篝火にくべて②
朝霧が立ち込める中、夏真っ最中とは思えない山のひんやり空気を肺いっぱいに吸い、吐き出す。なんて新鮮さ。肉なんて必要ない。私に本当に必要なのは、この自然だった。木々の映し出す緑に囲まれ、心が満たされていく。
そう私は地球と一体となり、地球が私のーー
「おっせえぞっ、イトイ! もっと根性出せっ!」
聞き慣れたドス声に一気に現実に引き戻らされた。最悪。
食堂に集合した後、水だけ飲まされ、朝から地獄のランニングをさせられてる私たち。高橋先生は梓が秘密裏(私に教えなさい!)に用意していた電動自転車に乗り、私の背後にピッタリついて来ている。ズルすぎでしょ、せめて一緒に走れ。
梓は遥か前方にいて、かろうじてその後ろ姿が確認できる。あの子やっぱり足速い。中学の時にブラスバンド部で集団走り込みしてたのは伊達じゃないってことね。結果ドラムボーカルにも好影響だし、人生ってなにが役に立つかわからない。
そして先ほどの怒号から時間差で、おしりに衝撃がーーどうせ竹刀で叩かれてるだけだ、無視しよう。
「おお? 早乙女~、シカト決めこみかよ~?」
無視する。
「少しは心開いてくれても、いんじゃね~の? 弦音ちゃ~ん」
無視する。すべては気のせいだ。いや、木の精だ。風の精でもなんでもいいけど。
「ちぇっ。嫌われたもんだな、孤独のギター少女に。いや、嫌われてんのはそっちか」
妖精のくせにずいぶん下世話な。いや、ただのパラノイドだ。無視だ。
「大変だったな~、女子軽音部員、みんないなくなっちゃって。……責任感じてたか?」
「言いたいことがあるなら、はっきり言ってください!」
無視できなかった。私の心を逆なでしてくる高橋先生を並走しながら睨みつける。
「怖え~、イトイちゃん怖いってば」
「知りませんよ、私は間違ってない、〝絶対〟に。だって、いくら私に強く言われようが部活を辞めるか続けるかなんて個人の自由ですし。後輩に抜かれて悔しいなら、それをバネにもっと努力しろって話です」
「お前は正論ばっかだな」
「他にどうしろって言うんですか。愛想笑いでもして、適当に仲良くしろと?」
だって子供のころから父にギターしか与えられなくてーーそれしか私にはなかったから、人との接し方なんか知らない。わからない。
「本当に突っ込むしか能がないな」
「それはゲームの話ですよね?」
「現実のお前だってそうだろ。なれ合えってんじゃなくて、こう……うまく言えね。教師のくせに。あ、“泣いて馬謖を切る”って故事あんだろ。え~と、つまり、辞めていく奴より。残った天才ってわけだ」
それ違うでしょ。確か規律を守るって意味合いだったし(アホ国語教師め)……高橋先生、私に気を使ってくれてるのかしら(まさか!?)。
「そうだーー切る。つまり、いい刀ってのはいい鞘に収まってるもんなんだ、抜き身じゃなくてな」
「へえ~、先生の竹刀みたいにですか?」
「おっと、イトイちゃんに一本取られたな、竹刀だけに。切れる刃はこぼれやすいぞ。ゲームもしかり。強い武器にはデメリットがある」
「なまくらでも鈍器にはなります」
「え~、泣いて馬謖を叩くってか~? そんなんじゃ、泣くに泣けないぞ。鬼め」
「私なら、泣かずに馬謖を叩き切れます」
高橋先生がケラケラ笑う。こんなだっけこの人、普段はもっとつっけんどんなのに。昨日からこの人の知らない顔がちらちら見え隠れする。合宿の解放感のおかげかしら。
