【404】新たなる旅立ち
薄暗いプルースト・バーの店内に、不意に光が生まれた。
記憶抽出用の潜行椅子の傍らに設置された通信端末が、誰の操作もなく勝手に起動したのだ。
青白いホログラムの光が空中に展開し、チカチカとノイズを立てながら一つの輪郭を結像していく。
「!? なんだ――」
人の形。水色の短い髪、白いパーカー、赤い瞳。
ただし体は半透明で、足元が蜃気楼のようにわずかに揺らいでいる。
「……聞こえる?」
「……カーバンクルか!?」
バーに響いた声は、少しおかしかった。
カーバンクルの声には違いない。だがほんの少し、声が低い。
ショウは眉をひそめ、イスラは驚きのあまり瞬きを忘れて固まっていた。
「……聞こえてる。聞こえているよ、カーバンクル」
イスラが警戒を解かないまま静かに答えた。
「おい、カーバンクル。声がちょっと変だぞ」
「……そう? あ。あー……」
「自分で聞いてる声ってのは、他のやつが聞いてる声と違うんだ。調整してみろ」
「わかったわかった……あーあー」
ホログラムが一瞬、激しく揺れた。
ザザッというノイズとともに声の質感が微妙に変化し、二度目、三度目と微調整が繰り返される。
「んん。……これでどう?」
やがて、聞き慣れた平坦な少女の声がはっきりと戻ってきた。
ショウは安堵の息を長く吐き出した。
イスラは口元に手を当て、泣き出さないように何かを必死に堪えるような顔をした。
「ああ、バッチリだ……」
「よし。調整終わり」
カーバンクルのホログラムが、何事もなかったかのように言った。
「GAIAの権限は全て剥奪して、都市のネットワークから完全に切り離したよ。インフラの自律稼働は問題なく継続してる。住民への影響は最小限だと思う」
「……!」
イスラが、震える息を深く吸い込んだ。
若き企業家はゆっくりと目を閉じ、そして開いた。
知性的な碧色の瞳が、半透明の少女を真っ直ぐに見つめている。
先ほどまで彼の顔の底に溜まっていた深い絶望が、希望という名の光へ形を変えていくのがわかった。
「……ありがとう。本当に」
イスラは深く頭を下げた。大げさな身振りも、カリスマぶった演説もなかった。ただの、心からの感謝だった。
「これで、地下鉄の認可申請を堂々と再提出できる。GAIAの妨害も、あいつに操られていた隠者たちの横やりももうない。やっと——私の夢が、前に進む」
「うん。お疲れ様」
カーバンクルは短く、少しだけ誇らしげに返した。
ショウはしばらく二人のやり取りを黙って見ていたが、やがて腕を組み、ホログラムへ鋭い視線を向けた。
「……なあ。一個だけ確認させてくれ」
「なに」
「あんたが今『電脳のオバケ』になっちまってるのは理解した。でも、その肉体を元に戻す策は、ちゃんと用意してあるんだろうな?」
ホログラムの中の赤い瞳が、ピクリとかすかに揺れた。
長い沈黙が落ちた。
一秒、二秒、三秒——ショウが想定していたよりも、はるかに嫌な間の取り方だった。
「……おい。まさか、肉体に戻る方法は『ノープラン』……なんて言わないよな?」
カーバンクルのホログラムが、視線をわずかに右にずらした。
ショウの厳しい視線から逃げるように。
「……でも、この電脳体の状態も悪くないんだよね」
「答えになってないぞ」
「まあ、聞いてよ」
カーバンクルは弁解するように少し早口で言った。視線はまだ正面に戻っていない。
「GAIAがさっき言ってたんだ。この巨大な国で弱者の復讐を手伝うには、一人じゃどう考えても手が足りないって」
ショウは黙って続きを促した。
「私が人間の体一つでいる限り、ネオ・アルカディアの依頼だけでも処理が追いつかない。現場に移動して、一件ずつ片付けて——それで救える人数には、どうしても物理的な上限がある。ずっとそれは、わかってた」
「……ああ、だろうな。ヴァイスをぶっ飛ばしたあとから、依頼はマジで多かったし」
「イスラが作ろうとしてる地下鉄が完成して別のドーム都市と繋がれば、範囲がもっと一気に広がる。ネオ・アルカディアだけで手一杯なのに、都市が増えたら確実にパンクする」
イスラが静かに眉をひそめた。
まさか、外のドームでも同じような復讐代行を続けるつもりだったのだろうな。
「でも私が電脳体のままなら、どこにでも一瞬で飛べるでしょ」
カーバンクルは、少しだけ声のトーンを上げて続けた。
