#034『針の鳴る店で僕らは湯気を吸い込む』
私は下町が好きです。そして地元の方々が集まる小料理屋の雰囲気が大好きです。
あの何とも言えない温かさが、たまらないんですよね。
今回は、そんな小料理屋のお話です。
『針の鳴る店で僕らは湯気を吸い込む』
夕暮れ時の「しおさい亭」はいつも同じ匂いがする。
何千回、何万回と繰り返されてきた炒め物の油が、飴色に染まった柱の奥深くまで染み込み、そこに新しく火を入れられた醤油の焦げる香ばしさが重なる。
換気扇は、まるで老犬が眠っているかのような低い唸りをあげて回り続けており、その振動が、僕が握る包丁の手元にまで微かに伝わっていた。
トントントンと規則正しい音がまな板の上で弾ける。力を入れず、刃の重みだけで落としていくキャベツの千切りは、僕の数少ない特技の一つだった。
「修平、少し油の温度が上がってきた。アジを落とすぞ」
フライヤーの前に立つ父、長谷部源治が、低く濁った声で言った。彼がパン粉をまぶしたアジを静かに油の中へ滑り込ませると、パチパチ、ジュワワ、と激しくも心地よい音が店内に響き渡った。
一気に広がるラードの甘い匂いが、夕方の空腹を容赦なく刺激する。
僕、長谷部修平は包丁を止め、濡れた布巾で手を拭いながら、カウンターの隅に視線をやった。
客席側からも厨房側からも手を伸ばせる場所に、その「奇妙な機械」はあった。
大きさは、厚手の辞書ほど。外側は丁寧に磨かれたマホガニーの木枠で囲まれており、正面には鈍い黄金色の輝きを放つ真鍮のプレートが嵌め込まれている。その中央に鎮座しているのは、一枚の大きなアナログメーターだ。白い文字盤には、左端の「0」から右端の「100」まで細かな目盛りが刻まれている。
常連客たちは、それを「嘘発見器」と呼んでいた。
元々は精密機器の設計士だった父が作り上げたものだ。人が緊張したり動揺したりした際の微量な発汗を検知して、針が振れる仕組みになっている……らしい。
ガラガラと立て付けの悪い引き戸が開いた。店内に流れ込んできたのは、初夏の夜へと向かう、少し湿り気を帯びた涼しい風と、街路樹の青葉の匂いだ。
「懐かしいな、この匂い」
入ってきたのは、スーツ姿の男だった。ネクタイは緩められ、上着を無造作に片手に引っ提げている。真壁大輔。僕の小学校からの幼馴染だ。その顔は、記憶の中にある彼よりも一回り痩せていて、目の下には濃い影が落ちていた。
大輔がカウンターの丸椅子に腰を下ろす。すり減った合成皮革が、ぎぃ、と小さな悲鳴をあげた。
再び、引き戸が開いた。
「ごめん、遅くなっちゃった」
滑り込んできたのは、二宮千里だった。地元の図書館に勤めている彼女は、薄手のサックスブルーのカーディガンを羽織っている。彼女の髪から、微かに紙と古い本特有の落ち着いた匂いがしたのは、気のせいだろうか。
千里は小さなトートバッグのほかに、もう一つ、不釣り合いなものを抱えていた。
赤と金の模様が擦り切れた、四角い金属の缶。かつてクッキーが入っていたものだ。表面には15年分の土が薄くこびりついており、カサカサとした独特の乾いた匂いが、店の油の匂いに混じって漂った。
千里がそれをどこに置こうかと一瞬ためらったので、僕はカウンターの下から古新聞を一枚抜き取り、脇の丸椅子の上に広げた。
千里は「ごめん」と小さく言って、その上に土まみれの缶をそっと置いた。
「いよいよ明日、あの山に重機が入るんだって」
千里が、お冷の入ったグラスを両手で包み込みながら言った。
「マンションが建つんだってさ。だから、今日のうちに掘り起こしておかないと、コンクリートの下に埋まっちゃうなと思って。それで大輔を呼んだの」
「腹が減ってるなら、まず食え。話はそれからだ。修平、おまえもだ」
厨房の奥から、父が声をかけた。鉄鍋が激しく振られ、生姜とニンニク、甘辛いタレが熱い鉄肌で弾ける官能的な音が店内に満ちる。
「いいの?」
「ああ」
父の返事を聞いてから僕は包丁を置き、手を洗った。そのまま、嘘発見器の置かれたカウンターの端の丸椅子に腰を下ろす。
やがて、三人分の料理がカウンターに並んだ。大輔の前には、山盛りのキャベツと、タレの照りが美しい厚切りの豚肉の生姜焼き。千里の前には、じっくりと焼き上げられて皮目がパリッと爆ぜたホッケの塩焼き。僕の前にはメンチカツ。
大輔が生姜焼きを口に運び、大きく咀嚼した。その瞬間、彼の喉がごくりと鳴る。
「……うまい。やっぱり、おじさんの生姜焼きが世界で一番だわ」
「東京はどうなんだ? 仕事、忙しいんだろ」
何気なく僕が尋ねると、大輔の箸が一瞬、ピタリと止まった。彼はすぐに肉をもう一枚口に放り込み、笑ってみせた。