「まあ、アタシはいいからさ。橘……じゃなくてアカリンとアズアズは信用してやれ。あの校内放送だって『弦音が部活来なくなるかも』って二人が心配たから、やったんだ」
そうだったんだ。あの「ダンデライオン」に宣戦布告したあの放送は、燈先輩と梓が言い出しっぺなんだ。あの日、顔を合わせて謝りはしたけど詳しくは聞かなかったから……ありがとう二人とも。
いや違う、お礼を言う相手はもう一人いる。
「……少し自分の態度を改めてみます。それと高橋先生もありがとうございました」
「なにがだ? アタシはなんもしてねえ」
「あの校内放送の後、偉い先生たちにすごく怒られたらしいですね。あらゆるものの許可を取ってなかったみたいで」
「ああ、アタシは気にしねーよ。お偉方の顔色なんてな。ま、サイアク、再就職先はアズアズのとこにするから。へーき、へーき」
いいな、それ。私も音大目指さないで梓のとこに嫁ぎたい。なんてね。
「なにより、あの重音部のハゲだ。あいつをぎゃふんといわさないとアタシの気が済まん。身だしなみチェックあるだろ、朝に抜き打ちでやるやつ」
「ぎゃふんって……先生いつの生まれなんですか? えっと、見出しなみチェックって、高橋先生が厳しいので有名なアレですよね(ゲートガーディアン高橋の蔑称で有名な)」
「厳しいんじゃなくて、最低限度の節度を守らせてるだけだって。アタシだってホントはやりたくないんだよ」
嘘つけ、いつも嬉々としてやってるじゃない。どうみてもうっぷん晴らし、しているだけでしょ。と、思ったが口には出さずにおく。私は突っ込むしか脳のない『イトイ』じゃないから。
「ところがあのハゲーーいや、重音部顧問の松田先生がみんな甘やかすもんだから、アタシはすっかり鬼扱いだ。あっちは仏の松田とか言われてんのに……スキンヘッドなだけだろ!」
だから高橋先生は、やたらに重音部を敵視しているのか。納得。ならばと、私も口を開く。
「それはムカつきますね」
「だろ? 自分だけ好感度上げやがって、クソハゲ」
「ぜひともぶっ潰しましょう。『ダンデライオン』ごと」
「お、剣崎もいいのか潰しちゃって」
「あの子は……とりあえず、貰いましょう。人数合わせで」
「だな。アイツなんで重音部なんかに入ってんだか。最初からウチに入れば、話がこじれずに済んだのに。何回も勧誘したんだぞ、まったくぅ~。モジャチビがぁ~」
高橋先生の勧誘……逆効果になる気もするけど。沈黙は金なりね。
「ホントですよね。正直イラっとしてました」
「気が合うな、弦音。よし、アイツは掃除係だ。あのちんちくりんが楽器持つのは十年早い」
話の内容はともかく、今、このシチュエーションが面白くって。自然と笑みがこぼれた。
「おっ、イトイが笑った。やった」
「私、笑ってません」
ばればれだけど、とりあえずウソつく。恥ずかしいんだもの。
「またまた~。よっしゃ気合入れるか」
高橋先生が電気自転車を立ちこぎし、後ろ手にまとめてる茶髪を風になびかせ、
「『浅黄水仙』ファイトッ! ぶっつぶせ『タンポポ』!」
物騒な掛け声を高らかに唄った(高橋先生、なんでも漢字は痛いですってば)。
それに驚いたのか、そばの木から三羽の鳥が飛んでいく。どこまで行くのか、あの鳥たちは。近場の森か、となりの山か。少なくとも私たちには未来永劫に寄ってこないだろう。
ふん、鶏肉なんかに用はない。肉はやっぱり牛よ、ウシ!
