【依頼人】嘲笑われる覚悟
その夜、ミアは眠れなかった。
体中が軋むように痛む。
吐き気は一向に治まらず、胃液に混じって血の味がした。
枕に触れる髪が指に絡みついて抜けていく。
放射線障害の症状が、津波のように彼女の身体を蝕んでいた。
(このままじゃ死ぬ。明日もあの廃墟に送られたら、確実に……)
ミアは硬い床の上で天井を見つめながら、弟の顔を思い浮かべた。
ユウキの屈託のない笑顔。
自分の指を握り返してきた、あの小さな手。
「お姉ちゃん」と呼ぶか細い声。
「死ねない……」
闇に溶けるような呟きが漏れた。
(私が死んだら、ユウキも死んじゃう。絶対に生き延びなきゃ)
ミアは震える身体を起こした。
隣で浅い眠りについているゾーイに、声を潜めて話しかける。
「ゾーイさん……起きてますか?」
「……ん? どうしたの?」
ゾーイは身じろぎして目を開けた。
疲れ切った顔だったが、ミアの尋常でない様子を見て心配そうに眉をひそめる。
「大丈夫? 顔色が真っ白よ」
「聞きたいことがあります」
ミアは真剣な眼差しでゾーイに問いかけた。
「ヘステロスの……『お気に入り』になった人はどうなるんですか?」
ゾーイの表情が曇った。長い沈黙の後、諦めたように重い口を開く。
「第一居住区に移される。外での作業はなくなるわ。代わりに……」
言葉が途切れ、彼女は目を伏せた。
「彼の部屋で……性的な奉仕を強要されるの。昼は掃除や身の回りの世話。そして……夜は、彼のベッドで命令されるがままになる」
「……その人たちは、今どうしているんですか?」
「何人かはまだ第一居住区にいるわ。ヘステロスが飽きるまで。飽きられたら、またこの地下に戻される。でも……」
ゾーイの声が震えた。
「その前に心が壊れてしまった子もいる。もう笑うことも泣くことも忘れて、ただ息をしているだけの人形みたいに……」
ミアは唇を強く噛んだ。
それでも、外で被曝してゆっくりと肉体が腐り落ちるよりはマシだ。
生きていさえすれば、可能性はゼロじゃない。
「どうすれば、彼の『お気に入り』になれますか?」
ゾーイは驚愕に目を見開いた。
「本気なの? あの男は獣よ。あなたの尊厳も、何もかも食い尽くされるのよ!」
「それでも、死ぬよりマシです」
ミアの目には、恐ろしいほどの決意が宿っていた。
「私には、守らなきゃいけない弟がいる。あの子のために生き延びるためなら、私は何にでもなる」
ゾーイは長い間ミアの顔を見つめていた。
その瞳に映る狂気じみた覚悟に、やがてゆっくりと頷く。
「……わかった。教えてあげる」
彼女はさらに声を潜めた。
「明日の朝、食事の配給の時にきっとヘステロスが巡回に来る。彼は新入りを必ず品定めするの。そこで、心が折れたフリをしなさい」
「心が……?」
「媚びるのよ。視線を合わせて。『お願いがあります』と言えば彼は興味を示す。あの男は、プライドを捨てて自分から跪く女が好きなのよ」
ゾーイの言葉には、拭いがたい苦渋が滲んでいた。
「それがヘステロスの支配欲。女たちが自ら服従する姿を見て、悦に入るの」
ミアは深く息を吸った。
指先が氷のように冷たい。しかし決意は揺るがなかった。
「わかりました。やってみます」
「後悔しないでね。一度あの男の所有物になったら、もう二度と、ただの『あなた』ではいられなくなるわよ」
「それでも……生きていたい。ユウキとまた会いたい」
ゾーイはもう何も言わなかった。
ただミアの手を握った。
その手は、同じ絶望を知っているかのように冷え切っていた。
■
翌朝。
監房の扉が開き、配給係が味のないスープとパンの切れ端を置いていく。
労働者たちはそれを無心に貪った。
だがミアは食事に手をつけず、鉄格子の前でじっとその時を待った。
やがて重く、自信に満ちた足音が響いてくる。
ヘステロスだった。
彼は通路を歩きながら、各監房を品定めするように覗き込んでいく。
そして、ミアのいる監房の前で足を止めた。
ヘステロスは鉄格子越しにミアを見て、彼女が昨日の作業で心が折れたかどうかを確認するような顔を見せた。
「ほう。まだ生きていたか。よかったな」
ミアは立ち上がり、鉄格子に近づいた。