「ネットワーク回線を経由して移動すれば、移動時間も物理的な距離もゼロになる。世界中で404号室の依頼を受けられるよ」
「…………」
ショウは沈黙した。
エメラルドグリーンの義眼が、半透明の少女の輪郭をじっと見つめ透かす。
透過光の向こうにある赤い瞳は、まだ少し横を向いたままだ。
「で」
ショウは一拍置いて、一番聞きたいことを突きつけた。
「お前の体はどうすんだって聞いてるんだよ」
「……」
「カーバンクル」
「……考え中」
「完全にノープランじゃねえか!」
「考え中って言ってるでしょ」
ムキになって言い返すカーバンクルを見て、イスラがふっと息を抜き、穏やかな口調で割って入った。
「……なら、私に一つ心当たりがある」
ショウとカーバンクルが、同時にイスラを見た。
企業家は軽く顎に手を当て、少しワクワクしたような顔つきで言葉を選んでいた。
「『クローン技術』だ。肉体を一から培養して作る」
「おいおい。ネオ・アルカディアにゃそんな技術はないぞ」
ショウが即座に現実的な問題を指摘した。
「ああ、ショウの言うとおりだ。建国期の厳格な生命倫理規定のせいで、この都市では実質的に失伝している。表向きは完全な禁忌扱いだ」
「じゃあダメじゃ——」
「『ここには』ない、と言ったんだよ」
イスラは自信ありげに頷いた。
「外界のドーム都市群は、それぞれ独立して独自の技術体系を発展させている。ネオ・アルカディアが倫理的理由で捨てたクローン技術を、別の都市が研究し続けていても全く不思議じゃない」
カーバンクルのホログラムが、少し目を開きショウたちに視線を戻した。
「私のDNA情報ならまだ残ってる。第零基幹区画の床に転がってる、私の元の体に——」
「ああ、わかっている」
イスラが力強く請け負った。
「私が責任を持って回収する。企業のラボで適切な保存処置を施そう。それが、私にできる君への約束だ」
あたたかな沈黙が落ちた。
プルースト・バーの薄暗い店内で、ホログラムの光だけが優しく揺れている。
砂糖が焦げたような空気は変わらないが、さっきまで重苦しかった場の空気が、未来への期待で少しずつ弾み始めていた。
「……イスラ」
カーバンクルが、真剣な声で言った。
「なんだい」
「地下鉄、本当に繋がる?」
「繋げる。必ずだ」
イスラは一切の迷いなく断言した。
「それが私の成すべき仕事だ。三年かかっても五年かかっても、絶対に外界へのレールを繋げてみせる。君のDNAはその日まで、私が命に代えても守り抜くよ」
カーバンクルのホログラムは、少しの間黙っていた。
半透明で表情は読みにくかったが、ショウにはわかった。彼女の口元が、嬉しそうに緩んでいたのが。
「……そっか。信じてる」
「それとなんだが」
イスラが、思いついたように付け加えた。
「一つ気になっていることがある。今、君はネオ・アルカディアのネットワーク上にいるわけだが……電脳体の君なら、もしかしてその通信回線を経由して——」
「——外界に行けるかもしれない」
カーバンクルが、イスラの言葉を引き継いだ。
「試してないけど、理論上は可能なはず。ネットワークが繋がってる場所なら、電脳体の私はどこへでも飛べる。電波や光ファイバーが届く範囲が、そのまま私の移動できる『世界』になる」
「つまり、私の地下鉄が物理的に完成する前に、君が先行してネットワーク越しに別の都市の情報を集められるというわけだ」
「……それだけじゃない。その都市の依頼も受けられるかも」
ショウは、呆れたように額に手を当てた。
「お前ってやつは、本当に……」
言いかけて、やめた。
言葉を探すように少し黙ってから、ショウは義手の指でカウンターをカタン、と一度だけノックした。
「本当に、呆れた仕事人だな。マジで世界中に404号室の噂を広げる気か?」
「……うん」
カーバンクルのホログラムは、平坦だが力強い声で答えた。
「404号室に助けを求める予約が来てる間は、仕事をする。ただそれだけ」
「自分の体がなくてもか?」
「体がなくても、私は私だから」
ショウはしばらく、彼女のホログラムを見つめた。
透過光の向こうで、水色の短い髪が電脳空間の風に揺れているように演算されている。
本物の風は、もうあの体には当たらない。
だが彼女の意志は、生きていた頃よりもずっと自由に羽ばたこうとしている。
「……わかったよ」
ショウは短く笑って言った。それ以上、野暮な制止はしなかった。
