最強の聖女
ジャスワントというのはシルヴィアにとって『もし周囲の期待どおりに生きることができたなら、婚約者だった少年』だ。とうの昔に立ち消えた話で、興味もなかった。だが、実際は自分にいっぱいいっぱいで、見えていなかったのだろう。
意志薄弱で風見鶏な、大したこともできない少年。
そう思っていた少年を目の前にして、今、自分の観察眼のなさを思い知っている。
「元気でよかった、シルヴィア」
どうして気づかなかったのだろう。
監視塔の床に転がったシルヴィアを上から見おろす、この暗い瞳を。
「心配してたんだ。急にいなくなるし、どこでどうしてるんだろうって。でも信じてたよ。君は聖女ベルニアの末裔。諦めるわけないって――僕と同じで」
「……違います。私は、手段くらい、選びます」
妖魔皇の心臓を盗んで瘴気を発生させる。マリアンヌがなんとか押さえているが、本来ならこの街から大陸中に瘴気が広がってもおかしくない暴挙だ。
だが、この状況をおさめた聖女と皇帝候補なら、皇帝選を制したも同然だろう。
「そうまでして皇帝になりたいだなんて」
「だって聖女ベルニアの導きだからね。皇帝になってほしいっていう、彼女の願いだ」
ルルカの夢見がちも大概だったが、こちらはその上をいくようだ。
「だから、見返してやるんだ。僕を馬鹿にしてきた連中を――君も含めて、ね」
「っ!」
「ああ、ごめん」
シルヴィアの指を踏んだあとで、申し訳なさそうにジャスワントが両膝を突く。
「でもシルヴィア。君のことは本当に可哀想だと思ってた。勝手に期待はずれだって見切られて、散々な目に遭わされて――君は、僕と同じだ。だから助けたい」
「は……?」
「僕はね、どっちだっていいんだよ。だってふたりとも、聖女ベルニアの末裔だ」
いつもの気弱な笑みを浮かべて、ジャスワントがシルヴィアを覗きこむ。
「交渉してもいいよ。今、皇帝選の一位は君だ。君とプリメラ、僕はどっちだってかまわない。――僕と誓約してくれるなら、瘴気の暴走を止めてあげる」
「……あなたに、止められるんですか?」
「妖魔皇は今、心臓が体に合わなくて拒絶反応を起こしてる。まあそうなるようにしたのは僕だけど――解決は簡単だ。摘出してあげればいいんだよ」
シルヴィアの目の前に、ジャスワントが長い鎖を垂らした。先に小さな矢尻のついた、銀色の鎖だ。
「これ、妖魔皇の心臓を保管してた鎖なんだ。聖女ベルニアの形見。これに僕が作った術式を組み込めば、心臓が拘束されて元の、封印された状態に戻る。そうすれば瘴気もおさまるよ」
「……どうしてそんなものを」
「プリメラが役に立たなかったときのための保険なんだ。それにこの瘴気をおさめたあとも、使えるだろうしね」
舌打ちしたい気分で、シルヴィアは確認する。
「鎖を奪ってもあなたの術式がないと、妖魔皇の心臓が封印できないと」
「ご明察」
「意外と策士なんですね」
「僕は臆病だから」
「なら、私に脅されるとは?」
「君にそんな時間があるかな」
今、時間がないのはルルカを助けて瘴気を止めたいシルヴィアのほうだ。それをジャスワントはわかっている。
「……わかりました。あなたと誓約します」
「本当に?」
「ええ。私は誰が皇帝になろうが興味がありません。私の点数が魅力的だというなら、どうぞご勝手に。――だからお父様を、助けて」
じっと見つめて懇願すると、ジャスワントはにこりと笑った。
「いいよ――って言うと、思った?」
「……!」
「僕は君みたいに、君を馬鹿にしない。妖魔皇に目をかけられ、聖眼を持っている君を。聖女ベルニアの末裔の君を」
はにかんで言われるのが不気味だ。
「君にどんな未来が視えるかわからない以上、うかつな行動はしない。打つ手がなさそうなあたり、大したものは視えないようだけどね」
シルヴィアは拳をにぎって、ジャスワントをねめつけた。
「なら、どうして交渉なんて……」
「僕を見直してもらおうと思って」
「――ならもう十分、自分の見る目のなさを反省しました!」
