【依頼人】虐待と考察
礼拝堂は息を呑むほどに完璧で冷たかった。
高い天井を支える純白の列柱。
床に敷き詰められた継ぎ目のない大理石。
壁一面のステンドグラスは天然石ではなく、光の角度を精密に計算された合成水晶だろう。
そこから差し込む光は、神々しいというよりは外科手術のライトのように、隅々まで空間を照らし出していた。
前方の祭壇には、鈍い銀色の光を放つ巨大な十字架が掲げられている。チタン合金製か。
その下に、教祖エリアスが聖人のような微笑を浮かべて立っていた。
カーバンクルともう一人の少年ケンは、他の子供たちと共に整列させられていた。
三十人以上いるだろうか。五歳から十五歳ほどまで年齢は様々だが、全員が同じ質素な白い衣をまとい、胸の前で手を組んでいる。
誰も話さない。微動だにしない。瞬きすら控えめだ。
訓練された人形の軍隊。その虚ろな瞳は、エリアスを見つめているようで、その実、何も見ていなかった。
カーバンクルは網膜に映る光景を冷静に分析する。
壁際に立つ職員たち。シスター・マグダレナ、ブラザー・トム、そして数人の灰色の制服。
彼らの立ち位置は、逃走経路を塞ぐように計算されている。
その視線は慈愛に満ちた見守りなどではない。獲物を見定める檻の番人そのものだ。
「愛しき我が子らよ」
エリアスの声が、音響装置を通して礼拝堂の隅々にまで染み渡った。
深く穏やかで、聞く者の心を揺さぶるバリトン。
「今日、二人の迷える子羊が、我らの群れに加わりました」
彼の慈愛に満ちた視線が、カーバンクルとケンを射抜く。
「カーラとケン。彼らは穢れた外の世界で傷つき、苦しみ、救いを求めて荒野を彷徨っていました」
エリアスがゆっくりと両腕を広げる。その仕草一つで、場の空気が震えた。
「しかし、大いなる羊飼いは彼らを見捨てなかった。その御手が、この安息の地『エデン』へと二人を導かれたのです」
子供たちは無表情のままだった。拍手も、歓迎の囁きもない。
「では、洗礼の儀を始めましょう」
エリアスが指を鳴らすと、二人の職員が恭しく白い盆を運んできた。
一つには水が満たされた銀の杯。
もう一つには、真新しいリネンの布と、聖油の入った小さな水晶の瓶。
「カーラ、前へ」
カーバンクルは従順を装い、一歩前に出た。大理石の床が、裸足の裏にひやりと冷たい。
エリアスが彼女の前に跪き、その顔を覗き込んだ。
「あなたはこれまで、多くの罪をその小さな肩で背負って生きてきました」
声は囁くように静かだが、マイクがその響きを増幅させる。
「生まれながらの原罪。親から受け継いだ血の罪。そして、この堕落した世界で、生きるために犯してきた数多の罪」
彼は銀の杯に指を浸し、その冷たい滴をカーバンクルの額に触れさせた。水が顔を伝い、顎へと落ちる。
「しかし今日、そのすべてが洗い流されるのです。父なる神の、無限の愛によって!」
エリアスはリネンの布で優しく額を拭うと、今度は水晶の瓶を手に取った。
甘く、少し薬草のような香りが鼻をつく。
「この聖油は、神の恵みの証。あなたは清められ、過去の苦しみも、魂を苛む悲しみも、すべて忘れます。主の腕の中で、あなたは新しく生まれるのです」
粘り気のある油が額に塗られる。不快な感触だった。
「今日から、あなたは神の子。このエデンの園に住まう、穢れなき者」
エリアスは立ち上がり、そっとカーバンクルの肩に手を置いた。その感触は温かいのに、なぜか肌が粟立った。
「さあ、告白なさい。あなたの罪を、この場で吐き出しなさい。そうすれば、すべてが赦される」
「――」
カーバンクルは一瞬、呼吸を止めた。
この儀式の本質を、彼女は正確に理解していた。
支配のための精神的プロセスだ。自らの口で「罪」を告白させることで、拭い難い罪悪感を刻み込む。
そして「神の赦し」という麻薬を与えることで、絶対的な依存関係を築き上げる。古典的な洗脳の手法だ。
そう、頭ではわかっているのに。
――その瞬間、脳内の防壁が決壊した。
