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 聞いた通り、結構広い浴場だった。洗い場は五つあり、檜の浴槽には無理をすれば十人は入れそうである。ここまでくると見た目ただの民家とほとんど変わらないとか思っていたのが申し訳なくなってきた。

「ははあ、思ってたよりも広いもんですな。元英語科の先生方が病みつきになるのも納得だ、なかなか穴場ですね」荒木さんが顎を撫でながら言った。

 その荒木さんの体を見ると腹筋は割れているし胸板は厚いし腕はがっしりしている。それは別にいい。俺だって腹筋ぐらい割れているし胸板は厚いし腕はがっしりしている。だが荒木さんはそれでいてスマートだ。体格はしっかりしつつ、すらりとした体躯。羨ましすぎる。何せ俺はというと、低身長でガタイだけ無駄にあるずんぐりむっくり体型なので女の子にはてんでモテない。南村先生はというとすっかり「中年」という単語から連想される体つきに忠実な体型で、荒木さんと同じくらいの歳だろうに大違いだなと思ったが本人は全く気にしていないようだ。

「荒木さんはここに来るのは初めてなんですか?」

 三人とも体を洗い終え、先生が湯船に足を突っ込みながら訊いた。荒木さんと俺も続く。肩まで入って思わず『あー……』と濁点付きの声が出て自分が嫌になった。まだまだ若いつもりでいるのに。

「初めてですよ」『うー……』と濁点付きの声を漏らしたあと荒木さんは答えた。「私は英語科じゃないのでね、数学教えてんですよ」

「西原さんたちは教師時代によく来てたそうですが」俺は訊いた。

「ええそうです。英語科の皆さんは本当に羨ましくなるぐらいに仲が良かったんですよ」

「荒木さんは仲良しグループには入っていないと?」

「まあそれなりには仲が良かったつもりですがね、あそこまでは……」荒木さんは言いながら天井を仰ぐ。

 つられて俺も何となく天井を見てみる。身体中の疲れが天井に吸い込まれるような気がした。全身がお湯にとろけそうだ。

 落ち着いて目を閉じると外から、ざああ……という雨音が聞こえてきた。結構強そうだな、と思った。

「ところでお二人はご存知なんですか?」ふいに荒木さんが口を開いた。

「何を?」

 俺は聞き返す。荒木さんはふうと息をつき表情を一変、真面目な顔をした。

「どうして英語科の皆さんが教師を辞めることになったのかを、です」

 俺は静かに息を飲んだ。

 どうして英語科の教師たちが揃って転職してしまっているのか。それも全員、教職員という仕事が嫌いになったわけでもなさそうだったのに……。

 それは今までずっと、喉に引っ掛かった小骨のように気になっていたことだった。けれども何となく、そこには触れてはならないような気がして訊けなかった。空気が読めない南村先生でさえそれをすぐに感じとっていたようだから、もう気にしないことにして頭の隅に追いやっていたのだ。

「……いえ、知りません」

 荒木さんが真面目な顔をしているので真面目な話なのだろう。俺も真面目な声を出した。

「実は私が今回ここへ来た理由はそれなんですよ」

 ただでさえ張りのある彼のバリトンが風呂場のエコーでよく響く。

「皆さんが退職された理由を突き止めるために?」

 南村先生が訊くと荒木さんはゆるゆるとかぶりを振った。

「それは分かっているんです。……三年前、高校入試の時期ですね。その年の、うちの学校の入試問題が流出したんですよ」

「試験日よりも前にですか」

「もちろんです。どこかの親御さんに積まれた大金に目がくらんだのでしょう」

 何となく話が見えてきた。

「その流出した入試問題の教科というのが英語だった、と?」

「その通りです。その年、英語の入試問題を担当していたのが西原先生、浜野先生、ジェンキンス先生でした」

「そういうことだったんですか……」

「……でも結局のところ、三人のうち誰が問題を流出させたのかは分からなかったのです。何せ三人とも否定しましたからね」荒木さんは頭に乗せたタオルで額の汗を拭った。「おかげで三人ともクビを切らざるを得なくなった。疑わしきは罰せよってね」

