その16 ムネユキ殿下ご乱心(5)
「ね、兄さん……」
それは、こちらの世界に戻ってしばらくしてからのことだった。
洋介がふと、宿題をする手を止めてキッチンにいる内藤に言ったのだ。
ここは、内藤と佐竹が暮らすマンションである。日中、クーラーの電気代がもったいないというので、洋介はしょっちゅうここへ来ては宿題やゲームなどにいそしんでいるのだ。もちろん、剣道の稽古用に広くとられたベランダのスペースも大いに活用している。
「あのさ、あれからずっと、考えてたんだけど。あっちでこの間、小ムネから言われたこと……」
「え……」
内藤はぎくりとし、危うく洗っていたトマトを取り落としかけた。
「あんなに大きくなってるけど、小ムネってまだ八歳だよね? 小さな子が大好きな家族みたいな人に向かって『好きだよ』って言うのなんて、まあ普通のことだよね? そりゃあ、あっちの言葉だし、小ムネたちは王族だから、僕らの感覚よりはもっと硬い感じだったのかもしれないんだけど……」
「あ? ……うん。えーと……ま、そ、そうだな……?」
内藤は内心どきどきしながらも、どうにか普通の声でそう返した。
それはきっと、こちらで言えば「お慕い申し上げております」とかなんとかいう、もっとずっと深い意味のある、そして品のある表現だったに違いないと思いながら。
「そうだよね? だからそう思って、僕……『僕も大好きだよ、小ムネ!』って答えて笑って、ぎゅーって抱きしめてあげたんだけど」
言いながら、洋介はちょっと困ったようにシャーペンの尻のところで唇をつついている。
「でもなんか、そう言ったら小ムネ、すっごく悲しそうな顔になっちゃって。あのあと、あんまりものも言ってくれなくなっちゃったし……。僕、悪いことしたみたい。なんかやっぱり、僕が勘違いしたのかな。ね、どう思う? 兄さん……って、うわ!」
洋介がびっくりしてリビングのテーブルから立ち上がる。
内藤はそれでやっと、自分がぼろぼろ泣いているのに気がついた。
「兄さん! ど、どうしたの……?」
「あ、ご、ごめん――」
慌てて濡れたままの手で目元をぬぐう。
(だって小ムネ……かわいそうに)
そう思ったら、また新たな涙が溢れて、洋介はもっと慌てたようだった。
「だ、大丈夫……? 兄さん」
「あ、うん……ごめん」
(俺、なんてこと――)
赤子の頃から知っている子が、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで告白したのに違いないのに。
それを、自分たちの勝手な都合で邪魔しようとするなんて。
もしも、自分と佐竹のときに周囲にそんなことをされていたなら。自分たちはどんなにつらい思いをしなくてはならなかったことか。
それを、こちらの勝手な都合で洋介に選ぶ機会すら与えまいとするなんて。
(……そうだよ。)
内藤はしっかりと涙をぬぐうと、心配そうに見上げてくる弟を見下ろして少し笑った。
「うん。そう思うんなら、今度はちゃんと聞いてあげなよ」
「え?」
「だから、小ムネの気持ちだよ。俺たちとは成長の仕方が違うけど、あっちの人たちは精神年齢も、見た目と同じだと思っていいよ? だからもう、小ムネは立派な中学生ぐらいだ。洋介よりは、一、二歳ぐらい年下の男の子。そう思ってあげたらいいんだ」
「そ、……そうだったの」
洋介が、少ししょんぼりしたようだった。
「うん。小ムネの『好き』がどんな『好き』なのか、今度会ったらちゃんと確かめてあげるといい。それで、洋介の好きなようにしたらいいんだ」
「好きなように……って、あの、兄さん――」
戸惑っている洋介の頭を、内藤はぽすぽす叩いた。
「いいからいいから。俺はなんにも言わないよ。洋介が選んだら、そのことを貫いたらいい。断りたいなら、断ってもいい。そもそも俺には、口を出す資格はないから」
「にいさ――」
その時、かちゃりと玄関の扉の開く音がして、内藤はそちらを向いた。
佐竹が帰宅したようだった。
「じゃ、そういうことだから。これは、俺と洋介の内緒ってことにしとこうな」
振り向いて、さっと唇の前に指を立てると、そのまま玄関の方へと向かう。
玄関にはすでに、いつもの長身の姿が立っていた。
「佐竹、おかえり」
「ああ。ただいま」
「もうすぐご飯できるからな。シャワーにする? お風呂にしとく? それとも――」
そのままぐいと腰を抱かれて引き寄せられ、言葉の残りを彼の唇に吸い取られた。
内藤は素直に目を閉じる。
こうなることを知っているから、洋介は敢えて最近、ここまで迎えにはでてこない。二人がリビングに戻るまで、あちらで待っているようになっているのだ。気のきかせようが半端ない。
……そんな弟だったら、たぶん。
と、兄は思ってしまうのだ。
(……しあわせになって、欲しいよね)
佐竹の唇に応えながら、願ってはいけないと思いながらも、
内藤はつい、そう思う。
閉じた瞼のその裏で、りりしい姿の小ムネユキが、
洋介の答えをうけて静かに微笑むその顔を、
ちらりと垣間見たような気がした。
これにてまた、いったん完結マークとします。
ここまでお付き合いくださり、まことにありがとうございました。




