後日談
水の弾ける音がしている。
鳥のさえずり、木の葉の擦れる音、風は水辺の湿った土の匂いがする。
透明な瓶底のような湖を覗き込むと、泳ぐ魚や揺れる水草の様子までくっきりと見えた。透明度が高いために浅く見えるが、実際に入ってみるとかなり深いので注意が必要だ。
湖の周囲には鬱蒼とした森が広がっており、どれほどの広さがあるのか、長い間ここに暮らしている私にもよくわからない。
水辺から少し離れたところに置かれた長椅子と小さなテーブルは、雨ざらしだというのに新品のように綺麗だ。まったく魔法さまさまである。
私たちの暮らす家はここからちょっと歩いたところにポツンと建っているので、天気のいい日はいつでもここにきて昼寝ができるようになっていた。
今もまさに長い脚を放り出して、長椅子で寝こけている人がいた。
テーブルの上にキッチンからわざわざ持ってきたポットを置き、上から顔を覗き込む。
寝そべって本を読んでいるうちに眠ってしまったのだろう、胸元には開かれままの本が置いてあった。
本が傷むので拾い上げてテーブルに置くと、ゆっくりと彼は目を開いた。
金色の瞳が日に透かした琥珀のように輝いた。
彼はうにゃらにゃらと訳のわからない言葉を言いながら、ぐぐっと大きな伸びをする。体に対して長椅子が小さいせいで、転げ落ちそうになるのはいつものことだった。
「それなんて言ってるんです?」
「古代メタソア語でおはよう」
「絶対嘘でしょ」
「嘘だね」
あちこちにはねた銀髪をさらにぐしゃぐしゃにするかのようにかき混ぜて、魔王はだるそうに起き上がった。
新しい体を一から作るにあたって、私の好みも事細かに聞かれたのだが、残念ながら長髪のほうが好きだという意見は全くもって反映されなかった。理由は長いのは邪魔くさくて好かんとのこと。
しかしそれ以外はしっかり反映されてしまっているので、寝起きのとぼけた顔でも大層格好いい。
鼻筋は高く、鼻先がつんと尖っているところはちょっとかわいいし、切れ長の目は眦がきゅっと上がっていて涼し気な感じがする。薄い唇とかはいかにも高貴な感じがして、こう己の好みを反映した姿を突きつけられるとものすごく恥ずかしい気持ちになる。
見ていて幸せな気持ちになれるのも事実なのだが。
今日も今日とて顔がいい。
「もうお昼ですよ」
紅茶のカップを渡すと、魔王は猫背になってふうふうと息を吹きかけた。
随分と人間らしくなったものだと思う。
そして逆に私は随分と人間離れしてしまったように思う。
少し感傷的になって湖面を眺めていると、ぼやぁっと黒い巨大な魚影が浮かんでくるのが見えた。
黒い影は口からぷつぷつと泡を吐き出していたが、しばらくするともう用は済んだとばかりに底の方へと消えていった。
影の大きさからしてただの魚ではないことは明らかだが、毎日ああして挨拶のように湖面近くに浮上しては泡を吐くのだから、律儀な魔物もいたものだ。
「毎日感心な奴だなぁ」
ちびちびと紅茶をすすって、魔王はたいして興味なさそうに言う。
そしてわざとらしく咳ばらいをして、さも今気が付きましたとでもいうかのようにそういえばと呟いた。
「そろそろお前の祖国だったあたりに入るころ合いか」
「そうですね……」
魔王につられるように私も遠くの空を見つめる。
この空が故郷の空とはつながっていない偽物だとしても、何となくそうしてしまうのであった。
私たちのいる湖は魔王の魔法が作った世界の一部でしかない。
錬金術で作った体は魔法を使うのにも便利がいいらしく、魔王は死体で活動していたころとは比較にならないほどの大規模な魔法を使えるようになった。
一台の幌馬車の内部の空間を捻じ曲げて、薄く押し広げた空間に、居住区と巨大な図書館、そしてこの湖畔の森が存在している。
本物の世界に限りなく近いけれど、薄皮一枚違う世界なのだと魔王は言っていたが、相変わらず魔法はからきしな私にはいまだによくわかっていない。
とにもかくにも原理は全くもって謎なのだが、この巨大な空間を内包した幌馬車で私たちはもうずっと長いこと旅をしている。
旅をするうちに珍しい物や本を手に入れる機会も多く、そういった古本、骨董品を取り扱う商人のようなこともするようになった。
私も魔王ももはや食事をする必要などないのだが、それでも人間の世界を見て回るにはやはり使えるお金が必要だし、なにより商売を通して人と触れ合えるのはいいものだ。
