない。けど、リュウ君の乱れていたピアノはバランスを取り戻し、つぶの揃った音の雫がピアノの口から、またこぼれだす。
音符の水がステージに溜まり、流れ、小川に。それらは手を取り合って大河となり、いつしか海へ連なっていく。凪と遊ぶ静かなその海は、表面にある凹凸に太陽のきらめきを映し、笑う。すると、しだいに立ち込めた暗雲で太陽は隠れ、凪は暴風に豹変。海は撹拌され、うねる波はすべてを飲み込む。会場のすべてを。
彼のピアノが作り出す音楽世界は、そんな感情豊かな大海原だった。
キミは平気だよ、あたしが聴いて、見つめてるから。ずっと、ずっと。
「愛ちゃん、そこにいると、お客さんからリュウ見えないから、どいたほうが……」
「やだ」
あたしはリュウ君から目をそらさずに、背後からかけられたソウ君の声に反発。
ここがいい。特等席のここが、あたしの場所。
ますます、あたしはカエル男の作り出すピアノの海にのめり込む。音の海で遊泳しながら、真横を過ぎていくクジラを楽しんでいるような、この贅沢さ。この後に出番があると、わかっていても、どんどん引き込まれるんだ。音域の広さがピアノの長所って言ってたのはこの事か。一人バンドだね。伴奏から旋律までたった一人でこなせてる。
いつしか音符の海水は蒸発し、上昇気流に束ねられ、水龍となり天へ昇る。それはきっと、体育館の天井にひっかかったバレーボールも、空も、地球も、宇宙の果てだって超えて、花ちゃんに届くメッセージ。ぜったいに伝わる、あたしが保証する。
あたしは幸せにどっぷりだ。もっと、もっとだ、あたしを――えっ?
急に腕を引かれて、我に返る。なに? あたしとリュウ君の邪魔をするのは……コーキ君だった。怒っているのか寂しいのか、なんともいえない複雑な顔してる。彼はツンツンの黒髪でステージの光を遮りながら、無言であたしの腕を引く。
ピアノがせせらぎのように小さくなって、遠く聞こえる。ドラムセットの前で立ち止まり、コーキ君が振り向いた。
「聴け、オレのドラム。お前に――愛に、聴いてもらいてえんだ」
見つめるコーキ君に射貫かれて「はい」と返事をする。彼はあたしの視線を釘付けにしたまま、ドラムセットのイスに座って、スティックを手に取った。
スネアの強烈な破壊音があたしのカラダに突き刺さり、リュウ君のピアノを吹き飛ばす。コーキ君の小刻みに揺れる足が、バスドラムとハイハットを眠りから呼び覚まし、働かせる。リズムのうねりが舞台を揺らし、広がっていく。リュウ君のピアノはそれに合わせるような即興演奏に切り替わった。
テンポを構成している打音の隙間をぬって、フィルインが入り込む。タムタム、フロアタム、クラッシュシンバル、ライドシンバル。いつの間にか覚えてたドラムのパーツを思い出しながら、コーキ君とリュウ君のセッションに身をゆだねる。合間に挿入される、カウベルとタンバリンが遊び心をくすぐるね。
コーキ君のドラム――それは、いつもあたしたちを支えてくれる、実直でまっすぐなバンドの背骨。リュウ君みたいに音の七変化が出来なくとも、シンプルでどこまでも力強いその打楽器は、ブレることなくあり続けてくれた。いまも。
ドラムが段々ステージの優先権を握って、ピアノの音が弱くなっていく……いや、いま完全に無くなった。あたしはピアノを名残惜しく感じつつも、ソリッドでタイトなドラムプレイから目を離せない。あ、誰かががあたしの横に来て、手拍子始めた(たぶんリュウ君だ)。それに導かれて、会場にも手拍子と……体育館が倒壊しちゃうくらいの地鳴りが起こった。すごい、ゆれ、だ。
コーキ君がニヤっとして、リュウ君の笑う声が聞こえた。仲いいね、お二人さん。長い付き合いだもんね。よし、あたしも拍子に参加する。リュウ君のピアノが静謐極まるソロコンサートなら、今はロックバンドのフェスティバルだ。お上品にふるまってる場合じゃないぜ!
