【依頼人】泳がされる者たち
エリックは息を殺し、廊下を覗き見た。
無機質な通路には、先ほどまで立っていた黒服の姿はない。
緊急灯のかすかな赤い光が、壁の染みを不気味に照らしているだけだった。
罠か? それとも、本当に隙が生まれたのか?
思考する時間はなかった。
「アンナ、子供たちを……!」
その声に、虚ろだった妻の瞳にかすかな光が戻る。
彼女は震える手で、リーナとオスカーを抱き起こした。
二人とも拷問で衰弱しきっているが、まだなんとか自力で立てる。
「行くぞ……!」
エリックは壁に手をつき、先頭に立った。
家族は音を立てないよう、裸足で冷たい床を進む。
一歩進むごとに、全身の傷が悲鳴を上げた。だが、痛みを感じている余裕はなかった。
金属製の階段を上る。地下から一階へ。
軋む音を立てないよう、体重を慎重にかけながら。
やがて緑のランプが灯る扉が見えた。
非常口のサインだ。
「あれだ……!」
エリックは最後の力を振り絞って駆け寄り、ドアハンドルに手をかけた。
鍵がかかっていない。あっさりと回った。
(――ありえない。こんなことってあるのか?)
あんな秩序立った突入をしてきた隊が、こんな初歩的なミスをするのだろうか。
エリックのエンジニアとしての理性が警鐘を鳴らす。
だが絶望の淵にいる彼には、その警鐘を聞き分ける余裕はなかった。
ただ家族を救いたい一心で、扉を押し開ける。
「――外だ……!」
汚染された夜気が、肺を焼くように流れ込んできた。
そこは廃工場の裏手だった。
錆びついたダクトが並び、積み上げられた廃棄コンテナが迷路のように入り組んでいる。
「走れ! 急ぐんだ!」
一家は必死に走り出した。
リーナとオスカーは足を引きずり、すぐに遅れ始める。
エリックは躊躇なくオスカーを背負い、アンナがリーナの腕を引いた。
「パパ……足が痛い……!」
「我慢しろ! ここを抜ければ……きっと!」
コンテナの迷路を抜け、広大な工業地帯を走る。
巨大な冷却塔、稼働を止めたオートメーションアーム、蜘蛛の巣のように張り巡らされた配管。
その時――背後から拡声器を通したような声が響いた。
「ターゲットが脱走! 各員、追跡を開始せよ!」
「――ッ!」
複数のブーツが地面を蹴る音が、反響しながら迫ってくる。
エリックの心臓が凍りついた。
「見つかったか……!」
「こっちよ!」
アンナが巨大なパイプラインの影を指差す。一家は方向を変え、闇の中をさらに走る。
追手の足音は確実に近づいてくる。
だが、奇妙なことに、その距離は一定以上縮まらなかった。
エリックたちは満身創痍だ。訓練された私兵なら、一瞬で追いつけるはずなのに。
まるで、狩りを楽しまれているような……。
その不気味な違和感を振り払うように、エリックは歯を食いしばった。
「そっちへ回れ!」
「逃がすな! 生け捕りにしろ!」
私兵の声が四方から響く。サーチライトの光が闇を切り裂く。
だが、その光はいつも絶妙に彼らを逸れていく。
やがて、前方にけばけばしいネオンの光が見えてきた。
イースト区とサウス区の境界線、無法者たちが集う混沌の街だ。
「あそこまで行けば……!」
エリックは最後の力を振り絞った。
境界線を越え、サウス区の雑踏に飛び込んだ瞬間、背後の追跡の気配がふっと消えた。
「……逃げ切れた、のか……?」
エリックは振り返った。
私兵たちの姿は、まるで幻だったかのようにどこにも見当たらない。
「はぁ、はぁ……」
一家はゴミが散乱する路地の隅に倒れ込み、激しく肩で息をした。
「大丈夫か……みんな……」
リーナとオスカーは、恐怖と安堵でしゃくりあげながら頷いた。
「怖かった……怖かったよぉ……」