そんなふうにいろんな国を回っていると、人だけではなく、魔物とも出会うもので。
魔王は魔王の自覚なんて今も昔もこれっぽっちもないのだが、それでも慕ってくる魔物を無下にすることもできなかったらしい。
棲み処を奪われ人里を襲うもの、新たな棲み処を探すために放浪しているものたちを見かけるたびに、この深い森に連れてきては放置している。
しょっちゅう拾ってくるわりには世話は一切しないので、森の中でどのような生態系が築かれているか、おそらく神すらも知る所ではないだろう。
湖面に浮かんでは泡を吐くあの律儀な魔物もそういった経緯で、ここにいる魔物であった。
そして、正直なところ魔窟と言われても否定はできない森を内包した私たちの馬車は、五十年前私たちが逃げ去ってから一度も訪れたことはなかった我が祖国へ入ろうとしていたのであった。
四十と少し前。
国内に魔物が現れるほどに力が衰えているという噂が他国にささやかれるようになった我が祖国は、帝国の侵略をうけることとなった。
国王と跡継ぎの王子、内政を牛耳っていた貴族たちは我先にと逃げ出したのだが、情報が漏れていたのかその大半は帝国によってとらえられ処刑された。
頭を失った祖国は混乱に突入するかに思われたが、唯一王都に残っていた王族である王女が女王となり王権の象徴として、その王配が実際の公務を担うことで崩壊の危機は免れた。
元々帝国との協調路線だった国王は、反対勢力を押し切り帝国に恭順する道を選んだ。
国は帝国に吸収され、領土の一つとして組み込まれたが、君主の任命権を帝国が持つ以外、以前と変わらぬ体制での自治を認められている。
国王を腰抜けだと非難する声もあるが、市井の様子を見るに正しい選択だったと私は思う。戦争のために魔法を発達させてきた帝国に徹底抗戦したところで、残るのはおびただしい死体の山と焼け野原となった土地だけだっただろう。
もはや国ではなくなった我が祖国だった帝国の領土は、見たところとても平和そうであった。
田舎は相変わらずの田園風景であったし、途中立ち寄った街は非常に清潔そうな綺麗なところで、旅人でにぎわっていた。昔は小さな市場があるだけの街だったが、戦争やその後の処理で大きくなったのだろう。
寄りたいところはたくさんあったのだが、旧王都の方で約束があるということで、ひとまず馬車は街道をひた走った。
そしてたどり着いた王都も、随分と様変わりしていた。
区画整理が行われたのか道もかなり変わっていたし、あの闘技場も広場になっていた。
王権の象徴だった王宮もこじんまりした可愛い姿になっている。
以前はよく見かけていた奴隷の姿がないので、道端の物売りに聞くと、制度自体がかなり前に廃止されたらしく、私と魔王が出会った奴隷市のあった街ももうないらしい。
奴隷の売り買いで成り立っていたようなろくでもない街が消えたということは、素直に喜ばしいのだが。
「思い出の場所がなくなってしまうのは、やっぱり寂しいですね」
「そうか?」
魔王はピンとこないふうに首を傾げる。
首をかしげると美しさに可愛さも加わってしまうので、道行く人々が男女問わず振り返っては呆けたように見つめている。そしてその後、私のほうを見てちょっとがっかりしたような、肩透かしを食らったような顔をするのもいつものことだ。
私も美人になりたいのはやまやまなのだが、魔王が烈火のように怒って止めるので美人に変身する予定は今のところない。
私は魔王の見た目がどんなに変わろうと彼が彼であるならばいいと思っているのだが、魔王は私のこの姿にとても愛着を抱いているらしい。
彼は私よりも私に残った人間らしさをことさら大切にしたがっている節がある。
「私たちは変わらないからついつい忘れてしまうけれど、こうやって思い出の場所がなくなっていたり、街も変わっていたりするのを見ると、時間の流れを一気に感じてしまって……」
「なら、また新しい思い出の場所を作ればいい。変わってしまうものと同じだけ」
あまりにもあっけらかんと言うので、一瞬固まってしまう。
けれど魔王はこの世界が始まってから生き続けている、いわば不老不死の大先輩なわけなのだから、私のようなヒヨッコとはそりゃ感覚も違うに決まっている。
いつか私も同じようになるのだろうか。
と思うけれど、たぶん無理だろうと早々に結論が出た。
私みたいな湿っぽい人間と、魔王ではもともとの性質が違う。
