五
「遅えんだよ」
俺はこのあいだ警部補に昇進してさぞや調子に乗っているであろうノッポ野郎に悪態をついた。
「あん、野辺山か? とうとう傷害でお前をパクる日が来るとはな」
「傷害じゃない、殺人だ」
「……間に合わなかったのか、救急車」
ノッポ野郎は残念そうに目を伏せた。彼は俺の高校のときの先輩、松島勇斗である。松島先輩も先生の生徒だったので俺たちとはお互いに面識があった。その先生は二十七にしてもう警部補かあ、としきりに感心している。高校時代から要領だけは病的に良かったものな……と思いつつもやはり気に入らない。トントン拍子に成功しやがって。
「で、お前と先生もいるということは……」
松島先輩が期待を込めた目を向けてきたので俺はにべもなく言ってやった。
「妹は来てない」
松島は露骨に肩を落とした。別に奴が妹に恋している訳じゃない。実を言えば妹の三苗は、何度か警察が頭を抱えるような難事件を解決に導いたことがあるのだ。この他力本願主義の先輩は三苗のことなんか話のネタ程度にしか思っていない他の刑事さんたちとは違って、三苗のことは本気で当てにしているのだ。しかし実際に気難しい三苗のご機嫌をとって相談するのは俺なので警察には自力で解決して欲しいのだが……なんでこんな物臭野郎が警部補になれたんだ?
警察が来てからというものの、慌ただしいような雰囲気が《星雲》を充満し始めていた。実況見聞やらで忙しそうな刑事さんや鑑識さんを見ていると、いよいよ事件が起きたんだという実感が強くなる。こういうとき、関係者は一つの部屋に集められて聞き込みが始まるのがお決まりのパターンだが俺たちは元から全員その場に揃っていた。
事件の概要は大体俺が説明した。例の『荒木と――』を話したとき、当の荒木さんは眼球がこぼれ落ちるんじゃないかと思うほど目を剥いていたが、演技じゃないとは言い切れない。もちろんその後の松島からの質問に対してはめいめいが答えたわけだけども、しかしこの質疑応答で(俺にとっての)真新しい情報はなかった。ほとんどが既に知っていた情報である。
とはいえ浜野さんの証言は俺たちにとっては救いだった。例のがぁん! という音がした後、俺たち二人が階段をかけ上がる音を聞いていてくれたというのだ。これにより音がする前は一階に居たことが証明され、めでたくアリバイ成立だ。下手をしたら先生と共犯ということで最有力容疑者になりかねなかったものな。
他に初めて知ったことといえば、山本くんとジェンキンスさんが部屋に戻ったのが九時五分頃、西原さんが戻ったのがその五分後であること。四人とも部屋に戻ってからは一度も降りてきていないこと。俺と浜野さんが外に出ている間は誰も食堂から離れなかったことぐらいだった。
それから、関係者は全員が身体検査を受けた。
身体検査の結果、手袋は誰も所持しておらず、民宿内にある手袋は新倉夫人が洗い物をするときに使うゴム手袋だけで、普段は流し台にひっかけてあるらしい。その他、民宿内とその周辺が徹底的に捜査されたものの、取り立てて怪しいものは何も見つかっていないようだ。
「まあ、今回の事件は楽勝だろう」松島は俺の方を見て言った。「お前は凶行の際の打撃音が聞こえてからすぐに駆けつけたんだろ?」
「そうだな」俺は答えた。
「だとしたら指紋を拭き取っている時間なんてないはずだ。犯人は自分の部屋に逃げ帰るだけで精一杯だったろうからな」
「ちなみに警察が来るまでの間、誰にも凶器には触らせてないよ」と先生が口を挟む。
「ふむ。ということは凶器には指紋が残ったままのはずだ。その指紋の主が犯人で間違いないだろうね」
「ええ? そうなるか?」俺は松島に言った。「犯人に指紋を拭き取る暇がなかった、ってのは理解できるよ。でも、それなら最初から手袋かなんかをしていたって話になるんじゃないのか」
