四
まずは荒木さんだろう。何しろ被害者のジェンキンスさん直々のご指名だ。そう思い彼の部屋をノックしようとして、とんでもないことを思い出した。
荒木さんは今、風呂にいるじゃないか。
犯行の瞬間に風呂から出ていない彼に犯行は不可能だ。いわゆるアリバイというやつが、荒木さんにはある。
何がなんだか皆目わからなくなった。被害者から名指しされた人間にはアリバイがあった、なんて推理小説染みているにも程がある。
しかし今は考えるより行動だ。荒木さんはひとまず後回しにして、俺は西原さんの名前を呼びながら部屋のドアを叩いた。……しかし、応答がない。まさか……と思い、叩く力を強める。すると、眠そうな目をした西原さんがドアを開けてくれた。
「……何ですか?」
「眠っていたんですか?」俺は訊いた。
「ええ、すみません……お酒が入ると眠くなっちゃうんですよ。外を歩いて一旦は目が覚めたんですけど、やっぱりまた眠気が襲ってきまして……」
目を擦りながらとつとつと話す西原さんは、はす向かいの部屋で起こったことなど全く知らないように見えた。
「じゃあ、何も見ていないし、何も聞いていないんですね?」
「え? あの……何をですか?」
「ジェンキンスさんが誰かに殴られたみたいなんです。今、瀕死の重体で……」
まだ寝惚けているのだろうか、彼はそれを聞いてもしばらくぼんやりしていた。が、話の内容が脳髄にじわじわ浸透していくのが分かるように西原さんの顔が青ざめていく。
「だ、誰に、どうして……」
ややこしいことになりそうなので荒木さんの件は黙っておくことにした。
「まだ何も分かっていないんです。だからこうしてお話を伺ったのですが……」
何も収穫は無さそうだなと浜野さんの部屋へ向か――おうと思ったのだが、山本くんの部屋のドアが開いて彼がひょっこり顔を出した。両耳にイヤホンをしている。
「あのう、何かあったんですか?」彼は片耳のイヤホンを外しながら訊いてきた。きょとんとした顔をしている。
「今まで何してた?」俺と西原さんは同時に訊いた。
山本くんは俺たちの鬼気迫る声にびくっとして、もう片耳のイヤホンもポケットにしまった。幾分まじめな顔をして、
「レポートを書いてました」
「イヤホンで音楽を聴きながらかい?」俺は訊いた。
「そうです。音楽聴きながらやると集中出来るたちなんで……」
「ということは、何も聞いてないの?」
「いや、だから音楽を……」
「そうじゃなくて! つまり、部屋の外から何か聞こえなかったの?」
「ああ、聞こえましたよ」山本くんはあっさり答えた。「だから何かあったのかなーって様子を確かめようと部屋を出たら野辺山さんと西原先生がいて……」
「何が聞こえたの?」もしかしから俺や先生は聞いてないような音も聞こえたのかもしれない。……という期待はすぐに裏切られた。
「いや、何がとはわかりませんね。音楽聴いてたんで、はっきりとは聞こえなくて……。ただほら、イヤホンしてても聞こえるぐらいの大音がしたら、気になるじゃないですか」
「そっか……」
なんてタイミングの悪い人たちなんだろう。
「いったい何があったんですか?」
訝る山本くんに事情を話すと、やはり表情を驚愕の色に染めた。
「……浜野さんにも訊いてみよう」
俺は浜野さんの部屋をノックした。すると、「誰?」という少し震えた声がドア越しに返ってきた。
「野辺山です。西原さんと山本くんもいます」
「な、何があったんです?」
何となくただ事ではない様子は感じとっている、そんな声だ。俺は先程と同様に事のあらましを説明する。ああ、と彼女の慟哭が聞こえた。山本くんもそれを聞いて心苦しそうな表情を浮かべている。
話を聞くどころじゃないなと思いドアから離れようとしたとき、パチンと鍵が開く音とともに目の前のそれは開いた。赤い目をした浜野さんが立っている。
「ごめんなさい、取り乱してしまって……見苦しい様子をお見せしました」
