逢わぬその日
都々逸「逢うたその日の 心になって 逢わぬその日も 暮らしたい」(詠み人知らず)
多少、前作と前後する箇所が出てきます。
隆司があの人の言葉を通訳する。
時々うんざりたした様子に不安になって、そんなに無理しなくていいと注意したりするけれど、あの人も心配していろいろ注意しているのだろう。「無理するなっていう、父さんの言葉が一番煩い」と言った後に、「あーもう、今のは僕が悪かったよ。謝るから、そんなに落ち込まないでってば」などと謝っていた。いったいあの人は、なに息子に気を遣わせているのだろうと情けなく思うけれど、何より気を使われているのは私自身ではないかと落ち込んでしまう。
「まさか、こんな日が来るだなんて……」
今だって、隆司の祖父や祖母から隠れて自分の父親と交流させる……なんてことさせている時点で、申し訳ない気持ちでいっぱいなのに。静かな居間には障子越しに、私の気持ちと対局するようにキラキラと明るい日差しがさしている。
夫の声を再び聴きたいと思っていたのは事実だけれど、隆司をこんな形で巻き込む気はなかった。
七夕にみんなで集まって以降、どうもあの人の様子がおかしいのはわかっていた。けれど、いまひとつ何があったのかわからない私の前で、息子が突然得意げに自分の父親と『話し出した』のだから、驚きすぎて呼吸が止まるかと思った。
「二人とも、喜んでくれると思ったのに……」
悔しそうな隆司には悪いけれど、苦笑以上の笑みを浮かべる余裕がなかった。
それは、あの人も同じことなのだろう。私の顔と、それより少し上を交互に見ると、強いまなざしでこちらを見つめた。
「ねぇ、お母さん、お父さんよく聞いて」
『なんだ隆司』
「なぁに、隆司?」
「僕はちっとも無理していないし、むしろするとしたらお父さんの声が聞こえない時が一番『無理』していたんだよ」
言われた言葉の真意がわからなくて、うまく反応できなかった。
素直な隆司はきっとまっすぐな言葉を向けてくれていると分かるからこそ、そこに含まれる意味をしっかり理解したくて慎重に顔をうかがう。まじまじと見つめるこちらが、困惑しているのに気付いたのだろう。隆司はさらに言葉を紡ぐ。
「たくさん伝えたいことだってあったし、それがちゃんと伝わっているって実感するため、お父さん自身の言葉がずっと聞きたかった」
『隆司……』
「お母さんや人づてに聞くお父さんの言葉や様子ではなくて、きちんとした『言葉』を僕はお父さんのことを知りたかったんだ。それなのに、伝わってくるのはいつもこっちを心配したり、やかましい感情だけなんだもん」
照れ隠しするように、そっぽを向いた隆司の顔は少し赤くなっている。
反抗期を迎えた息子にとっては、普段反抗している父親の前でこんな気持ちを明かすのは恥ずかしくてたまらないのだろう。そんな息子の気持ちにも気づかず、慌てた様子のあの人が面白くて思わず笑う。
「ふふっ、あの人らしいわね……」
「もう、笑いごとじゃないよ!お母さんからも何か言ってよ」
「あら駄目よ。この人は、こちらが興味ないって言っても、自分が好きなバンドのライブに連れ出そうとするような人なんだもの」
『……結局、一緒に行ってくれなかったくせに』
息子が通訳してくれた言葉に、ピクリと反論しかけたけれど「人が嫌がることしようとするそっちが悪いのよ」と嫌味を言うにとどめておいた。
「―――こんな風に、話すポイントを教えてくれた先生にも散々心配されたし、いろいろ注意されたけれど、今聞こえるのも見えるのも何故かお父さんだけなんだ」
不思議なことだし、息子の言うことを妄信的に信じていいのか不安になる。
もしも、これが幼い子ども特有のことだったり、ましてや悪影響を及ぼすものかと思えば放っては置けない。その考えを否定したのもまた、息子だった。
「一瞬、こんなの都合のいい幻覚か夢でも見てるんじゃないかと心配だったけれど、先生も違うって否定してくれたし。これからのことは分からないけど、きっとこのチャンスを逃したら後悔するって言うことは絶対にわかってる」