心臓が肋骨を叩き、まだ残る吐き気を必死に飲み下す。
そして視線を合わせた。
ヘステロスの、全てを見下す目をまっすぐに見つめる。
「お願いが、あります」
声が震えそうになるのを抑え、できるだけ落ち着いた声で言った。
ヘステロスは片眉を上げる。
「ほう。新入りがもう交渉かぁ? 面白い」
彼は鉄格子に手をかけ、愉しげに身を乗り出した。
「言ってみろ。何が望みだ?」
「外での作業を……やめさせてください」
ミアは唇を噛み、次の言葉を絞り出すように話す。
「代わりに……私を、あなたの側に置いてください……」
監房内の空気が凍りついた。他の女たちが息を呑むのがわかった。
ヘステロスはゆっくりと捕食者の笑みを浮かべる。
「ほう。死ぬのが怖くなったか? 賢い選択だ」
彼は鉄格子の鍵を開け、扉を開いてミアの前に立った。
「条件だ。お前は今日から第一居住区に移り俺の奴隷になれ」
ヘステロスの、湿って生暖かい指がミアの顎を捉えた。
「夜は俺の相手だぞ。俺が呼べばいつでも来い。俺が命じれば何でもしろ。拒否は許さん」
ミアは震える声で答えた。
「……わかり、ました」
「いい返事だ」
ヘステロスはミアの髪を掴んだ。痛みに顔が歪むが、ミアは声を堪えた。
「お前の名前は?」
「ミア……ミア・サカモトです」
「ミアか。覚えておこう」
ヘステロスはミアを監房から引きずり出した。
「こいつを第一居住区へ連れて行け。シャワーを浴びせて着替えさせろ」
部下の一人がミアの腕を掴んだ。監房を離れる直前、ミアは振り返った。
ゾーイが悲しそうな目でこちらを見ていた。
他の女たちの表情には同情と、そして自分たちではないことへの安堵が入り混じっていた。
ミアは目を逸らし、前を向いた。
プライドは捨てた。
尊厳も、魂さえも売り渡す。
それでも生きる。弟のために。
そして、この地獄から脱出するために。
■
第一居住区は地下の監房とは別世界だった。
清潔な廊下、機能する照明、温度管理された快適な空気。
ミアは小さな個室に連れて行かれた。
そこにはシャワー設備と、清潔なベッドがあった。
「ここで体を洗え。服はそこだ」
部下が指さしたクローゼットには、身体の線が露わになる薄い生地の衣服が吊るされていた。
「着替えたらノックしろ。……ああ、俺の前で着替えてくれてもいいが?」
「……出ていって」
ニヤついた部下が肩をすくめて去っていく。
一人になり、ミアはシャワールームの鏡の前に立った。
自分の身体が、想像以上に衰弱していることに気づく。
皮膚には放射線障害による黒い斑点が現れ始めている。髪も、明らかに薄くなっていた。
――このままでは、本当に死んでいた。
温かいシャワーを浴びながら、ミアは束の間の安らぎを味わっていた。
(……でもこれは。体を売る代償でしかない)
服に着替える。
鏡に映ったのは、痩せた身体を布一枚で包んだ見知らぬ女だった。
その瞳からかつての輝きは消え失せていた。
生き延びる。
それだけを呪文のように唱え、扉をノックした。
「ほぉ。胸はそれなりのデカさだな? あとで俺の相手もしてくれよ」
「…………」
部下に連れられ、廊下を進む。
途中、同じような服を着た虚ろな目をした女たちとすれ違った。
彼女たちもまた、生きるために魂を売った者たちだ。
ミアはそこに、自分の未来の姿を見た。
やがて、大きな扉の前で足を止める。
「ヘステロス様、新しい女を連れてきました」
「入れ」
低い声が響き、扉が開かれた。
その向こうは、略奪品で飾り立てられた豪華な部屋だった。
そして中央に上半身裸のヘステロスが立っている。
筋肉質な身体には無数の傷跡と、皮膚の下で銀色に脈打つインプラントが浮かんでいた。
「ミアだったな」
彼は満足げに笑った。
「よく来た。これからお前は、俺のものだ」
ヘステロスはミアに近づき、顎を掴んで顔を上げさせた。
「まだ若い……まだ綺麗だ。存分に楽しませてもらうぞ」
■
時計は午前3時を指していた。
ミアはヘステロスのベッドの端で、膝を抱えて座っていた。
体中が痛む。
だが肉体とは別の種類の痛みだ。
外部作業での被曝とは違う、もっと深いところを傷つけられた痛み。
