【依頼人】逃亡奴隷の過去
待ち合わせ場所の路地裏に着いた時、カイは30分も遅刻していた。
データの運び屋にとって、それは致命的な遅延だ。
「おいおい、カイ。お前さんらしくもねえ。遅刻なんて初めてじゃねえか?」
錆びついたコンテナの前で、一人の男が腕を組んで立っていた。
レックス。
40代半ばの、神経質そうに痩せた男。サウスとウエストを行き来する違法な情報ブローカーだ。
カイに時々、足のつく危険の少ない仕事を紹介してくれる、数少ない「知り合い」だった。
「すみません、レックスさん。途中で……ちょっと」
カイは謝罪したが、言葉が続かない。
頭の中はあの白い布教センターと、少女の不安げな瞳でいっぱいだった。
「まあいいさ。今日のブツは急ぎだったんでな。もう別のランナーに回した」
レックスは合成タバコの先端を指で弾いて起動させ、紫色の煙を吸い込んだ。
「それよりお前、顔色が死人みたいだぜ。何かヤバいもんにでも手を出したか?」
「……いえ、別に」
「嘘をつくのが下手すぎるな、お前」
レックスは煙を吐き出し、カイの顔をじろりと見た。
「俺はお前のそのツラを3年見てる。そんなオバケでも見たような顔は初めてだ」
カイは何も答えられない。言葉が、喉の奥で鉄の塊のように固まっていた。
レックスは短く舌打ちすると、コンテナの壁に寄りかかる。
「まあ、無理に聞き出す趣味はねえよ。この街の人間は誰だって墓の一つや二つ、背負って生きてるもんだ」
彼は紫煙の向こうに、ドーム天井に投影された偽の曇り空を見上げた。
「だがな、カイ。お前さん、このままじゃ長くはねえぞ」
「……どういう、意味です?」
「見りゃわかる。お前はいつも何かに怯えてる。過去の傷か、見えない未来か知らねえが――そういう常に背後を気にするような奴はな、いつか前から来たトラックに轢かれるんだ」
カイは黙って俯いた。図星だった。
「一人で抱え込むな。その重荷は、いつかお前の背骨をへし折るぞ」
カイは唇を噛んだ。話したい。だが、何から? どうやって?
(……俺は、9年間カルト施設で家畜のように育てられた? ……妹分を見捨てて一人で逃げた? その施設が、今も子供たちを食い物にしている?)
誰が信じる? 誰が助けてくれる?
この街では他人の絶望は娯楽か、そうでなければただのノイズだ。
「……無理なんです」
カイの声は、錆びた金属が擦れるように掠れていた。
「警察に駆け込んでも、データが足りないと言われた。企業の人権団体に訴えても、門前払いだ。あの施設――エデン・コミューンは、セントラル区の権力者と繋がってる。俺みたいな底辺が何を言っても、握り潰されるだけなんです」
「エデン・コミューン、だと……?」
レックスの表情が、初めて険しくなった。
「おい、カイ。お前、あの施設の出身か?」
「知ってるんですか?」
「噂だけだがな」
レックスは新しいタバコを取り出したが、火はつけずに指先で弄んでいる。
「表向きは最新のメンタルヘルスケア施設。だが裏では、入信者を洗脳して全財産を巻き上げるカルトだろ? 『入ったら最後、魂までしゃぶり尽くされる』って話だ」
「その通りです……」
カイは左腕の焼印を、服の上から無意識に強く擦った。
「俺は……5年前に逃げ出しました。でも、まだ大勢の子供が中にいる。今日、新しい子が連れ込まれるのを見た。……俺は、何もできなかった」
「そりゃ無理だ。お前一人じゃな」
レックスは吐き捨てるように言った。
「相手がセントラルの連中ならなおさらだ。奴らは、俺たちの命なんてチップ一枚より安いと思ってやがる」
「わかってます……だから、俺は……」
沈黙が、路地裏の淀んだ空気に重くのしかかる。
遠くから、ウエスト区の喧騒が聞こえてくる。
この街は何事もなかったかのように動き続けている。
その日常の裏で、子供たちの時間が止められている。
「……一つだけ、可能性があるかもしれねえ」
不意に、レックスが口を開いた。
「え?」
「ただの噂だ。この街に流れる無数の都市伝説の一つだ。信じるか信じないかは、お前さん次第だがな」
彼は周囲に視線を走らせ、声を潜めた。
「『404号室』って聞いたことあるか?」
カイは首を横に振った。
「どこにも存在しない部屋。だが、本当に追い詰められた人間が予約すると現れるらしい。そしてそこには、始末屋が待っている」