全身のばねを使って予備動作を最小に飛び起きた。身を引いたジャスワントの手から、鎖を奪い取る。
「鎖だけじゃどうにもできないよ、どうするつもり。聖眼でも使う?」
ジャスワントは尻餅をついただけで、焦りもしない。
「そうですね。私の聖眼が視えるのは数秒先のみなので」
「数秒先? それじゃあ何も視えないのと同じだ。魔力がないとやっぱりその程度なのかな」
「でも魔力が計測できなかったのは、体質です」
ジャスワントが眉をひそめる。
シルヴィアは、瘴気の浄化を息をするようにできるプリメラがそばにいたから、体に魔力をとどめることもできずにいた。
でも今は違う。
シルヴィアの周りは瘴気だらけ。それを魔力に変換できる術をシルヴィアは学んでいる。
「じゃあ、魔力が君にはある?」
そして聖眼の能力は魔力に依存する。
ジャスワントの問いかけを無視して、シルヴィアは監視塔の落下防止柵を蹴った。そして聖眼を起動する。
周囲の瘴気を魔力に変換しながら――そうしたら視えるはずだ。
数秒、数十秒、数分先。
ロゼが倒れて。
マリアンヌが瘴気を押さえきれなくなって。
「――っ!」
両目に鋭い痛みが走った。頭蓋骨の中身を直接ゆさぶるようなめまいと、吐き気。聖眼が個人の魔力に依存する理由がわかった。情報の処理が追いつかないからだ。すべてを理解してしまえば、人間は正気を保てない。取捨選択のため、膨大な情報処理能力のために魔力が必要なのだ。
でも、目をあけたままそらすな。きっと視える。
ずっと気づいていた。せいぜい数十秒先しか見えない、役立たずな自分の聖眼。
でも視えるのは『すべて』で、その中から自分が知りたい未来を『選んでいる』と。
(耐えられる。一日も、二日も先の話じゃない!)
せいぜい、数十分、一時間にも満たない未来だ。
プリメラがルルカを浄化する。
そのときにジャスワントがルルカの心臓を取り戻す、その瞬間だけでいい!
周囲の瘴気を渦を巻いて吸い込み、ありったけ魔力に変える。それでも足りないかもしれない。なのに、魔力が全身から噴き出るのを押さえなければならない。
その両眼には、今もなお瘴気を噴き撒きながらルルカが映っている。それを救う未来を選ぶのだ。
目から激痛が広がる。でもシルヴィアは笑った。
だって、ありえない未来を選べれば――自分は、それこそ最強の聖女ではないか。
(――視えた!)
プリメラが瘴気を浄化するかたわらで、ジャスワントがルルカの心臓を鎖を使って取り出している。
ルルカは蜘蛛の糸のように張り巡らされた瘴気の中心に搦め捕られていた。その糸の上に躊躇なく膝を突いて、上下していないルルカの胸の上に、鎖を置く。そしてその上に両の手のひらをかざした。
ふわりと鎖が浮いて、模様を描く。
ぼたりと手の甲の上に落ちたのは、両目から流れる血だ。
でも間違わないように、見失わないように。歯を食いしばってとどめたままのその術式を、描いていく。指先が震えて、うまく動かない。
(死ぬ、かも)
さっきまで焼け付くほど熱かった全身が、逆に冷え始めていた。おそらく瘴気を取りこみすぎたのだろう。魔力に変換できなくなってきている。
それでも、その未来だけは手放さない。
「……シル、ヴィア?」
ルルカのまぶたが開く。それを見るまでは――それともこれは、今だろうか?
「お前、何をして……」
「お父様の……心臓」
想像していたような生々しい臓器ではなかった。綺麗な、赤い宝石だ。
妖魔皇の心臓。
細い銀の鎖で搦め捕られたそれが宙に浮く。そして、ものすごい勢いで周囲の瘴気を吸い込み始めた。
手放すものかと見据えていた未来が消えて、現実に重なっていく。
「よかった」
きちんとルルカの手のひらに乗った心臓を見つめて、シルヴィアは微笑む。もう、指先の感覚がない。痛みも寒さも、何も。
「恩返しできて……」
「――シルヴィア! スレヴィ!」
でも、最後にこんな美貌の男におそろしく焦っている顔をさせられたのだ。
きっと、悪くない人生だった。




