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【断罪】危険な逃走

 グリフィンは両手を上げていた。

 義手と生身の手、どちらも制御不能なほど震えている。

 15年のキャリアで初めて、彼は「本物」の恐怖を味わっていた。


 スコープの向こう側から、一方的に引き金を引く絶対的な優越感。

 その中で、撃たれる側の恐怖など想像したことさえなかった。


 しかし今、立場は逆転した。

 銃口が向けられる圧力。いつ死が訪れるかわからない緊張。

 喉が乾き、張り付く。冷や汗が目に入り、視界が滲む。


「ま、待て……」


 声が裏返る。彼は必死に言葉を紡ごうとした。


「俺は、命令に従っただけだ! お前を捕まえろと言われただけだ!」


 カーバンクルは微動だにしない。赤い瞳は、ただ静かに彼を見据えている。


 そこには殺意も軽蔑もなく、ただ事実を確認するような冷徹さだけがあった。


「3人、殺したよね?」


 静かな告発。

 グリフィンは一瞬、混乱した。


 3人? 誰のことだ? 彼が撃ち殺してきた人間は数え切れない。どの3人のことを言っている?

 だが、すぐに理解した。

 この3日間の「誤射」のことだ。

 17歳の少女。40代の労働者。12歳の孤児。


「あ、あれは誤射だ! 事故だ! 仕方なかったんだ、お前に似ていたから!」


 彼は見苦しい言い訳を叫ぶ。

 カーバンクルの目が、わずかに細められた。


「またまた。あなたの過去についても軽く調べたよ」

「……っ!?」


 彼女は感情を押し殺した声で、淡々と事実を並べる。


「あなたが撃った人間はみんな無実だし、弾痕も迷いなく急所を抜いている。つまり、好きなんでしょ。あなたは、撃つのが」


 グリフィンは後ずさりしようとしたが、踵が屋上の縁に当たった。

 背後は虚空、13階分の高さ。落ちればミンチになる。


 カーバンクルがさらに一歩踏み出す。

 銃口はまるで揺らぐことなく、彼の眉間を捉え続けている。


「待ってくれ! 金ならある! 隠し口座にたっぷりあるんだ、全部やるから!」


 プライドも矜持もかなぐり捨て、両手を突き出して命乞いをする。


「頼む、助けてくれ!」


 カーバンクルは無言だった。

 風が吹き抜け、水色の髪を揺らす。遠くの街の喧騒が、まるで別世界の出来事のように聞こえる。


 グリフィンは、自分の心臓が破裂しそうなほど脈打つのを感じていた。


 呼吸が浅い。指先の感覚がない。

 これが、恐怖か。

 これが、自分がゴミのように処理してきた連中が、最期に感じていた味なのか。


「……ふぅ」


 不意に、カーバンクルが銃口を下げた。

 彼女は静かにビルの出口を指差す。


「逃げて」


 グリフィンは呆然とした。言葉の意味が脳に浸透しない。


「……え?」

「今から10数える。その間に逃げて」


 カーバンクルは、奪ったスナイパーライフルを構え直した。今度は、夜空に向けて。


「1」

「っ!!」


 反射的に体が動いた。

 グリフィンは弾かれたように走り出した。

 無様にもつれ、転びかけながら、階段の扉へ向かう。


「2」


 扉まで10メートル。全速力で駆ける。心臓が悲鳴を上げる。


「3」


 扉に体当たりし、階段室へ飛び込む。


「4」


 階段を転げ落ちるように駆け下りる。一段飛ばし、二段飛ばし。


「5」

「はぁ、はぁっ、ハァッ!」


 12階。11階。手すりにしがみつきながら、必死に降りる。


「6」


 10階。9階。自分の荒い息遣いと足音だけが響く。


「7」


 8階。いける。地上まで降りれば、人混みに紛れられる!


「8」


 7階の踊り場を通過し、窓から外が見えた。地上まであと少し。

 助かる。助かるんだ!