「始末屋……? 殺し屋ですか?」
「ああ。だが、ただの殺し屋じゃねえ。どんな権力者だろうと、どんなに厳重なセキュリティだろうと突破する――怪物だそうだ」
カイは眉をひそめた。あまりに荒唐無稽な話だった。
「本当に、そんな人間が……?」
「さあな。俺も直接会ったわけじゃねえ」
レックスはようやくタバコに火をつけた。
「だが昔馴染みのハッカーが、死ぬ間際に漏らしたことがある。セントラル区の悪徳企業の役員が、あり得ない状況で『事故死』した事件があった。公式発表じゃただの事故だが、奴は言ってたよ。『404号室の仕事だ』ってな」
「……でも、どうやって予約を? 404なんて欠番のホテルも多いでしょう?」
ネオ・アルカディアのホテルでは、演技の悪さや視認性の悪さなどから「404」の部屋を作っていないホテルも多いと聞く。
「そこがミソだ。どのホテルでもいいらしい。サウス区の安宿でも、ここの連れ込みホテルでもな。本当に切羽詰まった人間が、本気で『404号室』を求めると――そのホテルのシステムに、一瞬だけ、その部屋が存在するようになるらしい」
カイが信じられないという顔をすると、レックスは苦笑した。
「だから都市伝説だって言ったろ。だがな、カイ。この街の常識なんてプログラムみたいなもんだ。時々バグも起きるし、裏口もある」
彼は懐からデータチップを取り出し、カイに手渡した。
「サウス区の安宿のリストだ。俺が昔、隠れ家に使ってた場所もある。セキュリティはガバガバだが、その分、面倒な詮索もされねえ」
「……」
「使うかどうかは、お前が決めろ。だが、一つだけ覚えとけ」
レックスは、鉄の義手でカイの肩を掴んだ。冷たい感触が服越しに伝わる。
「始末屋を雇うってことは、誰かの死を願うってことだ。その引き金を引く覚悟があるのか、自分の心によく聞きな」
カイはチップを強く握りしめた。プラスチックの角が手のひらに食い込む。
「……ありがとうございます」
「礼なんていい。……お前、死ぬなよ」
レックスはそう言うと、背を向けて路地の闇に消えていった。
一人残されたカイは、手の中のチップを見つめた。
この小さな記憶媒体に、最後の希望があるのかもしれない。あるいは、さらなる絶望への入り口か。
彼は布教センターの方角を睨んだ。あの白い建物が、この街の病巣のように見えた。
ルナ。
名前も知らない子供たち。
今日、あの門をくぐった少女。
「……もう、誰かを見捨てたくない」
カイは決意を固めた。
たとえ都市伝説だろうと、悪魔との契約だろうと構わない。
もし本当に、あの地獄を終わらせる力があるのなら――。
■
サウス区の「ラスト・ステイ・ホテル」は、レックスのデータチップにあった中で最も安い宿だった。
外壁の合成コンクリートは剥がれ落ち、看板のネオン管は蜘蛛の巣のように割れている。
自動ドアはとうに機能を停止し、こじ開けられたまま固定されていた。
ロビーには消毒液の匂いと、排水管から逆流する汚泥の悪臭が混じり合って漂っている。
「404号室を。予約させてください」
店主の男はカイの顔を、値踏みするようにじろじろと観察した。
その視線が、カイの服の袖から覗く左腕の皮膚に刻まれた焼印で止まる。
「……本気で言ってるのか、ガキ」
「はい」
男は長く濁った息を吐き、コンソールの下にある物理ロックのキャビネットをこじ開けた。
中から、埃をかぶった一枚のカードキーを取り出す。
キーには、確かに「404」と刻まれていた。
「料金は後でいい。というか、俺は何も受け取ってねえ」
男はカードキーをカウンターに滑らせた。
「エレベーターはとっくにスクラップだ。階段で4階まで上がれ。一番奥の部屋だ」
「ありがとうございます……」
カイがキーに手を伸ばした瞬間、男に手首を強く掴まれた。
「一つだけ言っとく」
男の目は、先ほどまでとは別人のように真剣だった。
「その部屋で何が起きても、俺はあんたを見てないし、声も聞いてない。警察が来ようが、コーポの連中が来ようが、今夜ここに泊まった客の記録は存在しない。わかったな?」
カイは無言で頷いた。
階段は、人が乗るたびに崩壊を予告するような悲鳴を上げた。
一段ずつ慎重に上りながら、カイは自分の決断を反芻する。
(本当にこれでいいのか? 都市伝説に賭けるなんて、正気の沙汰じゃない)
だが、他にどんな道があった?