彼女の頭の中を埋める、百人を超える人間の記憶が、奔流となって押し寄せる。
硝煙と血反吐の匂いがこびりついた戦場。拷問器具の軋む音と、相手の骨が砕ける感触。
愛する家族の亡骸を前に、復讐を誓った暗殺者の凍てつくような憎悪。
彼らの苦痛。彼らの絶望。彼らの怒り。
そして――彼らが犯した、夥しい数の罪。
何十人、何百人もの命を奪った、その瞬間の記憶がこびりつく。
引き金を引く指の感触。ナイフが肉を断つ音。消えゆく命の最後の輝き。
そのすべてが、カーバンクルという器の中に澱のように溜まっている。
「……こんな儀式じゃ、贖えない」
絞り出すような声が、己の口から漏れた。
「――何?」
エリアスの眉が、わずかにひそめられる。
「今、何と言いましたか?」
カーバンクルはゆっくりと顔を上げた。真紅の瞳がエリアスを真っ直ぐに見据える。
「こんなもので、私の罪は贖えない」
礼拝堂の空気が、ピンと張り詰めた。
人形のようだった子供たちの視線が、初めて生命の色を宿してカーバンクルに突き刺さる。
職員たちの間に、狼狽のさざ波が広がった。
エリアスの聖人のような微笑に亀裂が走る。
「カーラ……あなたは何を言って――」
「この程度の水で、こびりついた血の匂いは消えない。この安っぽい油で、魂の罪は拭えない。……馬鹿げてる」
カーバンクルの声は、刃のように冷たく研ぎ澄まされていた。もう子供を演じてはいなかった。
「人を殺した罪はどうやって贖う? 心を壊した罪は? 奪った命はどうやって返す?」
シスター・マグダレナがヒステリックな声を上げた。
「だ……黙りなさい! 神への冒涜です!」
「神なんていない」
カーバンクルの瞳が、照明を反射して妖しく光る。
「この世界にあるのは罪と罰だけ。そしてすべてに罰を与えることで、ようやく私の罪は赦される……」
一瞬の、耳が痛くなるほどの静寂。
やがてエリアスが、きしむような音を立ててゆっくりと立ち上がった。
彼の顔から、完璧な微笑は跡形もなく消え失せている。
そこにあるのは、信仰という名の威を汚された支配者の怒りと困惑だった。
「……悪魔が、憑いているのですね」
地を這うような低い声が響いた。
「この子には、特別な教育が必要です。シスター、ブラザー・ヨハンを」
マグダレナはこわばった顔で頷き、耳元の通信機に囁いた。
数秒後、礼拝堂の奥の扉が重々しく開く。
現れたのは、強化骨格を埋め込んでいるのか、歩くたびに床を微かに震わせる大男だった。
剃り上げた頭、感情を読み取らせない無表情、灰色の分厚い作業服。
ブラザー・ヨハン。施設の「汚れ仕事」を担当する男だ。始末する対象のうちの一人。
(……しくじった)
カーバンクルは内心で舌打ちした。感情の制御に失敗した。この茶番があまりに軽薄で、耐えられなかった。
「この子を『浄化の部屋』へ連れて行きなさい」
「……へい」
エリアスの声は、氷のように冷たい命令だった。
ヨハンが機械的な動きで近づいてくる。
カーバンクルは抵抗できた。この男の腕を瞬時にへし折り、エリアスの喉を掻き切ることも可能だ。
(……けど、まだ。この施設の全容を把握してない)
彼女は再びか弱い子供の仮面を被った。
ヨハンの巨大な手が、万力のように腕を掴む。
「っ、い、痛い……」
か細い声で呟き、怯えたように顔を歪める。
「ご、ごめんなさい……私、変なこと……」
「もう遅いわ!」
マグダレナが吐き捨てた。
「悪魔の言葉を吐いたその口で、神の沈黙を学びなさい!」
カーバンクルは引きずられるようにして、礼拝堂を後にした。
子供たちは誰一人、声を上げなかった。彼らはただ虚ろな目で、彼女が連れ去られるのを見ているだけだった。
■
地下へと続く階段は、カビと湿気の匂いがした。
ヨハンはカーバンクルの腕を掴んだまま、無言でコンクリートの段を降りていく。
背後からは、マグダレナの硬い靴音がついてくる。
「初日から問題を起こすとは。本当に救いようのない子ね」