「ふふふ、魔王様らしいですね」
「そういうところが好きなんだろ?」
「あら、知らなかったんですか」
わざと真面目な顔でそう返すと、今度は呆気にとられたようにポカンと口を開けた後、一本取られたなと無邪気にからから笑った。
「それで約束って何です?何か注文を受けているとか?」
「あー、うん。約束ね。うん」
これは何か隠しているな。
じーっと無言で見つめていると、魔王は口の端をもにょもにょさせた。
しばらく無言の攻防を繰り広げていたのだが、観念したのかしょんぼりと項垂れて彼は口を開いた。
「……約束というのは嘘じゃない。俺からずっと面会の許可を申し出ていて、ようやく先方から許可が出たからここに来たんだ」
「ということはどなたか偉い人にでも?」
魔王は開き直ったのか、ちょっとふてぶてしいくらいの態度で王宮を指さした。
「あそこで一番偉い人」
「それって」
「うん、大公様だよ。昔、お前の婚約者だった、あのユリウスだ」
「どうして……」
「あいつももうかなりの歳だ。人間の命は本当に呆気ない。会えるなら、会っておいた方がいいんじゃないかと思ったんだ。俺と違ってアウレリアは人間だったわけだし、俺はお前が人間だったということをできるだけ大切にしてやりたいと思っているから」
どうしてこの人はこんなにも私によくしてくれるのだろうと、時々不思議になる。
私は同じだけの想いを返せているだろうか。
「ありがとうございます。……それでユリウスは私に会ってもいいと?」
魔王は頷き、上等そうな封筒を取り出した。
裏返してみると、蜜蝋に大公の紋章が押されている。
「俺がついて行っては、あいつも肝を潰すだろうからお前一人で行くといい」
「でもどうして今まで黙っていたんですか?もっと早く教えてくれればよかったのに」
「それは……」
うっと言葉に詰まって、彼は歩みを止めた。
そして私の手を取り、うつむきがちになってこんなことを言う。
「お前がユリウスと話して、人間だったころを恋しく思ったらどうしようかと」
「えっと、それのどこが問題なんですか」
「……アウレリアが帰ってこなかったら、困る」
いや現在進行形で困っているのはこっちだと、声を大にして言いたい。
時々こういう可愛いことを言われると、本当に、困る。
なまじ顔面が好みなばかりに、可愛さのあまり死んでしまいそうになるのだ。
生きてるとか死んでるとか関係ない体なんだけれども。
「大丈夫ですよ。ちゃんと帰ってきます」
両手で魔王の手を包むようにして、覗き込んでなだめるように言うと、腰をぐっと引き寄せられた。
こっちが覗き込んでいたはずなのに、いつの間にやら抱きしめられているのだから、手癖が悪くて困る。
「ふーん、じゃあいってきますのキスして」
「どこでそんなことを覚えてくるんですか……。いらない知識ばかり増やすんだから」
「いらない知識じゃないだろ」
往来でそんなことされたらたまったものではないと広い胸を押し返したのだが、抵抗むなしくあっという間に近づいた顔が近づく。
振れるだけのキスをして、魔王はむふむふと笑った。
「いってらっしゃい。家で待ってる」
彼の笑顔はいかにも満足げなのに、目は少しだけ不安の色に陰っているのであった。
魔王に渡された紹介状を持って大公の屋敷を尋ねると、驚くほど丁寧な対応で中に通された。
王宮の一部がそのまま使われているらしく、どことなく懐かしさを覚えながら大公の待つ部屋へと案内される。
案内してくれる衛兵は、若い娘が訪ねてきたことを心底不思議がっているようで、あれこれと質問されたが昔お世話になったの一言で突き通した。
「ああ、驚いた。本当に君はあの時のままなんだね」
ユリウスはすっかり小さくなって、そして老いていた。
絹のように美しかった金髪は白くなって、顔にもたくさんのしわが刻まれている。
それでも穏やかな物腰や、青い目は昔のままだ。
私がまだ人間で、若い娘だったころに恋い焦がれた彼の面影はしっかりとそこにあった。
あんな別れ方をしたというのに、私たちはつい先日別れた友人同士のように親し気に挨拶を交わした。
「あの後、随分と大変なことが起こってね」
ユリウスは私が外国で聞きかじった祖国の顛末をゆっくりと教えてくれた。
帝国の侵略はわかっていたが、王を諫めることができずに戦争になってしまったこと。
そのために多くの命が失われていったこと。
