第1話
「クラウディア。単刀直入に言おう。君との婚約を解消したい」
王宮夜会のテラスで、婚約者のジェラルド・クロフォード侯爵令息はそう告げた。
私は扇を持つ指先の角度ひとつ崩さず、口角を三ミリだけ上げて彼を見つめ返す。社交界で『完璧なる淑女の標本』と呼ばれてきた、いつもの顔だ。
「理由を、お伺いしても?」
「君は完璧すぎるんだ。淑女としての教養も、領地経営の補佐も非の打ちどころがない。だが、君といると息が詰まる! 弱音は吐かないし、私に甘えて縋ることもしない。隙のない君の隣にいると、自分が無力な男に思えてくるんだ!」
あなたが押しつけてきた領地の書類の山を、私が徹夜で片づけたからでしょうに。
「私には、守ってやりたくなる愛らしい女性が必要なんだ。一人で完結してしまう氷の彫刻ではなく、私を頼ってくれる温かい女性がね!」
最近ジェラルドが侍らせている男爵令嬢の顔でも、思い浮かべているのだろう。
彼は私が取り乱すのを警戒して、やけに肩を怒らせていた。
「君の家格にも名誉にも傷がつかないよう、配慮はする。だから――」
「承知いたしました」
「……え?」
私は扇をパチンと閉じた。
「ジェラルド様のご意志、しかと承りました。この瞬間をもって婚約は解消ということで、異存はございません」
「あ、いや、クラウディア? そんなにあっさり……五年も婚約者だったのだぞ?」
「お引き止めする理由がどこにありましょう。息が詰まる相手と生涯を共にするなど、お互いに不幸ですもの」
言い終えた瞬間、胸の奥で、重い錠前がガチャリと外れる。
終わった。本当に、終わったのね。
「はぁぁぁぁ…………」
私は両肩から力を抜いて、腹の底からため息を吐き出した。背筋の緊張を解くと、重心が勝手に片足へ寄る。十二歳から八年間、私に貼りついていた『完璧な淑女』が、ぺりぺりと剥がれていく。
「クラウディア?」
「ああ、もう。息が詰まりそうだったのはこっちよ、この石頭」
口からこぼれた本音に、ジェラルドが固まった。
もう婚約者でも何でもない男に、取り繕う義理はない。
その時だった。
「ぶッ……あっはははははは!!」
テラスの太い円柱の陰から、腹の底からの爆笑が響いた。
「誰だ!」
飛び上がって振り返るジェラルドの前に、笑い転げながら黒髪の青年が現れる。
ルーファス・ヴァレンタイン公爵。弱冠二十二で近衛騎士団を率いる名門の当主で、私にとっては、泥団子を投げ合って育った十年来の腐れ縁だ。
「悪い、悪い。傑作すぎて腹筋が千切れるかと思った。石頭って言われてやんの!」
「ル、ルーファス公爵閣下!? 人の密談を盗み聞きとは、礼を失しているぞ!」
「最初からここにいたんだよ。お前らが勝手に修羅場を始めたんだろ」
ルーファスはひらひらと手を振って、真っ赤になって震えるジェラルドの肩をぽんぽんと叩いた。
「ただ、礼は言っとくぜ。お前、最高の道化だな。クラウディアにあんな顔をさせた奴は初めて見た」
「なっ……」
「会場で待ってるんだろ、お前の可愛い小鳥ちゃんが。早く行ってやれよ」
琥珀色の目に冷たく見下ろされて、ジェラルドは言い返す言葉を失った。
「後悔しても知らんからな、クラウディア!」
捨て台詞を残して、彼は広間へ逃げていった。
二人きりになったテラスを、夜風が抜けていく。
「あー、疲れた!!」
私は両腕を頭上へ突き上げて、全力で伸びをした。扇は手すりの向こうへ放り投げ、凝り固まった首をぐるぐる回す。
「痛い! 肩が凝る! コルセットの紐をハサミで切り刻みたい! 愛想笑いのしすぎで頬がぴくぴく痙攣してるんだけど!?」
「全開だな。さっきまでの社交界の至宝サマはどこ行った」
「至宝は廃業しましたー! 今日は人生最高の記念日よ! あいつ、私が頼ってくれないだの何だの言ってたけど、頼ったら頼ったで不機嫌になるくせに! 誰が尻拭いしてやってたと思ってんのよ、バカ男!」
手すりに両肘をついて夜空を仰ぐ。言葉にするたび、胸にこびりついていた黒い澱が剥がれ落ちていった。