マグダレナの声が、狭い空間に冷たく反響する。
「あなたのような子は時々いるの。外の世界の毒に、魂の芯まで侵された子がね」
階段を降りきると、長い廊下が伸びていた。
薄暗い照明が、両側に並ぶ重い金属製の扉を不気味に照らし出している。消毒液の刺激臭が鼻を刺した。
「でも、大丈夫」
マグダレナは初めて笑みを見せた。
「ここで、あなたは正しく生まれ変わるの。神の本当の愛が、どれほど厳しいものかを理解するのよ」
ヨハンが一つの扉の前で止まり、認証パネルに手首をかざしてロックを解除した。
中は、眩暈がするほどの純白の部屋だった。
壁も、床も、天井も、すべてが光を吸収しない滑らかな素材で覆われている。
窓もなければ、家具もない。部屋の中央に、拘束具のついた小さな椅子が一つ、ぽつんと置かれているだけだ。
「座りなさい」
「……っ」
ヨハンがカーバンクルを乱暴に部屋へ押し込んだ。
カーバンクルは椅子に座らされる。
「二十四時間、ここで過ごすのよ」
マグダレナが扉の縁に立ち、宣告した。
「食事も水も与えません。ただひたすらに、己の罪の深さと向き合い、神の赦しを乞いなさい」
彼女は扉に手をかけた。
「明日の今頃、また来ます。その時、あなたが神の愛を受け入れる準備ができたか聞かせてもらうわ」
重い金属の扉が閉まる。完全な防音仕様なのだろう、外の音が一切遮断された。
最後に、電子ロックが作動する重低音が響いた。
完全な静寂と、目に痛いほどの白。
カーバンクルは、深く息を吐き出した。
「……はぁ。何でこんなことしてるんだろう」
小さく呟く。あの三人をその場で殺して、適当に仕事を終えることもできたはずなのに。
依頼人の姿を思い出す。逃げることを拒み、子どもたちを助けたいと語った彼の姿を。
「――しばらく寝よう」
■
二十四時間が経過した。
重い金属の扉が気密を破る音を立てて開く。
カーバンクルは拘束椅子に座ったまま、虚ろな目で正面の壁を見つめていた。
完璧な演技だ。飢えと渇き、そして完全な孤独によって精神の耗弱した子供を装う。
「立ちなさい」
シスター・マグダレナの、氷のような声。
カーバンクルはわざと関節をきしませるように、ゆっくりと立ち上がった。
計算通りに足元をふらつかせる。
「どうかしら? 神と、そしてあなた自身の罪と向き合う時間は、十分にありましたか?」
マグダレナは腕を組み、品定めするような目でカーバンクルを見下ろしている。
「……はい」
「神の愛の深さと、その厳しさを、理解した?」
「……はい」
カーバンクルは小さく、しかし深く頷いた。
その完全な服従の様に、マグダレナは満足げに唇の端を吊り上げた。
「よろしい。良い子です。では、案内してあげましょう。あなたがこれから永遠に住まうことになる、新しい家をね」
■
廊下に出ると、壁のスピーカーから賛美歌が流れていた。合成音声による単調なメロディー。
それはむしろ、精神をすり減らすための環境音のように響いていた。
「まずは食堂へ」
マグダレナが先導し、カーバンクルはその数歩後ろを従順についていく。
長い廊下の壁には、磨き上げられたプレートが等間隔に並んでいる。
『労働は祈り』
『沈黙は美徳』
『服従は愛』
『疑いは罪』
やがて、巨大な鋼鉄の扉の前に着いた。
マグダレナが認証パネルに手をかざすと、扉が静かに横にスライドする。
中はだだっ広い食堂だった。
長いテーブルが何列も並び、子供たちが整然と座っている。
テーブルの上には、金属の皿に乗せられた灰色のペースト。
栄養素を化学的に合成しただけの、味も香りもない、生命維持のための飼料だ。
「食事は午前七時、正午、午後六時の三回。時間厳守です。一分でも遅れた者には罰が与えられます」
カーバンクルの視線が、食堂の内部をスキャンする。
子供たちは誰も言葉を発しない。笑顔もない。
まるでプログラムされた機械のように、ただスプーンを口に運んでいる。
その時――一人の少年が、わずかに手を震わせ、ペーストを一滴、床にこぼした。