「成る程……つまり荒木さんがここへ来た理由というのは、そういうことなんですね」先生が言った。

「ええ、そうです。三年前に揃ってクビになってからは仲良しだった三人もギスギスしてたようでしてね、そりゃあ三人のうちの誰かのせいで職を失ったのだから当然ですが……。それでも三人とも再就職が出来たのもあって、過去のいさかいは水に流そうということになったみたいなんです。今回の旅行は言うなれば仲直りツアーなんですが……」荒木さんはタオルを握りしめた。「しかし、私は納得出来ないんですよ。その犯人は、自分のせいで他の二人が仕事を失ったというのにも関わらずですよ、のうのうと知らん顔を決め込んでいるわけですからね」声には鋭い気迫が込められていた。

 つまり荒木さんは問題を流出させた犯人を明らかにするためにここへ来たのだ。荒木さんはふっと自嘲気味に笑う。

「いやすみません、訊かれてもいないことを一人で喋ってしまって……誰かに聞いて欲しかったのかもしれません。あの三人に言うわけにはいかないんで部外者のお二人に……」

「いえいいんですよ。で、犯人を突き止めてどうするんですか?」好奇心の赴くままに俺は訊いた。

「実はもうおおよその見当はついてるんです。確信はないのですが……取り敢えず昼間、問い詰めたんです。しかし奴はしらばっくれましたよ。それどころか居直ったかのような態度をとってきた。証拠はあるのか、と訊かれたら確かにないわけですが、でも、犯人はアイツだと……!」鼻息荒く語ったかと思うとしおらしく顔を伏せた。「いえ、すいません。憶測でずいぶんと乱暴なことを申しました」

 この勢いで犯人の名前まで聞いてしまおうと思ったがのぼせてきた。ちょっと湯が熱すぎる気がする。南村先生も同じだったようで俺たち二人はあがらせてもらうことにした。

 荒木さんはもう少し浸かっているそうだ。素が出過ぎたと思ったのか気恥ずかしそうだ。

 脱衣場で壁にかかった時計を見やると九時二十五分。部屋で先生とオセロでもするかなと思いつつ俺は着替えた。家だと下着のまま床につくのでこういうときにはどういう格好をしたらいいのかさっぱり分からない。


 *


 風呂上がりの湯気を立ち上らせつつ、俺は外から聞こえてくる雨音に耳を傾けていた。何だか随分と土砂降りになってしまっているらしい。

 食堂へ行くと新倉夫妻が揃って遅い晩飯を食べていた。他の面々は全員部屋へ戻ったという。二階へ続く階段をのぼるとすぐに廊下になっている。廊下に出て右手には奥から荒木さんの部屋、ジェンキンスさんの部屋、一番手前にお手洗い。左手には奥から山本くんの部屋、浜野さんの部屋、そして一番手前に西原さんの部屋という部屋割りである。俺たちの部屋は一階なので関係はないけど、気が向いたら誰かの部屋に遊びに行くのも……ってそれは図々しすぎるか。まあ、自分の部屋で先生とオセロでもしよう。

 俺たちの部屋へ戻るには階段の前を通らなければならない。ちょうど階段前を歩いていた、その瞬間である。

 二階の方からから声が聞こえたのだ。

 ――や、やめろぉぉっ!

 声はそう聞き取れた。男の声だ。それも聞き覚えがある。若干だが、訛りのついた叫びだった気がする――ジェンキンスさんか?