「お話を伺ってもよろしいでしょうか」俺は訊いた。
「といってもそれほど価値のある話は出来ませんけど……」
まだ少し震える声で語ってくれた話によると、浜野さんは部屋でテレビを観ていたらしい。そこでジェンキンスさんの絶叫と、がぁん、という音を聞いた。ただ事ではない何かがジェンキンスさんの身に起こったのでは、と思ったものの、恐怖で部屋から出られなかったそうだ。確かにうかつに外にでて犯人に出くわしたら何をされるか分からない。
「あの、そんなことより、救急車はまだ来ないんですか」
浜野さんが俺たち越しに、自室で介抱されているジェンキンスさんを見やった。つられて振り向くと、ジェンキンスさんは頭に包帯を巻かれ、布団に横たえられていた。実際、出血を抑えて動かさないようにする以外に手立てがないのだろう。
「まだ十分も経ってませんよ、あと少なくとも五十分は……」
「長すぎます、そんなの! ロスが、ロスがもたないじゃない――あっ、そうだ!」
浜野さんが手を叩いた。俺たちをすり抜けてジェンキンスさんの容態をみている新倉夫妻のところへ歩み寄ると、
「新倉さん、この近くの橋を渡ったところに診療所がありましたね!」
もう自分に出来ることはないといった風情で新倉俊樹さんが立ち上がった。浜野さんに向き直ると、
「中野クリニックですか、確かにありますね!」
「それですよ、救急車なんて待たずにそこへ行けばいいじゃありませんか!」浜野さんが居ても立ってもいられないという様子で叫んだ。「私、車の鍵を持ってきます」
言うが早いか浜野さんは自室へ舞い戻り、手にキーをぶら下げて廊下に出てきた。恋人のこととなれば行動力が違う。
「ロスを、連れていきましょう」
*
浜野さんが車を出来る限り玄関に寄せると、俺と新倉さんはジェンキンスさんをなるべくそっと後部座席に横たえた。百九十はある巨躯なので足は折り畳むような形になったがこの際仕方がない。ひどい土砂降りだったものの浜野さんの寄せ方が神憑り的に巧かったのでジェンキンスが濡れずに済んだのが幸いだ。
「じゃあ、ちょっと行ってきます」
浜野さんが運転席から言う。
「いや、向こうでまたジェンキンスさんを降ろすときに一人じゃ難しいでしょう。僕も付き合いますよ」
彼女が頷くのを確認すると俺は助手席に乗り込んだ。心配そうに見送る新倉さんを残し、車は発進する。
それにしても凄まじい雨だ。ひっきりなしにワイパーをかけているのに大きな雨粒のせいで視界が悪い。道路を走るだけで水が車体の半ばまで跳ねている。
「何分ぐらいで着きますか」
「十分もかからないはずです」
それを聞いて安心した。これでジェンキンスさんが助かる望みが大きくなる。
しかし実際は、五分ほど走ったところでブレーキが踏まれることになった。
「そんな……」
ふらふらと車から出る浜野さん。危ない、と呼び止めても彼女は心ここにあらずといった様子で呆然と雨に打たれていた。
ヘッドライトに照らされているはずの橋が、真っ黒の奔流と化していたのである。最初は道を間違えたのかと思ったが、そうではないことを知って俺は愕然とした。川の氾濫によって橋が流されてしまったのだ。
浜野さんがそのまま飛び込みかねない勢いでその場に突っ伏していたので俺は声をかけに行った。悄然とする浜野さんの手を引き、運転出来そうもなかったので助手席に座らせる。代わりに俺が運転席に座りUターンしようと慎重にハンドルをきった。お互いにずぶ濡れだったがそんなことより沈んだ気持ちの方が深刻だった。
《星雲》に着き、山本くんと新倉さんが行きと同じ要領でジェンキンスさんを降ろすと、浜野さんと俺も中に入った。ちょうど風呂上がりといった風情の荒木さんを含め、全員が食堂に揃っていた。俺たちの様子を見て誰もが察したのだろう、事情を訊いてくる者はいない。
ジェンキンスさんは食堂のフローリングに敷いた毛布に横たえることになった。
