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【依頼人】廃ホテル「クリスタルパレス」

 粘つくような熱を帯びたヘステロスの指が、ミアの喉笛めがけて伸びる。


「っ……!」


 息が止まる。ミアは咄嗟に体を捻った。

 ヘステロスの汚れた指先が空を切り、代わりに硬質な防護服の肩を鷲掴みにする。布地がギチギチと軋んだ。


「おとなしくしろよ、ミアちゃんよぉ!」


 威圧的な声と共に、ヘステロスが力任せにミアを引き寄せようとする。

 しかし分厚い耐放射線スーツに阻まれ、彼の手はミアを掴みきれない。それが男をさらに苛立たせた。


「離して! このクズ野郎!」


 必死に抵抗するミアの手が、床に散らばる瓦礫の冷たさに触れた。


 ……金属製の破片だ。

 鋭く尖ったそれを密かに握りしめる。


「これが欲しいんでしょう!?」


 ミアは渾身の力で腕を振り抜き、破片をヘステロスの顔面に叩きつけた。


「ぐあっ……このッ、雌犬がぁ!」


 鈍い音と苦悶の声。一瞬、ヘステロスの拘束が緩む。

 その刹那の隙を見逃さなかった。

 ミアは彼を突き飛ばし、崩れ落ちた病室の入口へと走る。


「はぁ、はぁ……っ!!」


 コンクリートの粉塵が舞う廊下をただひたすらに駆けた。

 背後から、獣の咆哮にも似た怒声が追いかけてくる。


「逃がすかァ! お前は俺のモンだ、クソアマァ!」


 重く湿った足音が廊下に反響する。

 ミアは振り返らない。振り返るような余裕も理由もない。


(とにかく、外へ……!)


 瓦礫の山に身を滑り込ませ、鉄骨の隙間を這うようにして反対側へ抜ける。

 鋭い突起が体を掠め、ビリッと防護服が裂ける不吉な音が響いた。


(ウソ……!?)


 汚染された外気が傷口から忍び寄るような感覚。

 それでも足を止めなかった。止めれば、待っているのは死だけだ。


 錆びついた階段を駆け上がる。一階、そして地上階へ。


 病院のひび割れた窓枠から、身を投げるように外へ飛び出した。

 着地の衝撃を受け流しきれず、アスファルトに激しく転倒する。


「グッ……〜〜〜〜ッ」


 肺が潰れそうなほどの痛みに呻きながらも、すぐに立ち上がり走り出す。


 ミアは廃墟と化したノース区を、目的もなく疾走する。


 どこへ? どこへ行けばいい?

 クリーンゾーンになど戻ったって意味がない。

 外の世界――セントラル区へ通じるゲートは、どっちの方角にあるのかもわからない。


 手首のガイガーカウンターが、断続的に警告音を立てる。

 放射線の濃度はまだら模様で、どこが安全でどこが死地なのか判断がつかない。


 巨大なビルの残骸の影に転がり込み、ミアはようやく息を整えた。


 全身が痙攣するように震えている。

 恐怖。疲労。そして、じわじわと心を蝕む絶望。

 もう、一歩も動けそうになかった。


「どこに……私、どこに行けばいいの……? ユウキ……っ」


 見渡す限り崩壊したビル群、ひび割れた道路、そして大地の裂け目から不気味に漏れ出す青白いチェレンコフ光。


 全てが死に絶えた、墓場のような世界。


 ――その静寂を破り、引きずるような、重い足音が近付いてくる。


(ヘステロス……っ!!)


 この高濃度汚染地帯で、こんなゆったりと歩ける人間は他にいない。

 彼だけが、この死の荒野に適応している。彼だけが。


「……っ、まだ、終われない……!」


 ミアは最後の気力を振り絞り、再び走り出した。

 しかし鉛のように重い足はもつれ、視界がぐらぐらと揺れる。


「おーおー、まだ逃げるか。健気だねぇ!」


 錆びた看板がぶら下がる角を曲がった、その時。

 目の前に巨大な建物が聳え立っていた。


「……!? なに、この建物……?」


 周囲の瓦礫の山とは明らかに違う。奇跡的とさえ言えるほど、その原型を保っている。

 十階建てはあろうかという壮麗な建築物。

 風化した外壁に、かろうじてその名残を読み取ることができた。


『Crystal Palace Hotel』

「……ホテル?」


 ホテル……。その単語が、ミアの脳裏に錆びついた記憶の断片を呼び覚ました。


 サウス区の薄汚れたバーで聞いた噂話。

 酔っ払いたちが笑いながら語っていた、荒唐無稽な都市伝説。


『ホテルの404号室を予約すると、どんな悪党だろうと片付けてくれる“始末屋”が現れるんだとさ』


 馬鹿げてる。当時は鼻で笑った。

 そんなお伽話が、この希望のない国に存在するはずがない。


 だが。

 今の自分はそのお伽話にさえすがりつきたい。


(行くしか……ない!)