「もう大丈夫だ。もう、あの地獄からは出られたんだ……」
エリックは震える子供たちを力強く抱きしめた。
アンナもまた、壁に背を預けて崩れ落ちる。
「でもどうしましょう、あなた……住所も知られてる。このままじゃ、また……」
「……あいつなら。サウス区に住んでいるはずだ」
エリックは埃まみれの記憶を必死に手繰り寄せた。
「元同僚だ。彼なら、俺たちを匿ってくれるかもしれない」
■
錆びついた金属製のドアを叩く。
中から、インターコム越しのくぐもった声が聞こえた。
「誰だ?」
「俺だ! エリック・ヨハンソンだ! マーカス、頼む、開けてくれ!」
数秒の沈黙の後、何重ものロックが外れる音がして、扉がわずかに開いた。
現れたのは、無精髭を生やした中年の男。
マーカス・レイン。かつてエリックと共にシステム開発に携わっていたが、会社と揉めてサウス区に流れ着いた男だ。
「エリック……? おい、なんだその姿は……家族も……?」
マーカスは絶句し、ボロボロの一家を見つめた。
「頼む……少しでいい。匿ってくれ……!」
その言葉を最後に、エリックは膝から崩れ落ちた。
「お、おい! ……わかった、とにかく入れ!」
マーカスの部屋は狭く電子部品の匂いが充満していたが、温かかった。
彼は黙って家族に毛布を渡し、手早く応急処置を施してくれた。
リーナとオスカーには、貴重な栄養剤の入った温かいスープを与えてくれた。
「一体何があったんだよ」
マーカスが低く、しかし鋭く尋ねる。
エリックは、途切れ途切れに全てを語った。
突然の襲撃。ヴァルトハイムの名。そして、地獄のような四日間の拷問を。
「……信じられん」
マーカスは頭を抱えた。
「レオン・ヴァルトハイムだと? 正気か、エリック」
「お前も知ってるのか?」
「そりゃあな。奴はこの都市の影の支配者だ。行政も警察も、奴の意のままに動く……」
マーカスは深刻な表情で続けた。
「そんな化け物に目をつけられたら……警察に駆け込んでも、お前たちは『存在しなかった』ことにされるだけだぞ」
「そんな……!」
エリックの顔から血の気が引く。
「じゃあ、俺たちはどうすれば……!」
「……わからない」
マーカスは悔しそうに首を横に振った。
「俺にできるのは、せいぜい数日お前たちをここに隠すことだけだ。だがヴァルトハイムが本気になれば、こんな場所はすぐに見つかる」
「くそ……八方塞がりか……!」
その時、リーナが苦しそうに呻いた。
「パパ……パパ、腕が……熱い……!」
「リーナ!」
エリックは娘に駆け寄った。
骨が折れているのだ。彼女の傷は化膿しかけており、素人療法では限界があった。
「病院に連れて行かないと……!」
「馬鹿を言え!」
マーカスが即座に遮った。
「全ての医療機関のネットワークは中央システムに繋がっている。お前たちの生体IDをスキャンされた瞬間、居場所がヴァルトハイムに転送されるぞ」
「じゃあ、このまま娘が死ぬのを見ているしかないのか!?」
エリックは絶望に沈んだ。
どこにも逃げ場はない。誰も助けてはくれない。
家族を守ると誓った自分の腕は、あまりに無力だった。
「……ごめん、リーナ。パパは……」
「パパのせいじゃ、ないよ……」
リーナは痛みに耐えながら、弱々しく微笑んだ。
その健気な笑顔が、ナイフのようにエリックの胸を抉る。
アンナは壁に寄りかかり、オスカーを固く抱きしめたまま、虚空を見つめていた。
彼女の心は、もうあの地下室に置き去りにされてしまったかのようだった。
部屋に、息が詰まるような沈黙が降りる。
絶望だけが、この部屋の空気を満たしていた。
■
エリックは一人、薄暗い酒場のカウンターにいた。