「あ……!」
瞬間、壁際に立っていた職員が音もなく駆け寄った。
「七番!」
番号で呼ばれた少年が、ビクリと体を硬直させる。
次の瞬間、職員は少年の椅子を荒々しく引き倒した。
「ぎゃっ!」
痩せた体が床に叩きつけられる。七歳くらいだろうか。その小さな体は、恐怖で小刻みに震えていた。
「神の恵みを汚すな!」
職員は少年の髪を鷲掴みにすると、その顔を床にこぼれたペーストに押し付けた。
「舐めろ。床の埃ごと、一滴残らずその舌で味わえ」
「ひ……ひぃっ……」
少年は声もなく嗚咽しながら、床を舐め始めた。
周囲の子供たちは、誰一人としてそちらを見ない。誰も助けない。
ただ、一層慎重に食事を続ける。この光景は、彼らにとっての日常なのだ。
「ご覧なさい」
マグダレナが、恍惚とした表情で囁いた。
「規律こそが魂を浄化するのです。神の恵みを無駄にする傲慢な魂には、こうして痛みが必要なのよ」
彼女は満足げに頷くと、踵を返した。
■
次は労働エリアだった。機械油と汗、そして絶望が染みついた空気が澱んでいる。
広いコンクリートの空間に、旧世代の製造機械が唸りを上げて並んでいた。布を織る機械、電子部品を組み立てる作業台。
子供たちが、無言で作業に没頭している。
「ここで生産された製品は、我々の活動資金となります」
マグダレナの声には誇りが滲んでいた。
「労働は祈りそのもの。この手で神への感謝と貢献を示すのです。なんと素晴らしいことでしょう」
カーバンクルの視線が、一台の織機に釘付けになった。
十一歳ほどの少女が、血のにじむ手で糸を紡いでいる。
指の爪は剥がれ、関節は赤黒く腫れ上がっていた。
機械の針が、何度も彼女の指先を突き刺しているのだ。
「……っ……!」
少女は涙を瞳に溜めながらも、作業を止めない。
監督役の職員が、静電警棒を手にゆっくりと巡回している。
時折、手の動きが鈍った子供の背中を、警棒の先で軽く突く。
「効率が落ちているぞ、二十三番。神への感謝が足りないのではないか?」
低い声が響き、子供の体がビクッと跳ねた。
「彼らは一日八時間、休憩なしで労働します。それ以外の時間は、学習と祈りに捧げられます」
マグダレナは次の部屋へとカーバンクルを誘った。
■
「最後に、あなたの寝室を見せてあげましょう」
女子寮は二階にあった。
二段ベッドが隙間なく並ぶ、息の詰まるような部屋。十二人の少女たちがここで眠るのだ。
「消灯は午後11時。起床は午前5時」
マグダレナが規則を読み上げる。
「トイレの使用は、指定された時間以外は許可制です。もちろん、扉はありません。隠し事は悪魔を育てますからね」
ベッドとベッドの間は、人がやっと横向きに通れる程度。プライバシーなどという概念は、この施設には存在しない。
天井の隅では、監視カメラの赤いランプが冷たく点滅していた。
「何か質問は?」
マグダレナがカーバンクルの顔を覗き込んだ。
「……ありません」
「良い子」
マグダレナはカーバンクルの頭を撫でた。その手は冷たく乾いていた。
「あなたは賢い。ここのルールをすぐに理解した。きっと、誰よりも早く神の愛に満たされるでしょう」
彼女は階段へと歩き出す。
「今夜からあなたもここで眠りなさい。もし誰かが夜中に泣いていたり、故郷の話をするような子がいたら、すぐに私に教えるのですよ。それが本当に『仲良くする』ということです。互いの罪を監視し、正しき道へ導き合うのが家族の務めですから」
カーバンクルは、人形のようにこくりと頷いた。
心の中では、今見たすべての光景をマップと共に記録している。
食堂での虐待。工場での搾取。寝室での監視と密告の奨励。
(同じ虐待を与える……いや、大人と子供とでは感覚が違う。もしくは精神的な攻撃……うーん、どうしようかな)
起きた事象と、行われた罪。それに対してふさわしい罰。
カーバンクルは従順なフリをしながら、あらゆるパターンを思考していた……。




