【依頼人】平和は崩れるもの
イースト区、中級居住ブロック。
ドーム天井の人工太陽が夕暮れモードに移行し、調整されたオレンジ色の光が気密窓から差し込んでいた。
ヨハンソン家のダイニングテーブルには、四人分の食事が並んでいる。
3Dプリントされた培養肉のステーキ、閉鎖型プラントで栽培された野菜サラダ、合成タンパク質のスープ。
イースト区の中級家庭としては、栄養バランスの取れた上等な食卓だった。
「いただきます!」
五歳のオスカーが元気よく手を合わせた。
向かいに座る八歳の姉リーナが、その無邪気な仕草に微笑む。
「オスカー、パパが席に着くまで待つのよ」
母親のアンナ・ヨハンソンが優しく諭した。
三十二歳の彼女は医療技師として、イースト区のクリニックに勤務している。衛生コートを脱いだ今は、ただの優しい母親だった。
「はーい」
オスカーは素直に頷いた。
父親のエリック・ヨハンソンが、仕事用の携帯端末をテーブルの端に置きながら席に着く。
三十四歳のエンジニアである彼は、この区画の環境制御システムの保守を担っていた。
「今日も疲れた……」
エリックが呟くと、アンナが心配そうに見つめる。
「大丈夫? 最近、過重労働が続いているわね」
「ああ、セクター7の生命維持ラインが老朽化していてね。旧世代の規格だからもう代替パーツもない……けど、君たちの顔を見れば疲れも吹き飛ぶさ」
エリックは妻に微笑みかけた。
そして、娘と息子の顔を見る。二人とも、この管理社会の中では奇跡なくらい健康で明るい。
「よし、みんな揃ったな。いただきます」
「「いただきます!」」
四人の声が重なり、夕食が始まった。
フォークとナイフがセラミックの皿に当たる音。子供たちの屈託のない笑い声。
何気ない会話が、フィルターで濾過された空気で満たされた部屋を暖めていく。
「ねえパパ、今日ね、学校のダイブ学習で古い記録を見たの」
リーナが興奮した様子で話し始めた。
「ほう、どんな記録だ?」
「アーカイブにある『旧世界』の環境データよ。ネオ・アルカディアができるずっと前の地球。……『海』っていう、どこまでも水が広がっている場所とか、『森』っていう緑の植物が空を覆う場所とか……すごく綺麗だった」
「そうか。リーナは将来、環境構築デザイナーにでもなるのか?」
エリックが娘の頭を撫でる。
「うん! パパみたいに、この都市を守る仕事がしたいな」
「立派な志だな」
エリックの胸に、温かいものが広がった。
自分の仕事が、娘の希望に繋がっている。これ以上の幸福があるだろうか。
「ぼくもぼくも!」
オスカーが勢いよく手を挙げた。
「オスカーは何になりたいの?」
アンナが優しく尋ねる。
「えっとね……大きいロボットを作る人!」
「サイバネティクス技師か。パパと同じだな」
「うん! パパみたいにかっこよくなりたい!」
オスカーの無垢な笑顔に、エリックは目を細めた。
「なら、しっかり基礎を勉強しないとな」
「はーい!」
食事が進む中、アンナが夫の手に自分の手を重ねた。
「あなた、いつもありがとう」
「何がだ?」
「私たちの未来のために、頑張ってくれて」
アンナの目には、深い愛情が宿っていた。
「君と子供たちがいるから、俺は頑張れるんだ」
エリックは妻の手を強く握り返した。
二人の子供は、両親の様子を見て顔を見合わせ、クスクスと笑っている。
ネオ・アルカディアという閉鎖都市の中で、彼らはささやかな幸福を築いていた。
決して裕福ではない。セントラル区の特権階級のような贅沢は望めない。
それでも、家族がいて、笑顔があって、明日への希望がある。
(これ以上、何を望むというのだろう)
食事が終わると、エリックはリーナの学習プログラムを手伝い始めた。
「パパ、この計算が解けない……」
リーナが端末のスクリーンを指差す。
そこには、複雑な制御用数式が表示されていた。
「ああ、これは軌道計算の応用だな。まず、この変数を再定義して……」
エリックが丁寧に解説していく。
リーナは真剣な表情で、父親の言葉に耳を傾けていた。
その間、アンナはオスカーに電子絵本を読み聞かせていた。
「むかしむかし、このドームが天を覆う前、世界はどこまでも続いていました……」
旧世界の物語を記録したデータ。
まだ人類が汚染されていない大地の上で暮らしていた頃の話だ。
「ママ、『そと』って本当にあったの?」
オスカーが不思議そうに尋ねる。
