【依頼人】理由なき拷問
その部屋は、監獄というより解体工場のようだった。
壁は防音仕様の金属パネルで覆われ、床には正体不明の液体が染みついた排水溝が走っている。
天井のLEDパネルが放つ冷たい無影灯のような光が、部屋の隅々まで無慈悲に照らし出していた。
循環している空気は低温で、薬品の匂いが混じっている。
肺を満たすたびに、内側から凍えるようだった。
「目的は何だ!? 金か!? ぞ、臓器か!? 何でもくれてやる……だから家族だけは解放してくれ!」
エリックが獣のように吼える。
「金〜? ああ、そうか。君たち下層区の民にとって、行動原理は常に生存と利益だったね〜。理由を求めるのは自然なことだ」
ヴァルトハイムは心底面白そうに首を傾げた。
「なぜ、こんなことをするのか……か〜」
彼は一歩近づき、その氷のような瞳でエリックの網膜をスキャンするように覗き込んだ。
「理由などない。強いて言うなら、私の知的好奇心を満たすため、かな〜」
「な、にを言って……!?」
「君たちは特別じゃない。特別悪いこともしていなければ、良い事をしたわけでもない。何万といるイースト区のサンプルから、無作為に抽出されただけ〜。運が悪かったのさ〜」
その言葉に、エリックの思考が停止した。
「……なんだと……?」
「私は『観測』が好きなんだ〜。極限状況下で、ヒトが苦しむ。それを間近で観測するのは何よりの娯楽でね〜」
「貴様……!」
エリックが怒りに任せて拳を振り上げた瞬間、背後にいた黒服の男の腕が鋼鉄の万力のように彼を拘束した。
「がっ!」
サイバネティクス強化された腕による圧倒的な力。
エリックは大人と子供のような力の差で床に叩きつけられ、肩の骨が軋む音を聞いた。
「パパ!」
「主人に手を出さないで!」
アンナが泣き叫ぶ。
ヴァルトハイムは彼女を一瞥し、興味深そうに子供たちへ視線を移した。
「さて〜。それじゃあ本格的にお遊びを開始しよう〜。まずは……この娘からいってみようかな〜」
彼の指が、リーナを指した。
「いやあああっ!」
アンナは反射的に娘を胸に抱きしめ、盾になろうとする。
「お願いです、私に! 私の身体を、好きにしてください……! この子たちには未来があるのよ!」
「ダメだよ〜。未来を壊すからいいんじゃないか〜。手順は厳格に守らないと〜」
ヴァルトハイムが顎でくいと指示すると、黒服たちが動き出した。
「連れて行け〜」
「やめろ! 俺にしろ! 俺を連れて行けええっ!」
エリックが床の上で暴れるが、男の膝が背中にめり込み、呼吸すらままならない。
もう一人の男が、アンナの腕からリーナを引き剥がした。
「ママ! 離して、ママああっ!」
「リーナ! 私の子に触らないで! お願いよぉ……!」
アンナの悲痛な叫びが、防音壁に虚しく響く。
リーナは激しく抵抗したが、その小さな体はまるで人形のように扱われ、泣き叫びながら隣の部屋へと続く扉の向こうへ消えていった。
「娘を返せ! 返せええっ!」
エリックは床に爪を立てながら、必死に手を伸ばす。
だが、重い金属扉が容赦なく閉ざされ、ロックが掛かる重低音が響いた。
「さて〜。準備に少し時間がかかるから〜、ゆっくり待っていてくれたまえ〜」
ヴァルトハイムは舞台の袖に下がる俳優のように優雅に手を振り、部屋を出ていった。
残されたのは、エリック、アンナ、そして恐怖に震えるオスカーの三人。
「リーナ……私の、リーナ……」
アンナは床に崩れ落ち、泣きながら娘の名を呼び続けた。
「ママ……お姉ちゃん、どこに行っちゃったの……?」
オスカーもまた、泣きながら尋ねる。
アンナは答えられなかった。
ただ、残された息子を、腕が砕けるほど強く抱きしめるだけだった。
エリックは拳で金属の床を叩いた。
何度も、何度も。
皮膚が裂け、血が滲んでも、痛みは感じなかった。
「くそ……くそっ……! なんなんだ……なんでこんな……!?」