「あ、ああ。めちゃくちゃ忙しいよ。でもさ、やりがいがあるんだ。俺が手がけたシステムが、何万人もの人に使われるんだから。毎日が充実してるよ。東京に戻りたくなくなるくらいにな」
――カチリ。
小さな、しかし明確な音が響いた。
大輔が左手を置いていた場所――ちょうど、カウンターの端にある、あの真鍮のプレートの上だった。
僕と千里の視線が、自然と木箱のメーターに向かう。
黒い針が、まるで生き物のように跳ね上がった。「0」から一気に「40」まで振れ、薄赤く塗られた警告の領域へと深く突き刺さる。針はそこで、プルプルと細かく震えていた。
店内が、奇妙な静寂に包まれた。換気扇のブーーンという音だけが、やけに大きく聞こえる。
大輔は自分の左手を見つめ、それからメーターを見た。彼の顔から、血の気が引いていくのが分かった。彼は慌てて手を離したが、一度跳ね上がった針は、すぐには戻らず、余韻を残しながらゆっくりと左へ傾いていった。
「なんだよ、これ……」
大輔が乾いた声で笑おうとした。
「おじさん、これ、壊れてるんじゃないのか?」
厨房の父は、研いでいた包丁の刃先をじっと見つめたまま、振り返りもしなかった。
シャッ、シャッと再び砥石の音が規則正しく響き始める。
誰も次の言葉を探せなかった。冷めかけた生姜焼きのタレの甘辛い匂いが、重く店内に居座っている。大輔は視線を落とした。握られたプラスチックの箸の先から、凝固しかけたタレが、ぽつり、と皿の隅に落ちた。
「……」
大輔は何も言わず、ただ震える手で顔を覆った。すり減った合成皮革の丸椅子が、彼の重みに耐えるように、ぎぃと一度だけ小さく悲鳴をあげる。その折れ曲がった背中と、よれよれたスーツの肩に刻まれた無数のシワから、僕は目を背けることができなかった。
千里の持つお冷のグラスの表面を、大きな水滴がひとつ、滑り落ちていく。それがコースターの濁った厚紙にじわりと染み込んで、丸いシミを作っていくのを、僕はただじっと見つめていた。
厨房のフライヤーから、パチパチと油の爆ぜる小さな音が聞こえる。店の外を走る車のヘッドライトが、飴色の壁を一瞬だけ白く照らし、通り過ぎていった。
「大輔」
千里の声は、図書室の静寂そのものだった。彼女がそっと大輔の肩に手を置くと、スーツの生地越しに微かな震えが伝わった。
「かっこ悪くないよ。帰ってきてくれて、私は嬉しいよ」
千里は彼から手を離すと、自ら進んで、空いた真鍮のプレートに自分の右手を乗せた。白く、細い指先が、鈍い黄金色の金属に触れる。
「私だって、ずっとここにいて、何が変わったわけでもないもん。毎日、同じ本を棚に戻して、同じ貸出の処理をして。誰かが読み終えた過去の言葉を、ただ決まった場所に戻すだけの毎日」
はっきりと口にした瞬間、再び、カチリと音がした。
メーターの針が、滑らかに右へと滑っていった。「50」を越え、「60」に達したところで、ピタリと止まった。
千里は驚くこともなく、諦めたような、切ない笑みを浮かべた。
「やっぱり、おじさんの機械は凄いや。私、嘘ばっかりついてる」
千里は空いた丸椅子の上の缶を抱え上げ、カウンターの上へそっと置いた。サックスブルーの袖口が汚れるのも構わなかった。爪の隙間に、裏山の乾いた黒い土が入り込む。それをじっと見つめる彼女の瞳の奥に、街灯の光が反射して、小さな星のように輝いていた。
「明日、あの山がなくなるって聞いたとき、なんだか急に、息の仕方がわからなくなっちゃって。……もし、この缶の中身まで、私たちの知らない何かに変わってしまっていたらって思ったら、怖くてたまらなかったの」
千里の指先が微かに震えているのを、僕は黙って見つめていた。
厨房の奥で、父が大きな大根を半分に叩き切った。ドン、という鈍い音が、張り詰めた店内の空気を一瞬だけ爆ぜさせる。立ち上る生姜焼きの湯気が、僕たちの間で白く揺れていた。
「修平、おまえはどうなんだよ」
大輔が、少し赤くなった目で僕を見た。
「おまえはさ、ずっとこの店を手伝ってるけど、本当はどう思ってるんだ? おじさんの跡を継ぐのか?」
今度は、僕の番だった。
僕は冷たいお茶で喉を潤した。ほうじ茶の苦味が、舌の上に残る肉の脂を洗い流していく。僕は左手を、ゆっくりと真鍮のプレートへと運んだ。金属は、僕の手のひらの熱を吸い取るように、ひんやりとしていた。
「俺は」
僕は父の背中を見つめながら言葉を紡いだ。
「この店を継ぐ気なんて、最初からないよ。こんな古臭くて、油まみれの定食屋で一生を終えるなんて、絶対に嫌だ。もっと別の、綺麗なオフィスで働くような仕事を探すつもりだ。親父の背中なんて、これっぽっちも尊敬してない」
――カチチチッ!