5年前、脱出してすぐに警察に駆け込んだ時は、「証拠不十分。あなたの精神は不安定だ」と精神科医に回された。
企業のコンプライアンス部門に匿名で通報しても、「宗教活動の自由」という盾の前では無力だった。
人権団体も、エデン・コミューンの背後にいる大企業の名前を聞いた途端、手のひらを返した。
権力。クレジット。コネクション。
ファーザー・エリアスは、その全てを持っていた。
4階に着くと、薄暗く長い廊下が伸びていた。
照明は瀕死の蛍のように点滅し、壁紙は湿気で膨れ上がっている。その一番奥に、ドアが一つだけあった。
「404」
震える手でカードキーをリーダーに翳す。
認証エラーを示す赤いランプが一瞬点灯し、すぐに緑に変わった。電子ロックが、重い音を立てて開く。
部屋は、意外にも清潔だった。
簡素なベッド、小さなテーブル、椅子が一つ。
窓の外にはサウス区の混沌とした夜景が、ノイズの多いホログラムのように広がっている。
カイは部屋に入り、背後のドアを閉めた。
そして――ただ、待った。
■
壁のデジタル時計が午前2時を告げた瞬間、それは起きた。
予兆はなかった。突然、部屋の空気が凍りついた。
「……っ!? 寒……!?」
カイは椅子から弾かれたように立ち上がった。
窓は閉まっている。空調ユニットは、とっくに機能を停止している。なのに、やけに寒い。
そして――窓際に、人影があった。
カイは息を呑んだ。さっきまで、そこには誰もいなかった。
淡い水色の髪。オーバーサイズの白いパーカー。小柄な体躯。
そして――赤い瞳。
部屋に差し込むネオンの光を反射して、その瞳が非人間的に輝いている。
「だ、誰だ……いつの間に……!?」
カイの声は震え、歯の根が合わなかった。寒さのせいだけではない。
その中性的な子供は無表情のまま、静かに口を開いた。
「404号室を予約したのはあなた?」
その声は冷たく、感情の起伏がなかった。
「……ああ、そうだ」
「依頼内容は?」
カイは混乱していた。この少女が?
この、まだ10代半ばにしか見えない子供が、噂のフィクサー?
「あの……君が……」
「私はカーバンクル。404号室の怪物」
少女――カーバンクルは、音もなく一歩近づいた。
「時間は有限だよ。早く話して。……誰を始末したいの?」
カイは唾を飲み込んだ。ここまで来たのだ。もう後戻りはできない。
「エデン・コミューンっていう宗教施設がある」
「ああ……知ってる。ウエスト区とサウス区の境界。セントラルの大企業がバックについてる、最新鋭のメンタルヘルスケア施設……だっけ」
「表向きはな。だがその内側では……子供たちを虐待し、洗脳し、搾取している」
カーバンクルは無表情のまま、カイを見つめている。赤い瞳は、瞬き一つしない。
「……なぜ、そんなことを知ってるの?」
「俺も、そこの出身だからだ」
カイは左腕の袖を捲り、焼印を晒した。
「5歳から14歳まで、9年間。そこは、俺にとっての地獄だった」
カーバンクルの赤い瞳が、一瞬だけ焼印に向けられた。だが、表情は変わらない。
「順番に話して」
カイは頷き、震える足で椅子に座り直した。カーバンクルはベッドの端に腰掛ける。
「俺の母親は……ウエスト区で違法なVRドラッグに溺れた。現実を捨て、仮想空間の住人になったんだ。そこに、エデン・コミューンの勧誘員が現れた。『心の救済』を謳ってな」
「それで母親が入信……。あなたも一緒に?」
「ああ。5歳の時だ。最初は……そこが天国に見えた。職員は優しく、ファーザー・エリアスは本物の聖人みたいだった。温かい食事も、清潔なベッドもあったからな」
カーバンクルは話を聞きつつ、続きを促すように首を傾げた。
「……けど半年後、母親が『神の元へ召された』と告げられた。……死んだんだ」
カイの声が震えた。
「そこから、奴らの本性が見え始めた。俺たち親を失った子供は『神の子』と呼ばれ、施設に縛り付けられた。『原罪を贖う』必要がある、と」
「……罪を贖う?」
「虐待だよ」
カイは顔を上げた。その目は暗く淀み、過去を見つめている。
「毎朝5時起床。栄養価しかないペースト状の食事。長時間労働。そして――『贖罪の儀式』だ。鞭打ちとか監禁とか、電気ショック……」
カーバンクルは、ただ静かに聞いていた。
「逃げようとした奴は、見せしめに拷問された。俺も……友達が目の前で壊されていくのを見た」
カイは目を固く閉じた。脳裏に浮かぶのは、そんな地獄の中の優しい記憶だ。
「施設には、ルナって女の子がいてさ。俺より2歳下で、7歳の時に施設に来たんだ。母親はすぐに死んで、彼女は一人ぼっちになった」
「あなたの友達?」
「ああ……妹みたいなもんだった」
カイは微かに笑った。
「俺たちはみんな番号で呼ばれてた。俺は『3番』、ルナは『12番』。でも、二人だけの時は名前で呼び合った。それが、唯一の人間らしさだったんだ」
「……それで、あなたは14歳で脱出した」
「ああ。古い通風口を見つけてな。……だが、ルナは連れていけなかった。
俺一人しか通れない狭さだった。追手が迫る中、俺は……俺だけが逃げた」
沈黙が痛いほど部屋に満ちる。
「それから5年、俺はサウス区で死人のように生きてきた。警察にも企業にも訴えたけど、全部無駄だった。エリアスには権力があった。誰も動いてくれなかった」
「……よくあることだね」
「だが今日、ウエスト区で布教活動を見たんだ! 新しい子供が連れ込まれるのを。俺と同じように、ルナと同じように――あの地獄に、連れて行かれる……!」
「……それで、私に何を望むの?」
「あ、ああ……子供たちを、全員助け出してほしい!」
その言葉に、カーバンクルは目を閉じる。
初めて、微かに首を横に振った。
「残念だね――その依頼は、受けられない」
カーバンクルさんなんで!!??