マーカスの部屋にいても、何も解決しない。
狂気に駆られる前に、何か、どんな小さな可能性でもいい……手掛かりを探さなければ。
「……くそっ」
カウンターに置かれた安い合成アルコールを呷る。
工業用溶剤のような味がしたが、今はどうでもよかった。
「随分と深い闇を背負っている顔だな」
突然、隣から声がかけられた。
四十代くらいの男。サウス区の空気に馴染んだ、くたびれたジャケット。
顔には無精髭、その瞳の奥には、諦めと打算が滲んでいる。
「……何者だ」
「ただの情報屋さ」
男はニヤリと笑った。
「この街じゃ、絶望は金の匂いがするんでね」
「情報屋……?」
「ああ。金次第で神の設計図から悪魔の電話番号まで、何でも売る」
男はグラスを傾けた。
「で、あんたが探しているのはどっちだ?」
エリックは迷った。
この男を信じていいのか。だが、もう失うものは何もない。
「……レオン・ヴァルトハイムを抹殺する方法が知りたい」
その名前を聞いた瞬間、男の表情から笑みが消えた。
「……そいつは、悪魔の電話番号より高くつくぞ」
男は深いため息をついた。
「不可能だ。諦めな」
「……そうか」
「奴は権力そのものだ。金、暴力、情報、全てを握っている。正攻法では絶対に勝てん」
男は酒を飲み干した。
「あんた、家族をやられたクチか?」
「ああ。……このままじゃ、もう長くない」
「……そうか」
男はしばらく沈黙し、天井を仰いだ。
そして、何かを決意したように口を開く。
「……正攻法じゃないやり方が、一つだけあるかもしれん」
「! 本当か!?」
エリックは身を乗り出した。
「あくまで都市伝説だ。俺も本物は見たことがない」
「構わん! 教えてくれ!」
男は周囲に視線を走らせ、声を潜めた。
「『404号室』って言葉を聞いたことがあるか?」
「404……見つからない、エラーコードか?」
「そうだ。この街のホテルの404号室を予約すると、『ゴースト』が現れるという噂だ」
エリックは眉をひそめた。
「ゴースト……?」
「復讐代行屋さ。法も権力も無視して、ターゲットを『エラー』にしてくれる存在だ」
「そんなものが、本当に……?」
「さあな」
男は肩をすくめた。
「だが、消えた権力者は実際に何人もいる。この前の、エデンって施設が爆発したのを知ってるか? 奴らは404号室の始末屋に消されたって話だ」
「……」
エリックは考え込んだ。
馬鹿げている。ただの与太話だ。
だが今の彼には、その与太話にすがるしかなかった。
「どうすれば、そのゴーストに会える?」
「どこのホテルでもいい。ただし、必ず『404号室』が存在するホテルを選べ。そして直接フロントで予約しろ」
男は立ち上がった。
「あとは、部屋で待つだけだ。ゴーストが来るか、ヴァルトハイムの刺客が来るか……運試しだな」
そう言い残し、男は雑踏に消えていった。
エリックは一人、カウンターに残された。
「404号室……ゴースト……」
彼はグラスの中の液体を見つめた。
これは希望なのか。それとも、さらなる絶望への入り口なのか。
しかし――選択肢は、もうこれしかないように思えた。
(……やってみるしかない)
エリックは決意を固めた。
家族を守るためなら、悪魔だろうと亡霊だろうと取引してやる。
彼は酒場を出て、ネオンの海の中から古びたホテルの看板を探し始めた――。
■
「……はい、首尾は上々です」
エリックが去った後。
情報屋は耳元のインプラントに触れ、誰かと通信していた。
「ええ、伝えましたよ。『404号室』の話を。ターゲットはおそらく餌に食いつくでしょう」
「……はいはい。それじゃまたよろしく――ヴァルトハイムさん」
サクラでしたか……