「ふぁ~いとぉ~」
間の抜けた合いの手がかなた後方より私たちに届いた。振り向くと米粒サイズの燈先輩が、ふらふらというか、長い手足をひょろひょろさせている。
「部長のおめぇが一番ファイト足りてねぇんだよぉ!」
高橋先生が自転車を切り返し、光の矢のごとく燈先輩に突っ込む。
吹っ飛ばされて、倒れこむ我らが部長の燈先輩……大丈夫かな。走って近づき顔をのぞき込むと、
「うへへ、お久しぶりです。ナイトハルト様~」
半笑いの燈先輩が私の目を見て語りかけてきた。ナイトハルトって、どこの誰? ……お久しぶりなんですか。どうせアニメのキャラでしょ。
「流れる黒髪、切れ長の目、小学生の時からお親い申し上げておりました。ワタシ、橘燈は……あなたを愛してます」
なるほど、長~い一方通行の愛だったんですね。一途なアカリン、超キモチ悪い。
それにしても騎士春斗か。勝手に漢字を当てはめてみると、すごくキラキラネーム。きっとヤンキー夫婦の息子ね。燈先輩、ソイツはやめといたほうが無難です。
というか、私と見間違えるってどういうことですか。まったくこの人は……。
ん? 燈先輩のジャージファスナーからインナー黒Tシャツの柄がチラ見えしている。
人頭の様に見えたのでファスナーをおろすと、長髪で切れ目の男が現れた。こいつが件の騎士春斗だ、間違いない。お親しすぎて、色褪せてますけど。
「やめてください! まだ早いです。『フリージア』は純潔じゃないとっ!? でもナイトハルト様になら……あげます♡ むしろ、貰ってください」
「あげます♡」じゃない。この尻軽アカリンが。
でも私よりは幾分か小さいが、一般的には大きいといえる燈先輩の胸が上下しているのを見て、妙な気分になる。うん、いやらしい。男だったら触っちゃうかもコレ。心なしかプリントされている春斗も内側から圧迫されて喜んでるように見える(ナイトハルト様って変態?)。
「アカリン、キメぇ。マジでキメぇ。はぁ……しかたない『癒しの水』だ、ホレ」
高橋先生が腰からペットボトルを取り出し、燈先輩の顔面にぶっかける。回復魔法(?)で現実に戻ってらっしゃい、アカリン。
「おへへ。甘露、カンロぉ~」
アカリンは長い舌を伸ばし『癒しの水』をブラックホールのような口に向かい入れる。クチビルからこぼれた水はそのままアスファルトに広がり、ヨダレの海にも見える。
ああ、嫁入り前の娘が、はしたない。それは、あまりにも残念過ぎる、美人の末路だった。
にしても梓め、もう後ろ姿すら見えなくなっている。速すぎじゃないの、薄情者め。
あれ……でも私もあんまり息上がってない。最初の頃なんてすぐ呼吸困難に陥ってたのに。少しは成長したってことかしら。
アカリンが「がっふ!」と『癒しの水』を口から吹き出して、意識蘇生した。ほら、はやく立って。後輩に追いつきますよ、残念部長。
ランニングも終わり、朝食も取って、ライブ用の曲もピックアップ終了。いよいよ部活らしく練習に励む私たち『フリージア』。
場所はこのペンションの防音室だ(すごい、個人宅ですよね?)。ほとんどスタジオじゃない。テンションMAX。来てよかった合宿。
自分でピックアップしたカバー曲は、私の好きな女性シンガーの甘々ラブソング(みんなが『イトイ、マジか……?』みたいな顔したのがムカついた)で、いやがおうにも練習に身が入る。
最近ギターを弾くのが楽しく感じる。いや、子供の頃は楽しんでたかしら。ただ弦を鳴らすだけで、はしゃげてたあの頃が懐かしい。はるか昔の話だ。
私はギターをガンガンバリバリ弾きこなす。そして、ズレるドラム。つられて間抜けな低音響かせるベース。結果、私もひっぱられて明後日どころか再来年くらいの方向へ。
うん、いつも通りっ、これでこそ私たちだねっ。イライラもMAX。
……ここで文句はダメ。また負のスパイラルに陥ってしまうから。成長した私を示すべく、最高の笑顔で二人に微笑みかける。
どうかしら? 美人なうえに性格まで完璧になった、この『早乙女弦音』は。
そんな私を見て二人が「歯に挟まった何かがあと少しで取れそうで取れないんだけどな~」みたいな顔する。なにか言いたいのかしら。