「9……10」


 ――その瞬間、轟音が鼓膜を叩いた。


 グリフィンの足元、コンクリートの階段が爆ぜた。鋭利な破片が脚に突き刺さる。


「ひいぃっ!?」


 悲鳴を上げて転倒し、6階の踊り場まで転がり落ちる。

 全身を打った激痛。だが、致命傷ではない。


 彼は震えながら窓を見上げた。

 遥か頭上、屋上の縁に小さな人影が見える。


 カーバンクルだ。

 彼女はライフルを構え、スコープ越しに彼を見下ろしている。


 グリフィンは理解し、戦慄した。

 ――これは、制裁だ。

 わざと外したのだ。恐怖を刻み込むために。生殺しにするために。


「や、やめてくれ……」


 這いつくばって立ち上がる。脚が震えて力が入らない。それでも降りなければならない。


 6階。5階。

 

 ドンッ!

 二発目の着弾音。


 頭のすぐ横、壁に大穴が開く。

 粉塵が舞い、熱風が頬を焼いた。あと数センチで、脳漿をぶちまけていた。


「う……うわああああああッ!」


 グリフィンは壁に張り付き、完全に硬直した。

 涙と鼻水が顔を汚し、股間が熱く濡れていく。失禁したことすら、気にする余裕はない。


「やめろ……頼む、やめてくれぇ……!」


 彼は泣き叫びながら、再び階段を這い降りる。


 もはや立つことすらできない。赤ん坊のように四つん這いで、無様に逃げ惑う。

 4階。3階。


 脳裏に、フラッシュバックが走る。

 17歳の少女。

 背中を冷静に撃ち抜いた感触。


 40代の男。

 胸を撃たれ、血の泡を吹いて倒れた姿。


 12歳の少年。

 母親の手を離し、どうと倒れた小さな体。


 全員、何も知らなかった。

 全員、恐怖の中で死んだ。

 そして今、その恐怖が何倍にもなって自分に降りかかっている。


「すまなかった……悪かった……許してくれぇッ!」


 誰に謝っているのかもわからない。

 ただ、この絶望的な恐怖から逃れたい一心で、うわ言のように叫び続ける。


 2階。1階のロビーが見えた。出口まであと10メートル。


 彼は最後の力を振り絞り、よろめきながら走り出す。壁に何度も体をぶつけながら、出口のドアへ。


 ドアを蹴り開ける。

 外の冷たい風。路地の匂い。生きている証。


「はっ、はっ、はっ……!」


 グリフィンは外に飛び出した。

 あと数歩で、隣のビルの陰に入れる。そうすれば射線が切れる。

 助かる――!


 三発目の銃声。


「ぎゃあああああっ!!」


 右肩が弾け飛んだような衝撃。

 グリフィンは独楽のように回転し、アスファルトに叩きつけられた。激痛で視界が白く染まる。


 ……まだだ。まだ死んでいない……!


 左手一本で地面を掻きむしり、這いずり進む。

 血の跡がナメクジのように長く伸びていく。

 あと少し。あと数メートルで死角だ。


 建物の角に手を伸ばす。届く。


 ――四発目の銃声。


「が――!!」


 ドスッ、という鈍い音と共に、背中に衝撃が走った。


 グリフィンの体が弓なりに反り、硬直する。

 脊椎の近くを貫通し、肺を食い破る熱い鉛の感触。


 ゴボッ、と口から大量の血が溢れた。

 呼吸ができない。肺が溺れている。


「は、は……、ひ……」


 彼は仰向けに転がった。

 ぼやける視界に、四角く切り取られた夜空と、瞬く人工の星が見える。


 そして路地の奥から、足音が近づいてくる。

 コツ、コツ、コツ。

 死神の足音だ。


「残念。逃げ切れなかった」


 カーバンクルが彼の横に立った。

 ライフルを肩に担ぎ、感情のない顔で見下ろしている。


 彼女は膝を折り、瀕死のグリフィンの目を覗き込んだ。


「あなたが殺した人々も、同じように逃げようとした。恐怖した。最後の瞬間まで、それを味わうといい」


 グリフィンは何か言おうとして、血の泡だけを吐き出した。喉がヒューヒューと鳴る。


「……あなたはもう、|どこにも存在しない《404 Not Found》」


 彼女は立ち上がり、冷徹に言い放った。

 カーバンクルは背を向け、闇へと消えていく。


 グリフィンの視界が急速に狭まる。


(あ、あ……? だれ、だ……?)