ますます、熾烈極めるドラムプレイ。細かく使い分ける手首のスナップが音のメリハリをつけて、メロディーが発生?! うそっ、ドラムが……唄ってる!? いつの間にこんなお土産を準備してたんですか、コーキ君。会場の音にたった一人で対抗するドラマーに、あたし心酔。
カッコいいぜ、惚れちゃうよ。あっ、もののたとえだからね。
声に出そうになって、あたしは焦る、照れる、恥ずか――痛っ!
なんか、おでこに衝撃がきたんですけど……コーキ君がシンバルを叩いた途端に、スティックが折れて飛んできて、あたしを直撃したようで、その先っちょが床を転がっていく……。
我らがドラムマン、ビックリした表情が顔に出るも、すぐいつもの鋭い目つきになり、即座にスティック両方を投げ捨て、素手ドラムに移行! なにそれ、アドリブにもほどがあるでしょ!?
「ひょぉう! コーキちゃんってばカッコよすぎ。替え、持ってくるか?」
「いらねえよリュウ。俺にも、たまにはカッコつけさせろ」
黒芝生頭の男がカエルに叫び、よりいっそう激しく手太鼓にのめり込んでく。そんな叩くと痛くなるよ、なんて軽口は野暮だ。ガンガンにドラムセットにコーキ君の手がタッチ&ゴーして、リズムをキープ。その手が打ちあがるたび、あたしの顔になんかの汁が飛んでくる。汗かと思ったけど……ドラムの白が赤く染まって、答えを教えた。
会場はいよいよ絶好調のようで、乱痴気騒ぎがそこかしこで。それはコーキ君の素手ドラムに呼び覚まされた、季節外れのお祭りだ。楽しくなってきたぜ、やっほい!
あたしも有頂天になってはしゃいでいたら、コーキ君が跳ね上げたライドシンバルがバランスを崩して傾き、黄金色の鏡みたいにステージ照明を反射させ、あたしの目を刺した。
いけない、何とかしないと――このドラムに止まってほしくない。
すると、コーキ君よりも早くカエル男が「ゲコッ」っと、一足飛びにシンバルを支え、中心の留め具を直した。意外に俊敏ですね部長さん、友情パワー炸裂だ。なんて、のんきに構えていたら、リュウ君は起こしたシンバルを大げさな手振りで、叩き始める。まるで、ニューヨークに現れた巨大サルが高層ビルの上で胸を叩いてるよう。これにはコーキ君も苦笑い。でも、リズムタイミングはパーフェクトッ。
そのままお互いを受け入れるように、バンバン音出すお二人さん。仲よしさんの合い(愛?)の手ドラムだね。
二人の男が紡ぎ出す打・金音が、あたしをサンドバックにし、心がボコボコになる。いいな、男の人同士って気兼ねなさそうで。ウキウキしてきちゃう。あたしも混ざっちゃうかな~。
「ねえ、ちょっと! 三人ともいい加減にしてよ、もう時間無いんだけどぉ?! ボクは予定通り始めるからねっ」
ソウ君がなんかわめきだす。あ、タイマーが残り十分切ってる。やばいやばい、予定なんか狂いっぱなしです。慌てて、ドラムで遊んでる二人に声掛ける。
「そろそろ計画通りにいくよ。ふざけてないで」
「俺はマジにやってんだけどよ。どうだ、俺のドラムは」
「終わったら教えてあげる。はい、アレでゴー」
「けっ、クソが」コーキ君が悪態ついて、お手々タムタムにバスドラムで聞き慣れた拍子を刻む。〝どん、どん、ぱっ〟ってあれです。ロックなユーです。
ソウ君のベースもドラムと同期して、拍子を補強。あたしとリュウ君も、足で地面を二回踏み、左右に広げた両手を一回叩く。三拍子が壇上に起こって、それがオーディエンスにも伝播していき体育館が一体感に包まれる。