服は引き裂かれて床に散らばっていた。
ミアは自分の体を見下ろした。
新しい痣が、首筋から胸にかけて広がっている。
唇は切れており、血の味が口の中に残っていた。
尊厳など、もう何もない。
ヘステロスは隣で眠っている。満足げな寝息を立てている。
彼にとってはただの娯楽だったのだろう。人間を弄ぶことなど……。
(……っ、許さない……っ)
ミアは震える手で、散らばった服を拾い集めた。着られる状態ではない。
クローゼットから予備の服を取り出し、静かに着替える。
その間も、ヘステロスの寝顔を監視し続けた。彼が目を覚ます気配はない。
チャンスは、今しかない。
ミアは部屋を見回した。
監視カメラのスクリーン、武器のラック、そして──壁際の金属製ロッカー。
ヘステロスの装備品が保管されている場所だ。
ミアは音を立てないようにベッドから降りた。
足音を殺しながらロッカーに近づく。
心臓が激しく鳴っている。手が震える。
ロッカーのドアに手をかけた。
鍵はかかっていない。ヘステロスは自分の部屋では油断しているのだ。
静かに、ゆっくりとドアを開く。
――キィ、とわずかな金属音が響いた。
「……っ!!」
ミアは息を止めた。ヘステロスの方を見る。
「う〜ん……」
……彼は寝返りを打った。しかし目は覚まさなかった。
改めてロッカーを確認する。中には様々な装備品が収納されていた。
武器、弾薬、そして──防護服。
自分が持ってきた軍用グレードの防護服だ。ヘステロスが没収してここに保管していたのだ。
その隣にはガイガーカウンターもあった。
ミアは両方を取り出した。
重い。しかし、これがなければ外を移動できない。
部屋の隅にはバックパックも置かれていた。
中身は空だったが、装備を運ぶのに使える。
防護服とガイガーカウンターを詰め込む。
データパッドも持っていく。病院の構造図が入っている。
準備は整った。
ミアは部屋の扉に向かった。扉を開け、廊下に出る。静かに扉を閉める。
第一居住区の廊下は、深夜でも薄く照明が灯っている。
ミアは壁に沿って進んだ。
足音を殺し、影に身を潜めながら。
角を曲がると階段が見えた。地上階への階段だ。
しかし、階段の前には見張りが一人立っていた。銃を持ち警戒している。
(迂回路を探さなきゃ……)
引き返し、別の廊下を進む。
途中、開いた部屋の扉から女性の嬌声が聞こえてくる。
「あぁ、あぁんっ! だめぇっ! ちょっとぉ、休ませてぇ……!」
「何言ってやがる、中はグチャグチャじゃねぇか……!」
「あっ、はぁぁ〜……!!」
……他の奴隷だろう。彼女もまたヘステロスの部下に弄ばれているのだ。
ミアは目を逸らし、先を急いだ。
非常階段に着く。ここは無人だった。
階段を駆け降りる。二階、地上階。そして外部への出口……!
重い金属製の扉の前でミアは立ち止まった。
この扉の向こうは、放射線に満ちた廃墟だ。
しかし、それでも行かなければならない。
防護服を着込む。ヘルメットを被り、ガイガーカウンターを起動させる。
「……よし!」
そうして扉を開けると――
――アラームが鳴り響いた。
「くっ……!」
「おい! 誰だ、扉を開けたのは!?」
ミアは扉を飛び出した。
背後で警報が鳴り続ける。もう隠密行動は不可能だ。見つかる前に病院に辿り着かなければ。
廃墟を全力で走った。
ガイガーカウンターの針が揺れる。
放射線レベルを確認しながら、安全なルートを選んで進む。
背後から、追跡者の声が聞こえてくる。
「女が逃げた! 捕まえろ!」
ヘステロスの部下たちが追ってくる。
しかし、彼らは粗末な防護服しか着ていない。高放射線エリアには入れないはずだ。
ミアは青白く光る地面を避け、崩壊した建物の間を縫って走った。
■
「はぁ、はぁ……!」
15分後、旧アルカディア総合病院の建物が見えた。
部下たちはいつの間にかいなくなっていた。
防護服がどこまで保つかわからない以上、深追いはできないと考えたのだろう。
病院の正面玄関は封鎖されている。
ミアは建物の側面を回り、破損した窓から侵入した。
病院の内部は荒廃していた。