 最後に目に映ったのは、人間。自分を囲んで見下ろしてくる、人間たち。

 それは彼が撃ち殺し、名前も顔も忘れた無数の標的たちだ。


(ひ、ひ、ヒィィィ……!)


 彼らの冷たい視線に囲まれながら、グリフィンの意識は永遠の闇へと落ちていった。



 カーバンクルがハッカーズカフェに戻ったのは、午前1時を少し過ぎた頃だった。


 地下の薄暗い空間には、まだ数人のハッカーが残り、キーボードを叩く音だけがリズミカルに響いている。


 彼らは戻ってきたカーバンクルを一瞥したが、すぐに視線を逸らした。

 関わるとショウに殺される……。ショウのキレっぷりはカフェでは有名だった。


 パーティションの奥、ショウの作業スペース。

 複数のモニターに囲まれた彼が、カーバンクルの気配に気づいて振り返った。


「よう、お帰り。相変わらず完璧な仕事だったな」


 ショウの左目がエメラルドグリーンに明滅する。


 彼はアゴでモニターの一つを示した。

 そこには、グリフィンのバイタルデータが表示されていた。


 心拍数ゼロ。脳波フラット。体温は急速に低下中。


「死亡確認。午前0時47分、ってな!」


 カーバンクルは小さく頷くと、椅子に浅く腰掛けてフードを脱いだ。

 乱れた水色の髪が、モニターの光を受けて微かに輝く。


「……メッセージを送って」


 ショウはニヤリと笑った。


「もう準備してある。見ろよ」


 彼がキーを叩くと、メインモニターに送信予定のメールドラフトが表示された。


 宛先:マーカス・ヴァイス市長(個人端末)

 送信元:404号室

 件名:グリフィンについて


 添付ファイル:

 ・映像1:グリフィン逃走記録(監視カメラ映像)

 ・映像2:死亡確認映像(ドローン空撮)

 ・音声データ:グリフィンの叫び声


 本文:

 グリフィンを処分した。彼は自分が殺した人々と同じように、恐怖に泣き叫びながら死んだ。

 残り11人。

 次は誰がいい?