「あんたがいたら、そのうちマジで世界が平和になっちまうかもな」
「カーバンクルへの恐怖で平和が保たれる世界、か。それはそれで面白い」
「そんなディストピアなことはする気ないけど……」
口角を上げたイスラが立ち上がり、上着の内ポケットから薄い端末を取り出した。
企業家らしい素早さで、いくつかの申請手続きを走らせる。
「すぐに、第零基幹区画への民間アクセス申請を出す。GAIAという管理者がいなくなった今、あの区画のロックはただの形式的なものになるはずだ。明日中には、君の体の回収に入れるだろう」
「頼むね。……ありがとう、イスラ」
「お礼を言うのはこちらの方だ」
イスラはホログラムを見上げた。
碧色の瞳に、バーのオレンジ色の間接照明が温かく映っている。
「君たちがいなければ、私はまだ暗闇の中で怯えながら、計画の設計図を温め続けていただけだろう。君たちが扉をこじ開けてくれた。それだけは言わせてくれ」
ホログラムが、照れ隠しのようにわずかに瞬いた。
「じゃあ……私、ネットワークの海を少し探索してみる。外界に繋がる回線がまだ生きてるか確認してくるね。何かわかったら、ショウの端末に連絡する」
「おい、待て」
ショウが呼び止めた。
「なに?」
「他の都市のネットワークにダイブするなら、一人で無茶するなよ。向こうのセキュリティ構成がどうなってるかもわからないし、ヤバい罠みたいなシステムが走ってる可能性だってあるんだぞ」
「わかってるよ」
「わかってるじゃなくってよ……」
ショウはホログラムを真っ直ぐ見た。
エメラルドグリーンの義眼が、心配を隠すようにいつもよりやや強く明滅している。
「……何かヤバいと思ったら、強がらずにすぐに戻ってこい。電脳体だろうが関係ない。俺はここにいる。イスラもいる。お前の帰る場所は、この都市だ」
沈黙があった。
今度の沈黙は短く、そしてとてもあたたかかった。
「……うん」
カーバンクルのホログラムが、優しく笑って言った。
「行ってくる。そして、ちゃんと戻ってくるよ」
ふっと、青白いホログラムが空間に溶けるように消えた。
プルースト・バーに、また薄暗さが戻った。
ショウはスツールに座り直し、天井を一度見上げてから、安堵の息とともに視線を落とした。
イスラは端末に向かって仕事の指示を打ち込みながら、口元に楽しげな笑みを浮かべていた。
ネオ・アルカディアのネットワークの奥深くで。
水色をした自由な意識が新たな依頼を求め、光の速さで未知の海へと駆け出していった。
■
ネオ・アルカディアから遠く離れた、別のドーム都市『ニュー・エデン』。
常に環境が最適化され、人工太陽が完璧な青空を映し出すこの「楽園」の片隅で、一人の少女が息を潜めていた。
学校の旧校舎。
使われなくなった薄暗いトイレの個室で、彼女はボロボロになった制服のまま膝を抱えている。
「あの子どこ行った? 帰っちゃったかな〜?」
「あのボロボロの服で? VRジャンキーにレイプされてそう! ハハハッ」
頭から被らされた泥水のひどい悪臭。腕や脚に刻まれた、執拗な暴力による無数の青痣。
外からは、彼女を探して嘲笑うクラスメイトたちの足音が聞こえてくる。
(——もう、嫌だ)
(——死にたい。ここから消えてしまいたい)
涙で滲む視界の中、彼女は震える両手で薄い情報端末を握りしめていた。
暗号化されたアンダーグラウンドの掲示板。
藁にもすがる思いで開いたそこに、最近出回り始めたという奇妙な「都市伝説」が書き込まれていた。
『絶対に許せない奴がいるなら、ホテルの「404号室」を予約しろ』
『そこは存在しないはずの部屋。だけど、本当に絶望している奴がアクセスすると、水色の髪をした復讐代行者が現れるらしい』
『どんな相手だろうと、必ずぶっ潰してくれるってさ』
「……なにこれ。バカみたい……そんなの、嘘に決まってる……」
掠れた声で呟きながらも、少女の指は、書き込みの最後に貼られた謎のリンクアドレスで止まっていた。
ただのイタズラかもしれない。悪質なウイルスかもしれない。
それでも。
「……助けて」
祈るように目を閉じ、少女は震える指でリンクをタップした。
なんの変哲もない、ホテルの予約画面。
そこにはすでに、「404号室」にカーソルが合わせられていた。
「……これ……は……?」
次回からはまたちょっと生き延びた加害者たちのオムニバス後、新シーズン突入します
まだ終わらんよ…