彼は民と土地のために、わざと逃げた王たちの情報を敵に流したのだと懺悔するように言った。
「結局私はいつも何かを切り捨てなければ、何も守れない人間だった。情けない話だ」
「少なくとも私はもうあなたを恨んでなんかいないわ」
「そうか。そうだと、嬉しいよ」
ぷつぷつと湖面に湧き上がる泡のように、私たちは話し続けた。
王女はすでに亡くなられており、大公としての仕事ももうほとんど息子に任せているらしい。
私は彼にこれまでに見てきた国の話をしてあげた。
虹色に光る海。
神の住む霧深い森。
人形が働き続ける錬金術の街。
偏屈な魔人が支配する夜の砂漠。
とある騎士物語の原書を探して、広大な図書館をさまよった。
手違いで岩場しかない孤島にきてしまい、大喧嘩をしたことも。
「凄いな、まるで夢物語みたいだ」
子供のようにころころとユリウスは笑い、そんな彼のことを私は愛おしいと思った。
ユリウスは唯一私に残された人間らしい繋がりだった。
あと数年もすれば消え去ってしまう繋がりだ。
だから魔王は私たちの再会のお膳立てをしてくれたのだろう。
一瞬だけど、もし私が人間のままで、ユリウスのように歳を取ったらどうなっていただろうと思った。
知らない誰かと結婚して、子供を産んで、しわだらけの手で孫のために編み物でもしていたのだろうか。
きっとそれはそれで幸せだったのかもしれないなんて思って、ようやく魔王が不安げな顔をしていた理由が分かった気がした。
「アウレリア、君は幸せかい?」
「え?」
「私は君に何もしてあげられなかった。むしろ余計な事をしてしまったと、ずっと気に病んでいた。私は君を一度切り捨てたのみならず、君の言葉に耳を傾けずに彼を処刑しようとした。そのために魔物が国内に入り込むほどに国の力が落ちているという噂が生まれ、まわりまわって我が祖国は帝国に侵略されてしまった。……自分がしてきたことは間違いだったのではないか。これはその報いではないのか、とすら思ったよ」
「そんなことないわ。あなたはいつだって誰よりも国のことを考えていたもの。……全く恨まなかったと言えば嘘になってしまうけれど、それでも私はあなたを知る人間としてあなたを誇りに思うわ」
「……ああ、私もこの平和を心から誇りに思っている。君はどうだい?幸せかい?」
「ええ、とても。素敵な旦那様もいますから」
「ははは、随分と恐ろしい旦那様だね。……うん、会えてよかった。ずっとどうしているか気にかかっていたんだ。でも幸せそうだし、肩の荷が下りた気分だよ」
「私も、会えてよかった」
そう笑いあって、私たちは別れた。
おそらくもう二度と会うことはないだろう。
心のどこかにまだ残っていた自分は人間だという感覚が、これで完全に消え去ってしまったのか、どこかぽっかりと穴が空いたみたいだった。
喪失感を抱えて私はふらふらと目抜き通りを歩いた。
夕暮れの街は初めて見る街同然で、私はまさしくよそ者でしかなかった。
これからはどこに行ってもそうなのだ。
それは凄く寂しいことで、いまさらながら自分で選んだ道の果てしなさを実感する。
ああでも、私がこうして寂しさを感じているのなら、きっと魔王も今頃一人で寂しがっているのかもしれない。
それとも案外、平気な顔をして本でも読んでるのかも。
「早く、帰ろう」
こぼしたひとり言に、うんと頷いて、私は駆け出した。
そういえばいつかもこんなふうに、走ったような気がする。
あの時も、今も、私はただただあの人に会いたい一心だった。
馬車に乗り込むと、そこは見慣れた森だった。
夕日に木々の影が長く伸びて、地平線は燃えるように赤い。
家へと続く小道を小走りにかけていくと、誰かが立っているのが見えた。
魔王は玄関ポーチに寄りかかった態勢で、己が作り出した世界が暮れなずんでいく様子をぼんやりと見ていた。
そのオレンジ色の横顔は人形のように無機質だ。
「魔王様!」
金色の不思議な瞳がこちらを向く。
私を見つけて、魔王はぱあっと顔を輝かせた。
「おかえり、アウレリア」
優し気に細められた目には、うぬぼれでもなく自分へ向けられた愛情が見えて、なんだか泣きそうになってしまう。
私はたまらず魔王に駆け寄って、その首に腕を回した。
「ただいま」
そして自分から彼の暖かい唇にキスをした。
だって行ってきますのキスがあるなら、当然おかえりのキスもあってしかるべきなのだから。