時間が、拷問のように引き延ばされていく。
そして――分厚い扉の向こうから、くぐもった悲鳴が聞こえてきた。
『いやああああっ! やめて! 痛い! やめてええっ!』
リーナの声だった。
「リーナ!!」
アンナが弾かれたように立ち上がり、扉に駆け寄る。
拳で金属を叩き、叫び続ける。
「開けなさい! 娘を返して! 私を代わりに使いなさい! お願いだからあああっ!」
しかし、冷たい金属はびくともしない。
悲鳴は続いた。
何か硬いものが砕ける音。高周波の駆動音。
そして――扉の向こうから、ヴァルトハイムの感嘆の声が漏れ聞こえてきた。
『ああ〜、素晴らしい! やっぱりオッサンの悲鳴より若い子のほうがいいな。もっと聞かせておくれ』
『いやあああぁぁっ! う、ぎぃぃぃぃ……!!』
エリックは両手で耳を塞いだ。
だが、愛する娘の悲鳴は頭蓋の内側で直接鳴り響く。
「やめろ……誰か……助けてくれ……」
それは祈りだった。
この管理された都市に神などいないと知っていながら。
どれほどの時間が経ったのか。
三十分か、それとも一時間か。
――やがて、悲鳴が途切れた。
完全な静寂。
それが何よりも恐ろしかった。
「リー……」
気密ロックが解除される音がして、扉が開く。
黒服の男が、ぐったりとしたリーナを無造作に抱えて入ってきた。
「リーナ!」
アンナが転がるように駆け寄る。
男はリーナを、まるで壊れた部品のように床に捨てた。
彼女の体には、無数の電極の痕が赤く腫れ上がっていた。
左腕はありえない角度に曲がり、顔には火傷の痕。
汚れた服は裂け、か細い呼吸に合わせて胸がかすかに上下しているだけだった。
「リーナ……リーナ……!」
アンナが娘を抱き上げる。医療技師としての知識が、その処置の非道さを物語っていた。
「しっかりして! ママよ! ここにいるから……っ!」
リーナの瞼がけいれんするように開き、虚ろな瞳が母を捉えた。
唇が震え、か細い声が漏れる。
「ママ……や……痛いのは、いや……」
「ああ……あああ! リーナ……!!」
アンナは娘を胸に抱きしめ、声を殺して泣いた。
エリックもまた、這うように娘のそばへ寄り、その小さな手を握る。
氷のように冷たく、小刻みに震えていた。
「パパが……守れなくて……すまない……」
エリックの目から、熱い涙が止めどなく溢れた。
そこへ――ヴァルトハイムがデータパッドを片手に、満足げな表情で戻ってきた。
「いや〜、実に素晴らしかったよ〜。仕事でやる拷問もいいけど、趣味でやる拷問もまた格別だね〜」
彼は純粋な趣味人のように笑っている。
人の命を、尊厳を踏みにじることが、彼にとっては純粋な娯楽でしかないのだ。
「貴様……! この悪魔がぁっ!」
エリックが憎悪を滾らせて立ち上がり、ヴァルトハイムに飛びかかろうとした。
だが、再び黒服の男に阻まれる。
「くそっ……お前を殺す……八つ裂きにして、その肉をドブに捨ててやる……!」
「おやおや、怖いね〜」
ヴァルトハイムは嘲笑うようにエリックの顔を覗き込んだ。
「そんなこと言うなら、次は……」
彼の視線が、母親の腕の中で震えるオスカーに向けられた。
「この子の番だ〜。弟のデータも取らないと、比較対照できないからね〜」
「あ――ああああああああ!!」
「やめろ! もうやめてくれええっ!」
エリックとアンナの絶叫が重なる。
しかし、黒服の男は容赦なくアンナからオスカーを引き剥がした。
「いやだ! いやだよぉ! パパ! ママぁ!」
オスカーが泣き叫びながら、小さな手足をばたつかせる。
「オスカー! 私の息子を返せ! 返せええっ!」
エリックの抵抗も空しく、オスカーもまた、地獄の扉の向こうへと連れ去られていった。
そして――再び、悪夢が始まった。
■
それから数日間、ヴァルトハイムの「お遊び」は続いた。
子供たちは交互に連れ去られ、そのたびに新たな傷と恐怖を刻み込まれて戻ってきた。