「ええ。とても広くて、空は本物の青で……『風』っていう、制御されていない空気が肌を撫でたんですって」
「かぜ……?」
「そう。空気が自然に動くの。ここの循環システムとは違うのよ」
「わあ……すごいね!」
オスカーの目が輝いた。
「いつか、ぼくたちも『そと』に出られる?」
「……そうね。いつかきっと……。あなたたちの世代が、壁の向こうへ行くのかも」
アンナは祈るように息子の頭を撫でた。
それが叶わぬ夢だと知っていても、希望だけは与えてあげたかった。
時間が、穏やかに流れていく。
リーナが課題を終え、オスカーが眠そうに目をこすり始める頃、アンナが立ち上がった。
「さあ、寝る時間よ」
「え〜、もうちょっとだけ遊びたい〜」
オスカーが不満を漏らすが、アンナは笑顔で首を横に振る。
「だめ。明日の勉強に影響するでしょ?」
「はーい……」
子供たちは渋々ながらも、自室へと向かった。
エリックとアンナは二人を寝かしつけ、それぞれの額にキスをする。
「おやすみ、リーナ、オスカー」
「おやすみ、パパ。ママ」
子供たちの健やかな寝息が聞こえ始めると、二人は静かに部屋を出た。
リビングに戻り、エリックはソファに深く体を沈めた。
「ふう……」
「本当にお疲れ様」
アンナが隣に座り、夫の肩に頭を預ける。
「幸せだな、俺は」
エリックが噛みしめるように呟いた。
「この日常が、一日でも長く続けばいい」
アンナは静かに夫の手を握った。
人工照明が、ナイトモードへと照度を落としていく。
巨大なドーム都市が、ゆっくりと眠りについていく。
二人はしばらく、無言で寄り添っていた。
言葉はなくても、互いの温もりが全てを語っていた。
「……明日も、頑張るか」
「ええ。私たちの未来のために」
それはありふれた夜だった。
特別なことは何もない、ただの日常の反復。
しかし――それが、彼らにとって最後の穏やかな夜になるとは、誰も知る由もなかった。
■
深夜。午前二時三十七分。
ヨハンソン家のユニットは静寂に包まれていた。
リビングの照明は落ち、寝室からは規則正しい寝息が聞こえるだけ。
その静寂を、金属が断裂する轟音が引き裂いた。
――バリバリバリッ!
玄関の強化プラスチック製のドアが、蝶番ごと内側へ吹き飛んだ。
紙くずのように砕け散り、壁に突き刺さる。
「!?」
エリックが叩き起こされた。
隣で寝ていたアンナも、恐怖に目を見開く。
「な、何なの……!?」
「わからない……! アンナ、子供たちのそばに!」
エリックはベッドから転がり落ち、子供部屋へ駆け出そうとした。
だが――その前に、黒い人影が寝室の入り口を塞いだ。
「…………」
八人の男たち。
全員が都市保安局の物とは違う、特殊繊維の黒いタクティカルスーツに身を包んでいる。
顔に表情はなく、その目は赤外線スコープのように冷たく光っていた。
「何者だ!? 保安局か!? ここは居住ブロックだぞ!」
エリックが叫ぶ。
男たちは答えない。
無機質で統制の取れた動きで、エリックを包囲する。
「包囲完了」
「く、来るな! それ以上近づいたら……!」
エリックは近くにあった充電スタンドを掴み、武器として構えた。
だが――男の一人が、音もなく間合いを詰め、エリックの腕を掴んだ。
尋常ではない握力。まるで油圧アームに締め上げられたかのようだ。何らかの武装用インプラント。
「ぐっ……ぁっ!」
次の瞬間、別の男の肘がエリックの鳩尾にめり込んだ。
「がはっ……!」
「あなた!?」
エリックは床に崩れ落ちる。
肺から空気がすべて絞り出され、視界が赤く染まった。
「やめて! やめてください! この人は何もしていません!」
アンナが悲鳴を上げ、夫に駆け寄ろうと男たちに飛びかかった。
しかし、彼女もまた赤子の手をひねるように取り押さえられる。
男の一人が、アンナの腕を背後で捻り上げ、壁に押し付けた。
「痛っ……痛い! 離して!」
「ママ!?」
「パパ……!?」
子供部屋から、リーナとオスカーの声が聞こえた。
二人は恐怖で泣きながら、リビングに飛び出してくる。
「パパ……ママ……!? そ、その人たち、だれ……」
リーナが震える声で呼びかけた。
「来るな! リーナ、オスカーを連れて窓から逃げろ! 早く!」
エリックが床から必死に叫ぶ。
だが、男たちは既に子供たちへと動き出していた。
「いやああああっ!」
リーナの絶叫が響く。