よっしゃ、散々冷え切った場がすっかりあったまったぜ。ナイスプレイです、先輩方。
ベースを抱えてソウ君が歌いだし、蒼ガールズが黄色い声援――いや、虹色の絶叫を上げる。おっし、フリージアさんのオタ芸軍団にも負けてないじぇ。
おお、すごい、体育館が縦に揺れてる。いや、和泉ちゃんが、ちゃっかりステージ横で跳ねてるせいでもある。
そして我らがイケメン王子はサビに入る前「しんぎぃん!」とオーディエンスあおり。
女どもは、男顔負けの獣声で「ロッキュー!」と吠えた(和泉ちゃんもしかり)。飢餓状態の肉食動物にお肉の大盤振る舞いだね。
それ聞いたカエル男はテンション上がったのか、フリーなのをいいことに二回目のサビでソウ君と一緒のマイクで歌い出す。
いい声だ、あたしの好きな声だ、だけど蹴る! いまはアイドルの時間だぜ。
「痛いです! ちぇっ、ケンちゃんは……ソウちゃんが好きなんだな」
「違う、あたしはキミのピアノが聞きたいの。ほら早く、サビのソロ準備して」
「ケンちゃんやれよ、原曲はギターなんだし」
「あたしが弾けないの知ってるでしょ。ピアノでやってよ、ね? お兄ちゃん」
「はいはい。暴君だな~、我らがリーダーは」
文句を言いつつも脚立に座って、しっとりギターソロ部分をピアノで弾くカエルさん。はい、よくできました。
体育館がロックしまくり、曲が終わる。さあ、あたしの出番だ。いったんすべての音が鳴りやんで、小さな拍手と口笛がオーディエンスから送られてきた。
そして会場は静寂に包まれる。カボチャでもジャガイモでもない、照明はなくても沢山の人たちが、あたしたちを見てるのがわかる。けど不思議と緊張はしてない。いつもの部室ノリのまま、ここまで来れちゃったからかもね。
あたしはギターを構えて、準備万端。三人に目配せして、ドラムとベースが聞き慣れたリズムを敷き、安心感が芽生える――うん。今、行くよ。
ギターのストロークを始め、リズムを奏でる。そこにおぶさる、ピアノの旋律。
そして、みんなで作った歌を、唄う。
透明なぼくの手を取り キミは色づけた
バカみたいに笑いあった お日様の下で
キミはきんぴか 両手伸ばし 光の中 立っている
凛としていて まぶしすぎたな いまどこいるの
あなたがくれた 思い出を拾い集めて束にする
こぼれ落ちたひとひらが クツのうら 残っている
モノクロ反転のボクと にらめっこする
だれかの笑いが届くよ 月明かりの下で
みんなクツぞこ ズタボロのまま 汚れた道 走っていく
バカそのものだ でもうらやまし ぼくもいいかな
あなたがくれた 思い出を拾い集めて束にする
こぼれ落ちたひとひらが クツのうら 残っている
春にくしゃみでヒラヒラと
ナツいアツには日影作り
乾いた秋に肌身さらし
雪化粧して冬を越す
また会えるかな また会えるだろ また会いに行く
粉花舞う頃に 日向のキミを
あなたがくれた 思い出を拾い集めて束にする
こぼれ落ちたひとひらが クツのうら 飛ばしてく
どこまでも どこまでも 飛んでいけ
いつまでも いつまでも あり続ける
よし、これにてあたしたちの演目はフィニッシュ。
会場の人たちに、フリージアさんたちに、和泉ちゃんに、ヨネさんに、天国の花ちゃんに、あたしが奪った命に、晶ちゃんに、届いたかな。
なんの償いにもならないだろうけど、勝手に送ります。
これが、あたしの……あたしたちの歌だよ。聞いてくれましたか。