新倉夫人から受け取ったタオルで濡れた髪を拭きながら、荒木さんにいつ上がったのか訊いてみると九時四十五分頃だそうだ。ずいぶん長風呂だったなと思った。
山本くんが、
「二人とも風邪ひいちゃいますよ、お風呂で温まってきたらどうですか」
と、二割俺に、八割浜野さんにといった感じの心遣いで言った。
「ありがとう。でも、彼を見ておきたいから……」浜野さんが憂いに満ちた笑みを浮かべた。だいぶ落ち着いたようだ。俺もそんな気分じゃないので辞退する。
それきり会話がぷつりと途切れ、まるで泥水のような時間が流れていった。
全員が全員、ジェンキンスさんに目を向けて押し黙っていた。
おろおろと落ち着かない様子で目を泳がせる新倉夫人に、椅子に座って頭を抱えるその旦那さん。
腕組みをして苛立たしげに床と時計で視線を往復させる荒木さん。
西原さんは顎に手をやりながら物思いにふけり、浜野さんは心配そうにジェンキンスさんを見ていた。そんな浜野さんを辛そうに見つめる山本くん。先生も眉間に皺が寄りっぱなしだった。誰も何も言わない。何もしない。
救急車を呼んでから四十分ぐらいだろうか。
十時十分、ジェンキンスさんが息を引き取り、その場が静かな哀しみに包まれた。
まだ警察が来るまでに二十分もある。俺は考えることにした。誰が犯人なのか? とりあえず何かを考えて気を紛らすより平生を保つ術がわからなかったのだ。
まず外部犯ではない。何故ならば、現場は二階だった上、外は土砂降りだった。窓から侵入してきたのなら部屋が濡れているはずだ。しかし濡れた痕はなかった。それにジェンキンスさんは額の上を殴られていた。ということは彼は前から殴られたのだ。そしてジェンキンスさんは背が高い。ジェンキンスさんが立っている状態で額の上を殴るのは困難なので、殴られたとき彼は座っていたと考えた方が自然だ(犯人が二メートルの巨漢だった可能性も捨てきれないが)。いくらなんでも知らない人が浸入してきたのに呑気に座ったまま殴られたりはしないだろう。殴られたとしても後ろからだ。しかしジェンキンスさんは前から殴られている。
つまり、犯人はジェンキンスさんの顔見知りだ。
というか、素直に考えるなら犯人は音がしたときに二階に居た西原さん、浜野さん、山本くんの三人のうちの誰かだろう。西原さんは眠っていた、山本くんは音楽を聴いていた、浜野さんは怖くて出られなかったと、つまり三人とも部屋から出ていないと主張している。が、そのどれが嘘であってもおかしくはない。ジェンキンスさんを殴ってから慌てて部屋に駆け込んだ、というシナリオは三人の誰に対しても当てはまる。
しかし……。
やはり引っ掛かっているのはジェンキンスさんの言い遺した「荒木と――」という言葉だ。それを信じるなら犯人は荒木さんということになる。けれども荒木さんには明確なアリバイがある。
それとも「荒木と――」と言うからにはやはり続きが……共犯者がいる、ということなのか。共犯者がいるのなら荒木さんにアリバイがあるのも頷ける話だが、そうすると荒木さんは主犯ではない――つまり直接殴った訳ではない――だろう。普通、主犯でもない人の名前を真っ先に言い遺すだろうか? それとも「荒木と――」の続きには共犯者の名前ではなく、もっと別の何かがあったのか?
荒木さんが犯人だとしなら動機は例の入試問題流出だろう。彼は流出させた人はジェンキンスさんだと見なしたのだ。曲がったことは嫌いみたいだったし動機にはなる……がしかし、殺すつもりだったのなら、どうしてわざわざ浴場でそのことを俺たちに話したのかが分からない。私には動機がありますよ、とあらかじめ教えるようなものではないか。それともアリバイができることを確信していたからこそ、話せたのだろうか?
……わからない。とりあえず警察が来ないことには……。
警察と救急車が到着したのは十時三十五分だった。