「でも、これで自由よ」
両手を握りしめたら、勝手に笑いがこみ上げてくる。
「明日は朝十時に起きるわ。ドレスは着ない。ゆったりした部屋着で、髪もぼさぼさのまま、買い溜めた本を端から読破するの。誰の期待も背負わず、思う存分だらける!」
「本気だな」
ルーファスが小さく笑って、手すりに背を預けた。月明かりの下で見る横顔は、悔しいくらい整っている。この男が社交界でも指折りの美男子だということを、悪友の気安さですっかり忘れていた。
「何よ、私の計画に文句でもあるわけ?」
「いや。最高だと思うぜ。お前のみっともない面は見慣れてるしな」
にやりと笑ったルーファスが、ふいに手すりから体を離した。
一歩、距離が詰まる。
「なあ、クラウディア」
「な、なに」
「お前のその怠惰生活、実家じゃ無理だろ。親父さんは厳しい。『傷物』になった娘に、すぐ次の見合い話を持ってくるのがオチだ」
ぎくり、と心臓が跳ねた。
世間体を何より大事にするお父様のことだ。間違いなくそうする。どこぞの後妻に押し込まれる未来が、頭の中にありありと浮かんだ。
「う……それは……」
「だろ?」
意地の悪い笑みのまま、ルーファスがさらに近づいてくる。大きな影に、すっぽり覆われた。
「いい提案がある。聞くか?」
「ろくな提案じゃない気がするんだけど」
「俺の屋敷に来いよ」
頭の中が、一瞬、真っ白になった。
「……は?」
「公爵邸の図書室は、王立図書館より蔵書が多い。日当たりもいいし、特注のふかふかソファもある。一日中部屋着で本を読んでようが、昼過ぎまで寝てようが、誰にも文句は言わせねえ。そういう環境を用意してやる」
あまりに甘い条件に、目眩がした。でも、おかしい。
「なんであなたがそこまでしてくれるのよ。いくら社交界を引退したいからって、愛人枠に収まる気はないわよ?」
「愛人なわけねえだろ、馬鹿」
低く笑って、ルーファスは私の額を指で小突いた。
その指が、そのまま頬へ滑ってくる。
「っ……!?」
身を硬くした私を、目がまっすぐ見ていた。からかいの色はもうない。悪友のものじゃない、静かに熱い目だった。
「公爵夫人として迎えるに決まってんだろ」
「…………はぁ!?」
夜風の中に、私の間抜けな声が響いた。
求婚。今、この男は求婚と言った。私に。十年来の悪友が。
「な、何言ってるのよ! 頭打ったの!?」
「至って正気だ。ずっと待ってたんだよ、お前があの石頭と手を切る日を」
ルーファスの親指が、私の頬を優しく撫でる。
「誰の期待も背負わなくていい。完璧な淑女なんざ演じなくていい。俺の前でだけ、全部脱ぎ捨てて息を抜いてろ。……お前の、そのだらしなくて可愛い本性、誰にも見せたくねえんだよ」
耳元で震える、低い声。
憎まれ口しか叩き合ってこなかった男が、見たこともない顔で私を見ている。
「ち、ちょっと待ちなさい! 私たち、泥団子を投げ合った仲じゃない!」
「泥団子は十年前だ。俺はとっくに男になってるし、お前のことも女として見てる」
退路を塞ぐように、ルーファスのもう片方の手が、私の背後の手すりに置かれた。
完璧な淑女をやめて、自由な引きこもり生活を手に入れたはずなのに。どうして目の前の悪友が、こんな顔で迫ってくるのか。
「返事は急がねえよ。とりあえず明日、お前の実家に乗り込んで親父さんを説得してやるから、部屋で大人しく待ってろ」
「待って! 急がないって言った端から話を進めないで!?」
抗議を丸ごと無視して、ルーファスは満足そうに口の端を上げた。
「じゃあな、俺の可愛いクラウディア。明日、迎えに行く」
額に、軽く唇が落ちた。
身軽にテラスを去っていく背中を、私は動けないまま見送る。へたり込んだ膝が、笑っていた。
「……なんなのよ、もう」
額を押さえても、熱は引かない。
あの男は、言ったことは必ずやる。十年の付き合いで、それだけは嫌というほど知っている。
明日、本当に迎えに来る。