「それは多分ないと思うね。この民宿にある手袋は洗い場に引っ掛けてあるゴム手袋だけで、他には誰も所持していないし見つかってもいない。犯人が手袋を使ったとなると洗い場からゴム手袋を持ち出し、それを嵌めて凶行に及んだってことになる。すると犯行は計画的なものだった、ってことになるわけだが、今回の事件は状況を見るにどう考えても衝動的なものだからな」
まあ、そりゃそうか……。
手袋を嵌めるほど慎重になっていたのなら、もっと賢い方法があったわけだ。
その場にあったポットで殴りつけ、慌てて部屋に逃げ帰るなんて犯行には微塵の計画性もない。ここの民宿は防音があまりよろしくないようだから、撲殺なんてしたら誰かに聞かれるのは目に見えてるし。
「まあ、そういうわけで犯人が手袋をしていたって可能性はおそらくない。しかも凶器から指紋を拭き取る時間もなかった。ってことは、凶器には犯人の指紋がべっとりついているに違いないのさ」
「俺と先生が聞いた『荒木と――』はどうなるんだ」
「ホントに聞いたのか? それ」松島は疑わしそうに眉をひそめた。「なんかのうわごとを聞き間違えたんだろ、どうせ」
「でも、俺の問いかけに答えてたんだぞ。犯人は誰か訊いたらちゃんとに……」
松島は、まあまあ落ち着けと嫌みったらしく両手をあげた。
「指紋が誰のものか分かれば済む話さ」
しかし、その十分後だ。鑑識からの情報により、凶器のポットからはきれいさっぱり指紋が拭き取られている、ということがわかったのだ。
「おかしいな」松島が渋い顔をした。「指紋が拭き取られているっていうのはどういうことだ。犯人にそんな暇は無かったはずだろ」
「先生、本当に誰にも凶器には触らせてないんでしょうね」俺は先生に訊いた。
先生は間違いないと強く頷く。
「だとすると本当におかしいぞ。犯人は一体いつ指紋を拭き取ったんだ」
「じゃあやっぱり犯人は手袋をしていたんじゃないのか」俺は訊いた。「ジェンキンスさん自身は手袋をしていたんだから彼の指紋が残っていないのは至極当然だ。で、犯人の指紋もないっていうのなら犯人も手袋をしていたと見るのが自然だろ」
松島はかぶりを振った。
「被害者の指紋がなくても、ポットにお湯を入れた新倉さんの指紋が残っているはずだ。さっき聞いたところ、ジェンキンスさんの部屋のポットにお湯を入れたのはご主人の方らしいから、少なくとも彼の指紋だけは残っていなければおかしい。もちろん新倉俊樹さんは手袋なんかしなかったそうだ」
「じゃあ凶器が何かで拭かれたことは間違いがないと?」俺は訊いた。
「そういうことになるな。それにさっきも言ったように、これは衝動的犯行だから手袋をしていたってのは不自然極まりないよ。まあ、誰の指紋もきれいに残ってなかったから拭き取られたのは間違いないんだが、指紋ってのはサッと拭いただけじゃ消えないんだよ。きれいさっぱり無かったってことは、それなりに時間をかけて拭き取らなければならない。どう考えても犯人にその時間があったようには思えないんだが……」
*
俺は今、自分の――先生と共同だけど――部屋に一人でいた。
このまま警察に任せていたのではいつ寝られるか分かったものではない。三苗に力を借りようと思ったのだ。松島もそうしてくれると助かる、なんて情けないことを言っていたし。
妹、野辺山三苗は大学二年生で山本くんより一つ下だ。三苗という名前はもちろん「一二」に続く「三」を登場させたいがためのネーミングだ。恐ろしいことに当初は「三四」という名前になる予定だったらしい。お袋が必死に止めたおかげで「三苗」に落ち着いたらしいが俺のときも止めて欲しかった。