廊下には医療機器が散乱し、壁には血痕のようなものが残っている。
天井の照明は全て消えており、ヘルメットのライトだけが頼りだった。
データパッドの構造図を確認する。地下第三研究棟への階段は、建物の奥にある。
廊下を進む。
途中手術室の扉が開いており、中には朽ちた手術台が見えた。
その上には白い骨が横たわっていた。
ミアは見ないようにして、先を急いだ。
「! ……あれは」
階段を見つけた。下への階段だ。「地下研究棟」の標識がある。
「よし……薬は地下のはず、よね」
階段を降り始めると、ガイガーカウンターの警告音が激しくなった。
『警告:放射線レベル上昇 52.8μSv/h』
「……っ」
まだ耐えられる範囲だ。ミアは階段を降り続けた。
地下一階、地下二階、そして地下三階。
「――なによ、これ……」
階段の最下部に着くと、目の前には崩壊した廊下が広がっていた。
天井が陥没し、壁が崩れ、瓦礫が通路を塞いでいる。
ミアは絶望しそうになった。
ヘステロスの言った通りだ。地下は崩落している。
しかし、諦めるわけにはいかない。
「まだ……!」
瓦礫をかき分け、隙間を探す。
小さな穴を見つけ、体を押し込んだ。
狭い。体が挟まれる。しかし、必死に前進するしかない。
そうして崩落した廊下の反対側に抜け出た。
そこには、半壊した研究棟が広がっていた。
部屋の扉は全て破壊され、中の設備は破壊されている。
ミアはデータパッドを確認した。
第七保管庫は、この廊下の突き当たりにあるはずだ。
「急がないと……!」
走り、部屋の前に着いた。扉は半分崩れ落ちており中が見える。
保管庫は、完全に破壊されていた。
「あ――」
棚は倒れ、保管容器は全て破損している。
床は薬品の残骸が散乱し、その多くは放射能で汚染されている。ガイガーカウンターが激しく警告音を発した。
『危険:放射線レベル 127.4μSv/h』
ミアは部屋の中に入った。棚の残骸をかき分け、容器を一つ一つ確認する。
どれも破損している。
中身は漏れ出し、汚染されている。
「RAD-Zero……どこ……! どこなのよっ!」
必死に探した。しかし、見つからない。
十分間探し続けてもなお、無傷の薬は一つもなかった。
「嘘……嘘でしょ……」
ミアは床に膝をついた。全身の力が抜けていく。
ここまで来たのに。全てを賭けてきたのに。
ユウキを救えない。
「ユウキ……ごめん……! お姉ちゃん、ごめん……っ」
ヘルメットの中で涙が溢れた。
――その時、背後から拍手の音が聞こえた。
ミアは振り返る。
崩れた入口に、ヘステロスが立っていた。
「な――」
「よお。愛と感動の悲劇ごっこは終わりか?」
彼は防護服を着ていなかった。普通の服のまま、平然と立っている。
放射線耐性強化の技術により、この程度の放射線は彼にとって無害なのだ。
「よく逃げたもんだ。心が折れたと思ってたのによ」
ヘステロスは笑っていた。それはミアの抵抗を心底から楽しんでいるような笑みだった。
「なんで、ここが……」
「どうせ薬を探しに来ると思ってな。優しいこの俺が忠告してやったってのによ」
彼はゆっくりと部屋に入ってきた。
「残念!! 薬はありませんでした。お前の弟はもう助かりませ〜ん!!」
ミアは立ち上がった。震える足で、ヘステロスと対峙する。
「なんで……なんで、そんなこと……! アンタに人の心はないの!?」
「ない!」
ヘステロスは簡潔に答えた。
「お前たちの希望が打ち砕かれる様を見るのが俺の一番の楽しみでねぇ。脱走したと聞いていても立ってもいられなかったぜ。最高の瞬間が見れると思ってよぉ! ひゃはははは!!」
彼は腹を抱えて笑いながらミアに近づいてきた。
「さあ、戻るぞ。逃げたやつが生きてる、なんて希望を持たれちゃ困る。お前は公開処刑だ」
「……っ!」
「俺の部下総動員で、お前が死ぬまで犯し続けるってのはどうだ? 男の奴隷にとっちゃオカズになっちまうかもしれねえがな」
「この、クズ……!!」
ミアは後ずさった。しかし、背後は壁だ。逃げ場はない。
ヘステロスの手が、彼女の首に伸びてくる――。
ヘステロスがエロいことばっか言っててごめんなさい…