両親は為す術もなく、ただ壊れていく我が子を見ているしかなかった。
三日目の夜。
ヴァルトハイムは、今度はエリックとアンナを部屋の中央に向かい合わせに座らせた。
壁際には、意識が朦朧とした子供たちが拘束されている。
「さて〜。今日は少し趣向を変えようかと思ってね〜」
ヴァルトハイムは優雅に椅子に腰かけ、家族という名の標本を観察した。
「……何を、する、気だ」
喉が枯れたエリックが死人のような声で呟く。
「簡単なことだよ〜」
ヴァルトハイムは心から楽しそうに笑った。
「エリック。君が今から、その手で妻を殴るんだ〜。私が満足するまでね〜」
「……何を、言っている……」
「聞こえなかったかな〜? 殴れと言ったんだ〜。さもなくば……」
ヴァルトハイムは立ち上がり、リーナのそばへ行くと、その折れた腕に指をかけた。
「この子の腕の骨を、もう一度、今度は逆方向に折ることになるが〜」
「ひ、いぃ……!」
「やめろ!」
「なら殴れ。愛情の証明だよ〜。簡単だろう〜?」
エリックはアンナを見た。
彼女は血の気の失せた顔で、涙を流しながら、かすかに頷いた。
「……いいのよ、あなた。私を殴って」
「アンナ……そんなこと、できるはずが……」
「リーナを……! あの子をこれ以上苦しませないで……お願い……」
エリックの手が、まるで自分の意志とは無関係に震え始めた。
拳を握りしめ、愛する妻の顔に向ける。
できない。できるはずがない。人間である限り。夫である限り。
「おっと、時間は有限だよ〜。私の忍耐もね〜」
ヴァルトハイムがリーナの腕に力を込める。
「いやあああっ! パパ! パパぁ!」
「……すまない」
エリックは目を固く閉じ、獣のように叫びながら拳を振り下ろした。
鈍い音と、肉の潰れる感触。
アンナの体がぐらりと傾ぐ。
「アンナ!」
エリックは妻を抱き起こした。彼女の唇の端から、赤い血が流れていた。
「大丈夫……あなた……大丈夫よ……」
アンナは震える手で、夫の手を握った。
「素晴らしい」
ヴァルトハイムはスタンディングオベーションを送った。
「愛する者を守るために、愛する者を傷つける……。このネオ・アルカディアで純粋な家族愛なんて貴重品だからね〜。思わぬ拾い物をしたよ!」
彼は恍惚の表情で、涙を拭う仕草をした。
「では次はアンナの番だ〜。その夫を、愛する子供たちの前で殴りたまえ〜」
そうして、地獄の選択は夜が更けるまで続いた。
家族の絆はヴァルトハイムの目の前で、少しずつ、確実に引き裂かれていった。
■
四日目の朝。
ヴァルトハイムは満足げに部屋を後にした。
「ふう〜、実に有意義な時間だった〜。流石にそろそろ仕事に戻るとしよう〜」
彼が去り、部屋には壊れた家族だけが残された。
エリックとアンナは、ボロボロの体で子供たちを抱きしめていた。
リーナとオスカーは、もう泣くこともなく、ただ虚ろな目で宙を見つめている。
「……すまない」
エリックが囁いた。
「俺が……何もかも……」
「あなたの、せいじゃない……わ」
アンナが夫の手を握る。その手もまた、夫を殴ったせいで腫れ上がっていた。
「……このままじゃ、俺たち……」
その時、廊下から黒服の男たちの声が聞こえてきた。
「総帥は休憩に入られた。交代だ。次のシフトが来るまでここは無人になる」
「了解した。注意しておこう」
重い足音が遠ざかっていく。
……エリックは耳を澄ませた。
静寂。ありえないほどの静寂。
(罠か? それとも――)
彼は最後の力を振り絞り、這うように扉に近づいた。
ドアハンドルに手をかける。回す。
カチャリと軽い音を立てて、ロックが外れた。
「……嘘だろ」
エリックは信じられない思いで、隙間から廊下を覗き見る。
誰もいない。監視カメラのレンズも、こちらを向いていなかった。
「アンナ……今しかない……逃げるぞ!」
せめて何か聞け