ここの出版社に就職してから親元を離れた俺だったが独り暮らしも長くは続かなかった。残念なことに結婚や同棲ではない。三苗がこっちの大学に通うことになったのだ。すると当然下宿ということになるが娘に独り暮らしはさせたくないとのことで、家賃節約も兼ねて俺が住むアパートに三苗が越してきたのが二年前だ。三苗がやたらと警察をお世話をするようになったのはそこからだった。冗談半分で松島が話した迷宮入り事件をズバリ解決したのは衝撃的だった。しかし今そんなことはどうでもいい。
三苗に電話する前に、少し整理してみよう。俺の説明がお粗末では推理のしようがないだろうからな。
さて、事件が起こったのが例の音が聞こえた時間だとすると、犯行時刻は九時半。浜野さんは八時五十分に、ジェンキンスさんと山本くんは九時五分に、西原さんは九時十分にそれぞれの自室へ戻り、それ以降は三人とも部屋から出ていないと主張している。荒木さんは少なくとも九時から九時二十五分までは俺たちと一緒に風呂に入っていた。彼が上がったのは四十五分である。新倉夫婦はずっと食堂から動いていないと主張。
まあ、要するにアリバイがないのは西原さん、浜野さん、山本くんの三人だ。その他の人間に関してはアリバイが成立している。基本的にはその三人だけを容疑者と見て考えを進めればいいわけだが、荒木さんに関してはジェンキンスさんのご指名を受けている。『荒木と――』という言葉から、共犯の可能性も捨てきれない。
その他に分からない点としては、凶器の指紋について。犯人は凶器から指紋を拭き取る時間的余裕はなかった。にも関わらず、凶器からは指紋がきれいさっぱり拭き取られていた。犯人はいつ凶器から指紋を拭き取ったのか、という謎である。
時刻は十一時。流石に家には帰ってきているだろう。
俺は携帯の充電に余裕があることを確かめて三苗の携帯に電話をかけた。
なんだか胃が痛くなってきた。三苗のやつ、こんな時間に突然電話で殺人の相談なんかしようものなら怒り狂うかもしれない。何せあいつは、気難しいし偏屈だし皮肉屋だし……。俺の二十倍性格が悪いのだ。
三苗は七コール目でようやく出てくれた。
「……何」
と、突き放したようなアルトが聞こえてくる。この抑揚の無さが三苗の常態なので機嫌がいいのか悪いのか分からない。
「今、大丈夫か?」
「慌てて風呂から出てきたんだけど。寒い。用があるなら四十秒で」
まずいタイミングで電話をかけた。
「わ、悪かった。先に着替えていいから」
「は? そんなに長くかかるわけ」
「ちょっとこっちで事件があってな……」
携帯から舌打ちが聞こえた。
「またあたしの意見が聞きたいってか」
「頼む」
「今日は一番風呂をのんびり浸かれると思ったのに」
いつも十分のんびり浸かってるじゃねえか、という文句は飲み込んだ。
「そこをなんとか頼むよ。そうだ、お前の名推理で事件が解決したら千円分の図書カードを進呈するぞ」
「なにィ」
がめつい三苗なら食い付かないはずがない。
「千円分か……千円は嬉しいな、なんとしても欲しいとこだよな……」ぶつくさ悩む声が聞こえてくる。大学生にもなって千円であっさり揺らぐ態度は、可愛いげがあるような気もするし全くないような気もする。
「頼む。お前の推理に全てがかかってるんだよ」と、大袈裟に言ってみる。
三苗は悩んでいた。やがて、「よし」と指を鳴らす音が聞こえた。
「まあ、こっちも暇で死にそうだったから丁度いいよ。ちょっと着替えてメモ用意するから待ってて」
俺はほっとした。
千円はもちろん後で松島から徴収するつもりだ。
*
「……成る程ね……」
必要以上にたっぷり時間をかけて説明したかもしれない。そのぐらい細かいところにもこだわって話したつもりだし、そうしないと三苗が怒るのだ。
「どうだ、分かったか」俺は訊いた。
「うん」三苗はあっさりと答えた。「犯人がわかった」
そして俺は、三苗の考えを聞いた。