 ミアは最後の力を振り絞り、ホテルのエントランスに駆け寄った。

 強化ガラスの自動ドアは機能を停止し、分厚い埃の層に覆われている。

 渾身の力でこじ開けると、耳障りな音を立てて重い扉が開いた。


 吹き抜ける風が積年の埃を舞い上げる。

 中は時が止まったかのような、壮麗で、そして荒廃したロビーだった。


 ひっくり返った大理石のカウンター、枯れ果てた観葉植物の残骸、散乱する豪奢な家具。

 それでも、どこか人の手が入っているような奇妙な静けさと秩序が漂っていた。


 ミアはフロントカウンターに吸い寄せられる。

 その上に、旧式のコンソール端末が一台、埃をかぶって落ちていた。

 電源は落ちているように見える。それでも──。


「お願い……!」


 震える指で、ミアは電源ボタンを押し込んだ。

 心臓の音がやけに大きく響く、数秒の沈黙。


 ──ピッ。


「!!」


 電子音と共に、スクリーンが青白い光を灯した。


『Welcome to Crystal Palace Hotel - Reservation System』

「動いた……!」


 なぜ? 独立した自家発電システムでも生きているというのか。

 理由はわからない。だが、今はどうでもよかった。


 ミアは憑かれたように画面をタップし、予約画面へと進む。

 部屋番号のリストがホログラムで浮かび上がった。


 101、102、103……


 焦る指でスクリーンをスクロールし、4階のリストを探す。


 401、402、403……そして、それはあった。

 『404』。

 ミアはためらわなかった。祈るように、その数字をタップする。


『Confirm reservation for Room 404?』


 確認画面。その向こうに最後の希望が見える。

 その時、背後で再びあの耳障りな金属音が響いた。ホテルの入口が開く音だ。


「ほーら……追いついたぞ、雌犬」


 息を切らした悪魔の声だ。


「お願い……間に合って!」


 ミアは震える指で、『YES』のボタンを叩きつけた。


『Reservation Complete. Please enjoy your stay in Room 404.』


 画面に無機質なメッセージが表示される。ただ、それだけ。


「そこで何をごそごそやってる?」


 ヘステロスがゆっくりとカウンターに近づいてくる。

 ミアはコンソールから飛びのき、ロビーの奥、大階段へと走った。


「おいおい、まだ逃げるのか? 面倒な女だな」


 なんとでも言え。すり減った絨毯の階段を駆け上がる。一階、二階、三階、四階。


 薄暗い廊下を、壁のルームプレートだけを頼りに進む。401、402、403。


「あった! 404号室!」


 他の部屋と変わらない何の変哲もない扉。

 ドアノブに手をかけると、あっさりと開いた。鍵はかかっていない。


 中は、信じられないほどに整然としたホテルの客室だった。


 ベッド、テーブル、椅子。

 薄く埃は積もっているが、他の廃墟のような荒廃はない。


「……っ!」


 ミアは部屋に転がり込み、背後の扉を閉めた。

 だがガチャン、と虚しい音が響くだけ。鍵は壊れて施錠できなかった。


「そんな……」


 絶望的な気分で、彼女はベッドの陰に身を潜める。

 邪魔な防護服のヘルメットを脱ぎ捨て、汚染された空気を貪るように吸い込んだ。


「ゲホッ、ゲホッ……!」


 廊下にゆっくりとした足音が響く。

 獲物を嬲り、追い詰める捕食者の足音だ。


「ミアァ……どこに隠れた?」


 ねっとりとした声が、すぐそこまで迫っている。


「無駄だぞ。この階に入ったのは見ている。一部屋ずつドアを開けてやる。お前との鬼ごっこも、もう終わりだ」


 バン! 401号室のドアが開く音。すぐに閉まる音。


 バン! 402号室。着実に、死が近づいてくる。

 バン! 403号室。


 次は、ここだ。

 ミアは目を閉じ、必死に祈った。


(噂が、本当でありますように。誰か、誰でもいい。来てください。助けてください!)


 ギィ……と、錆びついた蝶番が軋む音を立てて、扉が開いた。


 ヘステロスが部屋に足を踏み入れる。

 彼はゆっくりと室内を見回し、やがてその視線がベッドの陰で止まった。


「見ぃつけた……」

「……!!」


 歪んだ唇が、三日月のように吊り上がる。


 もう隠れていても意味がない。ミアはゆっくりと立ち上がった。

 部屋の隅に追い詰められ、冷たい壁を背にヘステロスと対峙する。


「来ないで……!」

「残念だったなぁ。助けでも呼んだのか? さっきフロントで何かやってたな?」


 ヘステロスは嘲るように部屋を見回す。もちろん、ミアの他には誰もいない。


「無駄だと言ったろう。ここはノース区、死の世界だ。そして、俺だけがこの死の世界の王なんだよ!」


 一歩、また一歩と男が距離を詰めてくる。


「お前を助けに来る英雄様がいたとして、この高濃度汚染の中で何分保つ? 誰が来たって、肺から溶けて死ぬだけなんだよ! お前を救えるヤツなんざ、この世界のどこにもいない!」

「……く……っ」


 ヘステロスの手が三度、ミアの首へと伸びる。


 ……もう逃げ場はない。ミアは固く目を閉じた。終わりだ。


(ユウキ、ごめんね……)


 ――その瞬間。

 部屋の空気が、凍った。


「……あ?」


 温度が急激に下がったような、肌を刺す感覚。

 いや、違う。もっと根源的な何かが、この空間の物理法則を書き換えたように思えた。

 音が消え、光が歪む。


 ミアは恐る恐る目を開けた。


「ふーん……まさかノースに人がいるなんてね」

「……あ?」


 部屋の外。ドアの外側に誰かが立っていた。


 いつから? どうやって?

 音も気配もなかった。まるで最初からそこに存在していたかのように。


 淡い水色の髪が静かに揺れている。

 汚れもない白いパーカー。

 そして暗闇の中で燐光のように輝く、一対の赤い瞳。

 人形のように整った顔立ちの、中性的な少女だった。


 ヘステロスもその異質な存在に気づき、動きを止めた。

 彼はゆっくりと振り返り、闖入者を睨みつける。


「……誰だ、てめぇは」


 少女は無表情のまま、その赤い瞳をヘステロスに向けた。

 鈴が鳴るような少女の、それでいて重く酷薄な声が響く。


「私はカーバンクル。404号室の怪物。依頼を受けて、悪人を始末する」

予約とほぼ同時に現れるカーバンクルさんの謎技術

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