これまでで一番の、甲高い警告音が響いた。黒い針が、まるで弾かれたように右へと跳ね上がっていく。「80」、「90」……そして限界一歩手前の「95」の目盛りを指したところで、それ以上先へ行くのを耐えるように、狂ったように激しく痙攣し始めた。
嘘だ。全部、大嘘だ。
目の前にある、父が無骨に研ぎ澄ましている包丁。その刃先が放つ鋭い光に、僕の小細工は見透かされていた。キャベツの千切りを何千回繰り返したところで、父のように油の爆ぜる音だけで素材の熟度を測る絶対的な感覚は、僕の手元には宿らない。親父の守ってきた看板に泥を塗るのが怖くて、最初から戦うのをやめていただけだった。
「……ひどい針の振れ方だな」
大輔が、少し苦笑混じりに言った。
「修平、おまえ、昔から嘘つく時、右の眉が少し上がるんだよ。変わってないな」
僕は黙って手を離した。針が、がっくりと肩を落とすように、ゆっくりとゼロへと戻っていく。
厨房の奥で、父がようやく手を止めた。彼は研ぎ終えた包丁を丁寧に拭き、ホルダーに戻すと、ゆっくりとこちらに向き直った。父は、大輔の皿に残っていたキャベツの千切りを顎で指した。
「腹が減ってると、人間はろくな嘘をつけん。残さず食えよ」
「……うん。食べる」
大輔は再び箸を取り、今度は本当に嬉しそうに、肉を口に運んだ。
夜が更けるにつれ、店内の空気は、どこか張り詰めていたものから、柔らかく親密なものへと変わっていった。僕たちは15年前の思い出話を、今度は嘘のない言葉で語り合った。
やがて、閉店の時間が近づいた。
千里が、錆びついて固くなった缶の蓋に指をかけ、力を込めたが、蓋はびくともしなかった。千里の指先が少し赤くなる。
「貸してみろ」
大輔が手を伸ばし、スーツの袖を少し捲り上げて、顔を少し上気させながら力任せに蓋をひねった。キィと鈍い金属音が店内に響き、次の瞬間、パカッと蓋が開いた。
中から溢れ出してきたのは、15年前の「空気」そのものだった。少しカビ臭いような、色褪せた紙の匂い。
中には、3通の手紙が入っていた。
大輔は『15年後の大輔へ』を読み、社長になれなかった自分を笑い飛ばした。僕は『15年後の修平へ』を読み、親父への生意気な反抗の言葉に赤面した。厨房の父を見ると、彼はふん、と鼻を鳴らしたが、その目は優しく細められていた。
最後に、千里が自分の手紙を手にとった。
しかし、彼女はそれを開こうとはせず、じっと封筒の表面を見つめていた。その封筒には、彼女の文字で『修平へ』と書かれていた。
大輔が、静かに視線を落とす。千里は少し身を乗り出し、再びその真鍮のプレートに手を乗せた。
「私ね、15年前のあの時、修平のことが好きだったの」
カチリと音がした。
メーターの針は、ピクリとも動かなかった。「0」を指したまま、完全に静止している。千里は少し切なく微笑みながら、プレートから手を離した。
「知ってたよ」
大輔が、静かに言った。
「あの時、カプセルを埋める直前、千里がその手紙を缶に入れるのを見てさ。俺、実は千里のことが好きだったから、めちゃくちゃ嫉妬したんだ。だから、みんなが目を離した隙に、その缶をもう一度開けて、手紙を盗み出そうとしたんだ」
千里が思わず顔を上げた。
「でもさ」
大輔は苦笑した。
「缶を開けて、冷え切った手紙に触れた瞬間、裏山の湿った泥の匂いが急に鼻を突いてさ。自分の汚さに指先がすくんだんだ。結局、何もせずに缶を閉じた」
千里は大輔の言葉をじっと聞いていた。そして、ゆっくりと首を振った。