「お姉ちゃん! ママぁ!」
オスカーが泣き叫ぶ。
男たちは容赦なく、二人の小さな体を捕まえた。
まるで物のように、軽々と持ち上げる。
「離せ! 子供たちに触るな! 離せえええっ!」
エリックが床を這い、必死に手を伸ばす。
だが、その背中を男のブーツが踏みつけた。
骨が軋むほどの重圧。動けない。
「お願いです……! 何でもしますから、子供たちだけは……!この子たちは何も悪いことはしていませんから!」
アンナが泣きながら懇願する。
男たちは一切反応しない。
ただ無表情のまま、プログラムされた通りに家族全員を拘束していく。
「はい。……はい、確保しました。それでは輸送します」
エリックの両手に、冷たい金属の感触。
電磁ロック式の拘束具が手首にはめられた。
「くそ……なんだってんだ……くそっ……!」
エリックは歯を食いしばった。
悔しさと無力感が、思考を焼き尽くす。
家族を守れない。
目の前に、愛すべき家族がいるのに。
男たちは家族全員を、壊れた機械部品のように運び始めた。
「やめろ! やめてくれ! 俺のことはどうにでもしろ! だから家族には、子供たちには手を出すな!」
エリックの絶叫は、吸音材の壁に虚しく吸い込まれていく。
「パパ! パパぁ!」
「ママぁ! 怖いよぉ!」
子供たちの泣き声が遠ざかっていく。
一家は外に連れ出された。
居住ブロックの薄暗い通りに、窓のない黒い装甲バンが二台停車している。
男たちは家族をバンに押し込んだ。
エリックとアンナは一台目に、リーナとオスカーは二台目に。
「いや! パパ、ママぁ!」
リーナが激しく抵抗し、オスカーは泣きじゃくるばかり。
重いスライドドアが閉まり、エンジンが静かに起動する。
窓はない。ただ、車内のモニターに外の景色が映し出されていた。
近隣住居のセンサーライトがいくつか点灯したが、すぐに消えた。窓のカーテンが開く気配もない。
ネオ・アルカディアでは、他人の悲鳴は聞かないのが生存の知恵だった。
バンは音もなく走り出した。
イースト区の工場地帯を抜け、やがてセントラル区へと続く検問ゲートを警告音も鳴らさずに通過していく。
車内で、エリックは必死に思考を巡らせていた。
――なぜ、俺たちが?
――法を犯した覚えはない。特定の思想に与したこともない。
――ただ、この都市の歯車として、真面目に生きてきただけだ。
理由がわからない。
その事実が、何よりも恐ろしかった。
アンナは隣で、声を殺して嗚咽していた。
エリックは拘束された手で、必死に妻の手を探った。
指先が触れ合い、二人は力一杯握り合った。
■
やがて装甲バンが停止し、ドアが開くと同時に無慈悲な力で引きずり出された。
一家が連れ込まれたのは、無機質な地下施設の一室だった。
床は継ぎ目のないポリマーコンクリートで、ひんやりとした感触が足元から伝わってくる。
壁には配線ダクトが剥き出しになっており、低く唸るような換気システムの駆動音と、消毒液に似た薬品臭が空気を満たしていた。
リーナとオスカーはアンナに必死にしがみつき、怯えた目で周囲を見回している。
エリックは妻と子供たちを庇うように、わずかに身を乗り出していた。
やがて部屋の奥にある気密扉の方から、硬質な床を叩く革靴の音が響いてきた。
それは黒服の男たちのブーツの音とは明らかに違う、悠然としたリズムを刻んでいた。
気密扉が、静かにスライドして開く。
現れたのは、上質なシルクと合成繊維で仕立てられたスーツを纏った五十代半ばの男だった。
不自然なほど若々しい肌、遺伝子調整を受けたであろう整った顔立ち。
その唇には優雅で残酷な笑みが浮かんでいる。
「やあやあ〜〜。ようこそ、ヨハンソン家の諸君〜。私のプライベートラボへ」
男はまるで旧知の友人を迎えるかのように両手を広げた。
その声は人工声帯を使っているかのように滑らかで、感情が乗っていなかった。
「あ、あんた……何者だ!? 我々が何をしたというんだ!」
エリックは恐怖を押し殺し、絞り出すように叫んだ。
男はエリックの敵意をまるで心地よい音楽のように受け止め、芝居がかった仕草で一礼した。
「おっと、自己紹介がまだだったね〜。私の名は――レオン・ヴァルトハイム」
その名前を聞いた瞬間、エリックの全身から血の気が引いた。
「このネオ・アルカディアのささやかなる支配者の一人……とでも名乗っておこうかな〜」
お前かい!!