ギクシャクしてる私たちに「おい、弦音ぇ~」高橋先生が割り込んできた。
基本的に部の活動はいつも自主性に任せるとか言って、普段なにもしてこない置物顧問のはずなのに……今回の合宿は「珍しい」のオンパレードだ。明日には雪崩でも起こるんじゃないかしら。「はい」と返事をする。
「いちいち、ちょっとしたミスで止まってたら練習になんねーだろ?」
「すいません」
「謝る相手が違う」
「ごめんなさいーー梓」
金属の光沢がまだ真新しさを携えているドラムセットの方へ頭を下げる。
「こっ、こちらこそ申し訳ありません」梓が鏡のように頭を下げ返してきた。
それから、目線が触れ合って梓が笑うーー絵画のようなその佇まいに、心がほだされる。
「弦ちゃん、ワタシには~?」
アカリンがその余韻をぶち壊した。正直あなたはどうでもいいです。エアベース担当でしたっけ? 空気のように黙っていてほしい。
「お、謝れるようになっただけ上等。だけど弦音には足りないもんがある」
「……厳しさですか」
「いらんだろ。むしろありすぎだ、お前の胸と同じく。アタシにもくれ」
セクハラ女教師め(同性でも成立するんですよ?)しょうがない、ボケにのってあげましょう。
「じゃあどうぞ」両手を広げて胸を差し出す。減るもんじゃないし。相手女だし。高橋先生の水平な胸と比べると申し訳なく思うし。ついでに「ダンデライオン」の剣崎も脳裏をよぎる。
「うひょっ、たまんねえ。たわわ、はわわ」
下劣な女が、下品な言葉といっしょに私の胸に飛び掛かってきて、激しく揉みしだく。なんで燈先輩が来るんですか。
無言で高橋先生がバカを滅多打ちにする。竹刀がムチのようにしなり打ち込まれるたび、膝を抱え床にうずくまった燈先輩が「申し訳ありません」と、ボイス再生。面白いわねコレ。
「くそっ。アニメ女のせいで話が脱線したな。よし弦音、とりあえずドラム叩いてみろ」
ぜいぜい息を切らしながら、折檻を終えた高橋先生が私に竹刀をーーじゃなくて梓から受け取ったドラムスティックを渡す。
とりあえずハイハットと、スネアと、バスドラムのみの単純なリズムを、言われたままに叩いてみる。
こんな楽器なんて簡単でしょ、マイペースでやりゃいいのよ。あ、私向いてるかも。と、なめてかかったら全然無理だった。
単純に叩くにしても、微妙な強弱がでてしまって、均一な音出すなんて不可能だし、バスドラムのキックもてんで気持ちのいい音を出さないうえ、裏箔のタイミングでスネアと同じにやっちゃうし。おまけに先生の口笛つき(ヘッタクソ)と来た日には、スティックをへし折りたくなる。……折る前にスティックホルダーに納めよう。
「ドラム、難しいですね。甘く見てました」
「だろ? お前らメロディパートの奴らはすぐに、アタシらリズムのせいにしやがってよ。ホント腹立つよな、アズアズ?」
先生、個人的な感想は控えてください。梓も困っているようす。
「私、なんとなく先生の言いたいこと、わかりました」
「おっと『理解した』なんて百年早え」
「はいはい。梓、いつもごめ……ううん、ありがとうよね。私の下手くそなギターに合わせてくれて、ずっと感謝してるーー梓が入部してくれたときからだよ」
そして、梓はみるみる顔が紅に染まっていく。彼女はドラムセットから立ち上がって来て、無言で私の両手を取り、ブンブン上下に振る(力強い)。
すると、さっき燈先輩に揉みしだかれたときにブラの前ホックが外れかけていてーーいま完全に外れた。私の胸がブルンブルンに縦に揺れる、はち切れんばかり。いやぁっ、同性セクハラァ!
「わたくしも……弦音先輩には感謝しかありません。下手なドラムで申し訳ーー」
「ダメ。謝るの禁止。遠慮もなし」
「はいっ! いつもありがとう。『トイトイ』!」
うおっ、トイトイって私? このタイミングで変なネームぶち込んでこないでよ、アズアズゥ。
「お前ら最高だ。百点満点あげちゃうぞ」
さっき理解するなんて百年早いと、先生がおっしゃってましたよね? ま、なんでもいいか。
半ば放心状態の私を、ふいに部屋に響き始めたドラムの音が呼び覚ます。えっ、なに?