小学校もそろそろ卒業が意識される年となった隆司は、驚くほどしっかりした口調で説明してみせた。勝手をした隆司を叱る気持ちで向き合ったのに、こちらの方が圧倒されている。つい最近まで、嘘を吐く時すらつたなく可愛いと思っていたのに、感情的にならずしっかり言葉を紡ぐ姿に感動すら覚える。私たちは息子を心配するあまり、父親を恋しく思う気持ちを無視していたのだとようやく気付かされた。
「ねぇ、僕は『不幸な子ども』なんかじゃないよ」
隆司がまっすぐ瞳を見ながら言ってきた言葉に、思わず息をのむ。
たびたび周囲から言われる言葉を、どうしてこの子が知っているのか。まさか、親切面した他人がひどい言葉を投げかけたのかと懸念するけれど、どうやらちょっと違うらしい。私が時々言われていた言葉を、たまたま聞いてしまったようだ。
隆司本人にはこんな言葉聞かせたくなかったのに、知らず傷つけていたことに胸が痛んだ。
どんなに「私たちは幸せなんだ」といっても、『良心的な道徳主義者』にその言葉は届かない。ましてや、自分でも不安に思うこの環境や選択のなかで、相手を納得させるだけの討論も出来たためしがない。
「この子は、私が幸せにしてみせます」
始めは、そう胸を張って見せてみても。「片親でなにが出来るというんだ」なんて返されてしまっては、不安はいつも付きまとう。……けれど、未来なんてのは両親揃っていても分からないものだし、誰にその子にとって一番正しく幸せな形を提供できるというのだ。そんな、神様でさえ難しそうな事を、たかが人間ごときにできると思う方がおこがましい。
こういうことは、以前にゆいちゃんママが言っていたように、「この子にとって何が一番なのか」を考え、悩み続けることが大切なのではないかと最近になってようやくわかるようになった。
私は隆司を愛しているし、このどうしようもなく頼りなく、心優しい夫を愛している。
……そう、胸を張って言えるようになったばかりの私には、息子が抱える苦労に申し訳なさが立ってしまった。
だって、どんなに正しくあろうとしても、それは自分のエゴでしかないのだから。
私が考える理想の形を、息子に押し付けてしまうことに迷いを消し去るなんて無理な話だ。
「お父さん、お母さん。いつもありがとう」
『―――今日は、誕生日か記念日だったっけ?』
「別に、誕生日とか記念日じゃなくても、これくらい僕だって言えるよ。……失礼なこと言うなよ父さん」
少々むっとした様子の隆司に、泣き笑う。
また、あの人は余分なことを言って隆司を怒らせているのだろう。これまでは何となく伝わると言った会話も、しっかり意思疎通がはかれることで大分ストレスが少なく済んでいるらしい。
今日まで、何度となく自分にも同じことが出来ないかと試してきたけれど駄目だった。
何とかできるようになったのは、気配や大まかな喜怒哀楽を知ることぐらいで、どんなに頑張ってもそこまでで変化は見られなかった。初めてこの人の存在を教えてくれた人とカフェで話して以降、夢見た形とは違ったけれど。……不安なんて、数え上げたらきりがないけれど。
隆司の寂しさがほんの少しでも解消されたのなら、少しは『良かった』といっても許されるのではないだろうか?
「―――二人とも、有難う」
私のわがままに付き合ってくれて、傍にいてくれる。
夫とは期限付きのものだけれど、一度失いかけた大切な人とこんな風に一緒にいられる私は、決して不幸などではないだろう。
『こちらこそ、俺の存在を認め愛してくれてありがとう』
いつか来る別れを恐ろしく感じても、この二人と少しずつ成長していけばいい。そんな風に思っていた私の耳には、彼の声が聞こえた気がした。
これまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
この終わり方が正解なのか、この子たちの選択が正しいのか悩みながら進んでいたせいで、お付き合いいただく皆様には長らくお待たせしてすみませんでした。もっと色々できたのではないのか、言わせるべき言葉があったのではないかと不安ですが、この話はここで終わらせて頂きます。
本当に、有難うございました。