 などと考えている間に、更に音が聞こえてきた。がぁん! という感じの、まるで人を鈍器で殴ったような音だ。推理作家の編集をやっているせいでこんな発想になるのだろうが、しかしこのときはまだ「まるで」で済むと思っていた。

 俺たちは息もすることも忘れて二階へかけ上がった。

 廊下に出ると、右手真ん中の部屋――ジェンキンスさんの部屋のドアが開けっ放しになっていた。半開きとかではなく九十度ほど開いている。いよいよ嫌な予感は最高潮に達した。ジェンキンスさんの部屋へ乗り込むと、そこには予想通りの光景が広がっていた。

「ジェンキンスさん!」

 彼はドアに頭を向け、うつぶせの状態で倒れている。その傍らには俺たちの部屋にもあるポットが転がっていた。よく見ると血がついている。きっとあれで殴られたのだ。俺たちは慌てて倒れている彼に駆け寄った。見ると額の上あたりが少しだけ陥没していて、そこから血が流れ出ていた。

「ジェンキンスさん!」

 耳元で叫ぶ。すると、うぅ……と声を出しながら薄く目を開いた。

 まだ生きている!

 動転していた俺もこのときは狂喜した。まだ生きているなら犯人の名前だって聞ける。

「はっ、は……」舌がうまく回らない。「犯人は!?」

 焦り過ぎだ。つい早口になってしまう。そう自分で分かっていても、滝のように汗は流れ、口の中は急速に乾いていく。俺は再び声を出した。

「犯人は――」

 誰なんです、と言いかけたところでジェンキンスさんが口を開いた。慌てて耳を近付ける。先生も同様のことをしていた。

 あ……、と絞り出すような声が聞こえた。俺は耳に全神経を集約させる。

 ――あらき、と……

 ジェンキンスさんはそう言って、目を閉じた。そして俺は慄然とする。

 『荒木と――』。

 朦朧としているせいか呂律は怪しかったし、最後の方は消え入りそうな声だったが、確かにそう言ったのだ。

 あの荒木さんが、こんな凶行を……? 『と』と言うからにはもう一人いるのだろうか?

 俺は続きを聞こうと何度も大声で呼び掛けた。しかし、意識が戻る気配はない。

 そっとジェンキンスさんの鼻先に手をかざすと、一応息をしている様子はあった。彼の額の上を見ると血は急速に流れ出ている。アルコールが入ったせいもあり血の巡りがよくなっているのだろう。このままではあっという間に出血多量で死んでしまう。

 俺は脳髄が凍りついたような心持ちがした。しかし――

「野辺山くん!」

 先生の声で脳が解凍された。

「救急車と、警察ですね!」

「ああ。それと、呼んだら西原さん、浜野さん、山本くん、そして荒木さんに話を聞いておいてくれ。俺は新倉さん夫妻に応急措置が出来るものがないか訊いてくる」

 俺は頷きながら携帯で電話をかける。先生も廊下へ飛び出した。


 救急車、警察共々ここへ到着するのは早くても一時間後と言われ、俺は愕然とした。もちろんそれでは困ると言ったのだが、土砂崩れが起きて道が塞がってしまっているらしく遠回りするしかないらしいのだ。それに加えて、外はバケツをひっくり返したかのような大雨で交通状態も甚だしく悪い。そもそもこの近くに救急車がある病院も警察署もないというのだから悪条件のオンパレードだ。

 そうこうしている間に血相を変えた新倉夫人が救急箱を片手に二階へ上がってきた。先生と旦那さんも一緒だ。

 思わずジェンキンスさんの怪我を思い出す。まだ息はあったものの、あのレベルの損傷だとどれくらい持つのだろうか。応急措置はどれくらい効果があるのだろうか。

 心配だけど気を揉んだところで何も解決はしない。どうして四人から話を聞けと言われたのかは考えるまでもないことだった。この階に居た人間は、あんな音を間近で聞いていて、あわよくば犯行を目撃しているかもしれないのだ。有益な情報が得られるに違いない。一時間も警察を待ってるぐらいなら自分で事件の情報をかき集めてやろうじゃないか。

 そして俺たちがあの音を聞いて以降、新倉夫妻を呼びに行った先生は除いて、一階に降りた人はいない。つまり、犯人はまだ二階に居る。南村先生と新倉さん夫妻を除き、今この階に居る人間の中の誰かが犯人なのだ。

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