「ワタシもドラムやる!」燈先輩が叫び、先ほど私のやらされたフレーズを完璧にこなす。それどころかフィルインとばかりに、タムやらシンバルも取り入れて、さながら即興ドラムソロだ。この人、色々と器用。ボーカルもすぐ上達したし。
「ねえねえ、ワタシうまくない?」
「おめぇは、やんなくていいんだよぉ。このボケリンがぁ!」
ドラムセットの間隙を縫い、竹刀が直進して燈先輩の腹に突き刺さりーー先輩はひっくり返った。
先生、「壁役さん」とは言え、やりすぎると死んじゃいますよ? 誰がいなくなったって成立しないんですから『フリージア』は。
一連のやり取りを見て、梓が大笑いする。あら、ドMじゃなくてドSだったのね、アズアズは。そんなことを考えながら、私も一緒になって笑う。
練習もそぞろに午後五時になり、私たちはキッチンで夕飯の準備にとりかかる。
昨日のバーベキューの残り肉を使ってカレーを作ることになり、足りない食材は地元の直売農家から高橋先生が買ってきてくれたらしい。
まったく、練習途中でいなくなったと思ってたら……何しに合宿に来たんだか。そもそもカレーをリクエストしたのも先生だったし。この中で一番遊び気分なのは間違いなく高橋先生ね。
彼女は相棒の竹刀も放り出し、アズアズ&アカリンと一緒に、ニコニコしながら皮むきしている。
私は料理なんてしたことがなかったので、あちらに参加しなくてすむよう、食器をできるだけゆっくりと並べて時間を稼いでいる。牛歩戦術ってやつだ。意味違うかしら。
「おい、トイトイ! いつまでちんたら皿並べてんだ、早くこっち手伝え」
「牛肉の食べ過ぎでウシさんになったんだね~。トイちゃん」
「おサボり厳禁ですよ、トイトイ」
私のサボタージュは全員にばれていた(当然か)。いつのまにか『トイトイ』で呼称統一されてるし。適用早すぎ。はぁ、しかたなく包丁を受け取り参加する。
「おお~、トイちゃんが刃物持つと切れ味すごそう」
「たぶん『刀匠』のスキル持ちだな。ダメージ補正MAX」
「気をつけてくださいね。トイトイ?」
三者とも勝手なことばかり言ってくる。ふん、見てなさい。こんなジャガイモなんか粉みじんにしてやるわ。いや、四等分くらいで勘弁してやろう。
オラァ! うまく切れた。どんなもんよ。三人に向き直すと、歓声と拍手が送られてきた。……私のことバカにしてるでしょ。気をつけなさいな、私の包丁、震え出してるわよ。
『能無し』のイメージを払拭すべく、続々とジャガイモを切断していくと、あっという間にボールいっぱいに。
まだ足りない。どこだ、私に切られたい奴はどこにいる。出てこい……あった。
「そっちもやる」ニンジンをアズアズの手から奪いとり、まな板の上に置く。再度、オラァ!
あっ、勢いに任せて包丁を振るったら、人差し指の第二関節辺りをすこし切ってしまった。少し間があって血が流れだし、痛みが遅れてくる。やっちゃった。失敗々々。
ま、これくらいならギターに支障はないし、大丈夫。
照れ隠しもかねて、顔をしかめて梓の方を向く。すると西洋人形のような梓の肌がより青ざめて、ますます真っ白になっていた。その上、足元だけ地震が起こったように震えている。
梓の様子をボケっと眺めていると、
「なにやってんの! ギター以外なんも出来ないんだから、あっちでお皿でも並べてなさい! バカ弦音っ!」
カミナリがキッチンに落ち、私を責める。
ひっ、アズアズ恐ろしすぎ。一目散に駆け出し燈先輩の後ろに隠れてぶるぶる。すると、あたまを撫でられる感触がした。その行為がーーお母さんを私に思い出させる。ほんの少しだけ。
すぐに先生が救急箱から消毒液を取り出し、指に適切な処置をしてくれる。あ、ますますお母さんのことを思い出して、切なさがMAX。
「トイちゃんがビビるなんて、珍しいね」
「……うるさいですよ、アカリン。私なにしましょう?」
「皿かたして、また並べてればいいんじゃね?」
