18. 悪夢「雛鳥の傍観者」
沈み込んだ感覚が危険信号に切り替わる。下半身にまとわりつくどろりとした流砂に千花は意識を覚醒させた。
「なに、これ」
唖然として周囲を見渡せば、やけに低い視界に涅色の泥の海が広がっている。刻一刻と水位を増す様相は、埋もれていく体に相対的に成り立っている。足を支える大地がないとすれば、これは所謂底なし沼。
絶えず体を吸い込まれ、腕の半分を泥に沈めたところで、千花の愚鈍な神経は悲鳴を上げた。
「嫌、待って!」
一心不乱に両腕で泥を掻く。
……違う腕じゃない。もしかして翼⁉
汚れていなくとも全身が灰色で、疎遠な体毛に覆われている。長い腕はなく、発達途上の翼がバタバタと動いている。
視界の低さに納得がいくと同時に、千花は三度目の悪夢を見ているのだと理解した。開幕絶体絶命とは、千花に夢を見せる神様か悪魔かの無慈悲さにも言葉が出ない。
沼に沈んだことなどなく、目覚めたときには命の危機であったこの状況で、平凡な女子高校生の千花に正常な判断などできるわけがなかった。
考えなしにもがいた分体は沈み、幼い体であることも相まってこれ以上抵抗する力も残っていない。肩まで泥の中につかれば、もう身動きすらとれなかった。
一面に漂う苦い匂いに顔がゆがむ。空気を求めて首を伸ばすと、前方の沼の境界に六匹の雛鳥が立っていた。黄色の体毛に幅の広いくちばし。皆千花の方を向いて傍観している。
「お願い、助けを呼んできて」
体の動かない千花は彼らに救助を求めることが精一杯だった。幼子には無理でも、彼らの親が近くにいれば助けてもらえるかもしれない。
しかし、いややはりというべきか、彼らの返答は雑言混じりのNOだった。
「醜いお前を助けるわけないだろ」
「というかあなたを沼に沈めるために私たち頑張ったんだから」
「俺らより体が大きくて泳ぎが速いからってなあ、調子に乗るなよ」
「泥に濡れて一層みじめね」
口々に溜まっていたらしい鬱憤をぶつけ、気が済んだのか千花の最後も確認しないまま森の中へ去っていく。
とうとう口が埋もれ、悲鳴も出ないまま静かな終わりを待つ。
風に吹かれて擦れる葉音が鮮明に届く。沼の一帯は背の高い木々に囲まれ、日光も届かない。
千花は避けられない数瞬先の苦痛に恐怖で満たされていた。新しい空気を吸うことはすでに許されない。全てが泥に浸かる直前、辛うじて地上にあった目と耳は陸に残る一匹の雛鳥をとらえていた。
「わたしはあなたを……」
湿った影を落とす雛鳥は、震える声で小さく鳴いた。そのすべてを聞き終える前に千花の肢体は余さず埋まり、高粘度の波に溶けた。
「ぷはっ」
「なんだ⁉」
酸素を求めて上体を起こすと、背の高いスツールに腰かける男が、隣で驚愕の声を上げた。右手に持ったコーヒーカップの中身がこぼれそうに揺れている。店内に声が響いて、近隣席のお客さんの注目を集めてしまっていた。
「はあ、はあ、柳木さんどうしたんですか?」
「どうしたじゃねえよ。仮眠しますとか言っといて、息止めゲームでもしてんのかお前は」
「いや、あの、また例の夢を見まして」
勧誘した高校生に突如発現した不吉な夢見体質。童話を渡航する摩訶不思議な現象を気味悪く思いつつも、興味をひかれているこの男性、名を簾柳木という。
千花のアルバイト先、童話書店『CLOVER』の店長で年齢は二十代半ば。くせっ毛の黒髪が鋭い目の上まで伸び、部分的にアッシュグレーを入れている。体格は細くもなく太くもなく、筋肉質で高身長。白シャツにチャコールのカーディガンを羽織り、下はテーパードパンツだ。
正面に立たれただけで有り金出してしまいそうになる威圧感だけれども、根は優しい人格者であり、暴言暴力に目を瞑れば魅力的な人間である。女性の扱いはまるでなっていないので、好きになれば後で後悔するタイプの男と言っていい。
本日は十一月も二週目の土曜日。一時間後には現在地である喫茶店『ロゼッタ』で読み聞かせ会が行われ、千花が読み手を担当する。この喫茶店は書店の向かいにあり、柳木の旧友が経営をしている。普段は柳木によって立ち入りを禁止されている(従ってはいない)が、読み聞かせは仕事。入店にも大義名分がある。
午前の仕事を終えた後、柳木とともに昼食を兼ねて店に入り、カウンター席に並んでいる。テーブル席にしなかったのはもちろん、厨房にいる彼から面白いネタを引き出すためである。
「大丈夫かい千花ちゃん」
「すみません籐馬さん。緊張してるのか息苦しい夢を見ちゃって」
整った栗色の髪が目を引くこの男性が、喫茶店のマスターである吉塚籐馬だ。白のシャツにシックな黒のソムリエエプロンを結んでいる。柳木が精悍で男らしい兵士だとメルヘンに評価するならば、彼は清爽な騎士、位を上げて貴公子でもよい。女性が嫉妬するような白い肌に絶えない笑顔が浮かんでいる。
喫茶店よりはカフェが似合うような気もするが、喫茶店ならではの落ち着いた雰囲気と人との繋がりを好いているという。柳木とは中学時代からの仲らしい。
「柳木が千花ちゃんを使い過ぎてるんじゃないか?疲れているときは嫌な夢も見るよ」
「……それは否定もしきれんが。吉報が入ってな、明日から茂さんが復帰する」
バイトを始めたころ、何度か名前を聞いたことがある。
「『CLOVER』の従業員の方でしたっけ?」
「ああ、お前がバイトを始める前にがんの治療で入院してたんだ。早くに見つかったおかげで悪くはならなかった。まあそれもあってお前を勧誘したんだ。人手不足だな」
(それなら私はとてつもない貢献をしているのでは⁉)
鼻を高くして柳木の話を聞く。茂さんと敬称がつくのだから柳木より年上だとは思うけれど、千花は一度もその人にあったことがない。明日の初対面、ワクワクはすれど怖い人ならどうしよう。
「やっとかあ、茂さんは常連さんだからね。ずっと顔が見えないから寂しかったよ」
籐馬とも面識があるようだ。毎日の喫茶店通いから想像するに、温和な男性のように思える。厨房からのぞかせる籐馬の優しい表情に千花の懸念もほころんだ。