 ――404号室


 カーバンクルは画面を読み……眉間に小さなしわを寄せた。


「うーん……」

「なんだよ。文面が気に入らねえか?」

「いや……。私が送りそうなことが書いてあって、良いとは思う」

「だろ? ……なのになんだよ、その複雑そうな顔は」

「いや……なんていうか……」


 カーバンクルは珍しく、自分の中で言葉を転がし吟味しているようだった。


 普段の無機質な彼女からは想像できない、人間臭い逡巡。

 やがて彼女は、少し面倒くさそうに口を開いた。


「……私への解像度が変に高くて、なんかやだ」

「いいだろうが別に!!」


 ショウは慌てて咳払いをすると、誤魔化すように人差し指を突き立てた。


「とにかく送るからな! 文句は受け付けん!」


 勢いよくエンターキーを叩く。


「送信完了だ」


 モニターに『SUCCESS』の文字が浮かぶ。

 ショウは椅子に背中を預け、後頭部で手を組んだ。


「さて、飼い犬を殺されたヴァイス様がどう出るか……見ものだな」



 新市庁舎、最上階。市長執務室。


 壁一面がガラス張りになったその部屋で、マーカス・ヴァイスは眼下に広がる夜景を眺めていた。


 煌めくセントラル区の摩天楼と、その向こうに沈殿するサウス区の濁った灯り。

 光と闇の境界線が、この街の歪さを象徴している。


「……おや」


 手元の端末が、静かに着信を告げた。

 画面に表示されたのは送信元不明のメッセージ。


 だが「グリフィンについて」という件名を目にした瞬間、彼の口元に薄い笑みが浮かんだ。


「ふ……最初の犠牲者はお前か?」


 メッセージを開く。まず、添付された動画を再生した。


 一本目。グリフィンが階段を転がり落ちるように逃げる様子。

 恐怖に顔を引きつらせ、無様に這いつくばり、足元に着弾した銃弾に悲鳴を上げる姿。


 二本目。路地の闇に横たわるグリフィンの死体。

 背中に穿たれた風穴と、広がる血溜まり。ドローンが冷徹に記録した「処刑」の完了報告。


 そして、音声データ。

 「やめてくれ」「すまなかった」「許してくれ」。

 かつてのスナイパーが吐き出した、恐怖と懺悔の断末魔。


 ヴァイスは最後まで表情を変えずに視聴し、最後に短い本文に目を通した。


「グリフィンを処分した……残り11人……」


 端末を置き、彼は愉しげに呟いた。


「なるほど。やはり反撃に出たか」


 革張りの椅子に腰を下ろし、優雅に指を組む。


「グリフィンは所詮、使い捨ての駒だ。損失としては誤差の範囲内」


 しかしその灰色の瞳には、確かな警戒の色が混じり合っていた。


「自分が撃った人々と同じように……か」


 ヴァイスは、カーバンクルの意図を正確に読み取っていた。


 彼女は単に敵を排除したのではない。

 相手の犯した罪を再現し、相応しい恐怖と絶望を与えて「処刑」したのだ。


 それはただの殺戮マシーンには持ち得ない、歪んだ正義感の発露。


「面白い」


 ヴァイスの笑みが深くなる。


「それが君の中で芽生えた『自我』か。カーバンクル」


 だが感傷に浸るつもりはない。

 このまま手をこまねいていれば、残りの駒も次々と狩られることになる。

 彼は通信パネルを起動し、即座に全隊員への緊急通達を作成した。


 宛先:オペレーション「幻獣狩り」全隊員

 送信元:マーカス・ヴァイス市長

 重要度:最優先/緊急


 件名:作戦規定の変更通達


 本日0時47分、隊員グリフィンが404号室により殺害された。

 これを受け、以下の通り作戦規定を変更する。


 【新規定】

 1.単独行動の即時禁止

 2.全隊員は指定されたツーマンセル(二人一組)で行動すること

 3.ペア間での相互監視および常時通信の維持

 4.接触時は即座に他班へ救援要請を行うこと

 5.捕獲優先は継続するが、自衛のための武器使用制限を一部解除する


 【編成リスト】

 以下のようにペアを再編する。12時間以内に配置につくこと。


 ・A班:ヴァン(サイバネ兵)、カイル(元特殊部隊)

 ・B班:リサ(情報分析)、マーク(電脳戦)

 ・C班:ジェイク(元特殊部隊)、トニー(サイバネ兵)

 ・D班:エリック(元特殊部隊)、デイヴ(サイバネ兵)

 ・E班:サム(元特殊部隊)、レオ(元特殊部隊)

 ・単独行動:コバヤカワ


 対象は極めて危険かつ狡猾である。

 油断は死を招く。心してかかれ。


 ――マーカス・ヴァイス


 送信ボタンを押すと、データは光の粒子となって夜の街へ放たれた。

 ヴァイスは再び窓際に立ち、グラスに映る自分の顔を見つめた。


「さあ、少し難易度を上げてみたよ、カーバンクル」


 その瞳は新しい玩具を与えられた子供のように、無邪気かつ残酷な光を帯びていた。


「次は……どう攻略する?」

コンビ組めって言ってるメールで単独行動を強いられてるコバヤカワ氏に悲しき現在……

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