高橋先生それって、穴掘って埋めてを繰り返させて不毛を体感させる『刑罰』ですよね。しかたないのでその指示に従うか……また怒られるの嫌だし。
ハイ! 食器もどして~、並べて~、かたして~、セットして~。私~、発狂寸前~。
「おい、トイトイ。瞳孔開き気味だぞ。こっちが準備終わるまで耐えろ」
「トイちゃん、ファイトだよ」
なにを頑張るのかわからないけど、私負けないっ。
二人の横でテキパキと調理を進めている梓から、禍々しい黒いオーラが出ているけど、私見ないっ。
……心配かけちゃったかな。だからってあんなに強く言わなくたっていいじゃない。短気なアズアズめ。
私は虚勢を張り、何とか無言のプレッシャーに耐える。でもちょっと涙が出ちゃう。一応、女の子だもん。
出来上がったカレーは、梓がみんなのお皿に取り分けてくれた。あ、なんだか私の取り皿にはお肉が多いみたい。昔、叱られた後の夕飯も、お母さんがこんな風に私を気づかってくれたな。
ちらりと梓を一瞥すると、舌を出された。あっかんベーって擬音が付属してそうな感じ。こっちも同じ動作でお返しする。
高橋先生が声高らかに『いただきます』を宣言して、食事が始まった。
スプーンで肉をよけてカレーの中を拝見。私の切ったジャガイモはドロドロに溶けていて原型を留めていなかった。けど、きっといいダシになったでしょう。なんせ私が切ったんだから。あ、皮が残ったままのジャガイモが溶け残ってる……これはどけよう。
立体的な三角形に乱切りされているニンジンを持ち上げ口に含む。歯ごたえがあるけど、固くはなく、甘みが凝縮されている。食べ進めていくと、どのニンジンも程よいサイズに均一にカットされているのがわかる。色合いといい、きっちり仕事してるわね。
燈先輩の家に伝わる秘伝のスパイス配合も市販のルーなんかでは出せない、複雑かつ奥行きのある香りと味わい。
ああ……蜃気楼の向こうで、ターバンを頭に巻いたアカリンが手招きしている(ナマステ~)。ちょっとしたインド旅行気分だ。
それに加えてサラダ。高橋先生が通りがかりの農家の人に貰ったという、トマトとキュウリの水々しさが、清々しい。こってりしたカレーの箸休めとして、いいアクセント。野菜本来のうまみでドレッシング要らずだし。うん、休符って本当に大事っ。
近場で汲んできた山水も、都会の水道水どころかミネラルウォーターに負けないくらいの味。たかが水なのに味がするとは……恐れ入りました。飲むとノドがナイアガラの滝だ。さっきから気分アゲアゲすぎで、もはや意味不明な比喩。
ごたくはやめて結論を言うと、みんなで作った食事はとってもおいしかった。昨日のバーベキューなんかより格段に。
ま、カレーに入っている肉だってもちろんおいしいに決まっているけど。牛、牛肉ぅ~!
「うめぇなカレー、アタシおかわりするぅ!」
「あっ、センセー、ズルい。ワタシたちの分もちゃんと残してよ」
「早いもの勝ちだも~ん」
「はぁ……意地汚い。婚期が伸びますよ?」
「今季が伸びる? アタシ夏大好きだから、むしろウェルカム。誕生月だし。ずっと夏休みならいいのにな~。学校始まんないでくんね~かな。仕事したくね~」
減らず口ばっかりな高橋先生だ。でも夏休みのくだりは百パーセント同意です。
あら、先生ってば、このやり取りの間に山盛りにカレーをよそっている。ちゃんと残してくださいね、肉だけでも。あっ、いつの間にか梓が高橋先生の側へ?
「先生、こちらもお気をつけて」
アズアズが指で高橋先生のちょっとポッコリ出ているお腹を押し、部屋がクーラーの音だけに包まれる。
先生の手に持っていたスプーンが床に落ち。カラカラ音を立てながら食堂の蛍光灯の輝きをあっちこっちに反射させ、最後には持ち主の呆然とした顔を照らす。
「じゃあ、ビールにする」先生が力なく声を発した。
それって結局、太りますけど?