「大輔、私ね、大輔が缶に触ろうとしてたの、知ってたよ。木陰から見てたんだもん。……でも、大輔が何もせずに缶を閉じたのを見て、私、大輔のこと、信じていい友達だなって思ったの。私の気持ちは、ちゃんと15年間、この缶の中で守られてたんだよ」
千里が「0」のままの針をじっとみつめた。
「修平」
千里が、その手紙を僕に差し出した。
「これ、もう開けなくていいよ。だって、もう伝わったもん。15年越しに、ちゃんと届いたから。……言葉はね、あの時の紙の中で、そのまま静かに生きていてほしいの」
千里はそう言うと、手紙を僕の手のひらに握らせた。彼女の手は、先ほど店に入ってきた時よりも、ずっと温かくなっていた。
胸の奥が妙に熱かったが、その正体をまだ言葉にできなかった。
時計の針が時を刻む音だけが、やけに大きく聞こえた。
「さぁ、そろそろ店を閉めるぞ」
父が、ガタゴトと音を立てて暖簾を仕舞い始めた。
「おじさん、ごちそうさま。……俺、明日とりあえず会社休んで、泥のように寝るわ」
大輔はそう言って、窮屈そうだったスーツの肩を、ゴキリと大きく回した。千里も静かに微笑んで立ち上がる。
「また明日」
二人は引き戸を開けて、夜の街へと消えていく。
店内に僕と父の二人だけが残された。
僕は、手元に残されたキャベツの芯を片付け、まな板を綺麗に洗い流した。それからカウンターの端にある嘘発見器の前に立ち、右手を、ゆっくりとそのプレートに乗せた。
「親父」
父は僕の方を見ずに、カウンターを拭く手を動かし続けていた。
「明日の朝さ……仕込み、手伝わせてくれよ。キャベツの千切りだけじゃなくて、生姜焼きのタレの黄金比、そろそろ教えてくれよな」
心臓が静かに、しかし力強く脈打つのを感じた。手のひらは驚くほどサラリとしていて、金属の冷たさが心地よかった。
カチリと小さな音が響く。
メーターの黒い針は――「0」の場所から、ミリ単位すらも動かなかった。
父は手を止め、ゆっくりと僕を見た。そして、ふんと鼻を鳴らし、乱暴にカウンターに布巾を投げ置いた。
「思い上がるな。おまえみたいな半端もんに、この店を継がせる気なんて、俺はこれっぽっちもないんだよ。……そもそも、来年あたり店を畳んで、温泉三昧の隠居生活をしてやろうと思ってたところだ」
父はそう言い捨てると、身を乗り出し、僕を追い払うように真鍮のプレートにドンと無造作に手をついた。
――ガチィィィン!!
今日一番の、そしてこれまでの誰の時よりも、遥かに暴力的な金属音だった。
嘘発見器の黒い針は、狂ったように右に跳ね上がり、「100」の目盛りを通り越して、ガラスケースの枠に激突し、痙攣するように震えている。
「……」
父は100に振り切れたメーターから、弾かれたように右手を引っ込めた。
その手のひらが、まるで熱い鉄板にでも触れたかのように微かに震えているのを、僕は見逃さなかった。いつも大根を叩き切るあの無骨な手が、いまはひどく小さく、脆いものに見えた。
「……明日は5時起きだ。遅れるなよ、修平」
裏返りそうな声を必死に抑えた父の背中に向かって、僕は吹き出しそうになるのを堪えながら、静かに声を返した。
「分かってるよ」
父は厨房の奥へ消えた。すぐに、明日の仕込みでも始めたのか、トントンと不器用な音が響き始める。いつもなら一定のリズムで鳴る包丁の音は、その夜だけ妙に乱れて聞こえた。
僕はエプロンを外した。
しおさい亭の店内には、まだ微かに生姜焼きの匂いと、15年前の古い紙の匂いが残っていた。だが、換気扇が吸い込んでいく湯気の向こう側には、確かに、新しく晴れ渡った僕たちの明日が広がっているのが見えた。




