【断罪】フラッギング
グラント・キャピタル本社ビル、地下訓練場の奥。
普段は資材置き場として使われている窓のない小部屋。
「てめ……ぇら」
フレデリック・グラントは、パイプ椅子に縛りつけられていた。
ダークグレーのスーツは血と泥にまみれ、原形をとどめていない。
鉤鼻は折れて左に曲がり、左目は紫色に腫れ上がっている。
裂けた唇と、軍靴の跡がくっきりと刻まれた顎。
それでも意識はあった。充血した右目だけが、暗がりの中でぎらぎらと光っている。
部屋の外から、兵士たちの押し殺した議論が漏れ聞こえてきた。
「……どうすんだよ、これ」
「俺たち、オーナーをリンチしたんだぞ。シャレにならねぇ」
「だってあいつが先に手を出したから——!」
「そんなの理由になるか。俺たちは終わりだ……!」
古参のネルソン軍曹の落ち着いた声が、若い兵士たちの動揺を押さえ込もうとする。
「……落ち着け。まずは状況を整理しろ。俺たちはグラントを殺したわけじゃない。怪我をさせただけだ」
「だけって……鼻折れてますよ、軍曹」
「骨折は治る。問題はこの後だ。グラントを解放すれば、間違いなく報復される。全員クビどころじゃ済まない。かといって、このまま監禁し続けるわけにもいかない」
現場指揮官であるヘイズの声が割り込んだ。
「……グラントはクロウとも繋がっている。下手を打てば、ブラック・リヴァイアサンが今度は俺たちを始末しに来るぞ」
沈黙が降りた。誰もが八方塞がりだと気づいている。
カッとなって手を出した。その瞬間は正しいと思った。
だが熱が引いた今、残ったのは冷たい現実だけだった。
「……とにかく、頭を冷やそう。全員一旦メシでも食え。空腹で考えてもろくなことにならん」
ネルソンが提案し、反論する者はいなかった。
足音が遠ざかっていく。ドアの施錠音。
そして、完全な静寂が訪れた。
■
グラントは暗い部屋の中で、一人きりになった。
「クソ、野郎……クソが……!」
拘束を解こうと身をよじるたび、パイプ椅子の脚がコンクリートの床に擦れて不快な音を立てる。
だが兵士たちの結び方は手慣れたもので、手首の拘束はびくともしなかった。
「クソが……底辺のクソ共が……!」
腫れ上がった唇から、呪詛が漏れる。
「覚えてろ……ヘヘッ、全員クビだ……いや、クビじゃ済まさねぇ……バラバラにしてやる……家族ごと……!」
独り言が壁に反射して自分の耳に返ってくる。
みじめだった。だが怒りだけは衰えない。
怒りだけが、今のグラントを支えている唯一の柱だった。
「――?」
不意に、空気が変わった。
ドアは開いていない。足音も聞こえなかった。
だが、部屋の中に誰かがいる。
「な……」
グラントの右目が本能的に動いた。暗がりの中を探る。
部屋の奥——積み上げられたコンテナの影に、小さな人影が立っていた。
シャドウ・セキュリティの制服を着ている。
帽子を目深に被り、顔は見えない。体格が子供のように小さかった。
「……誰、だ? お前は」
グラントの声が掠れた。
「ネルソンの手下……か? 俺を見張りに来たのか? だったら伝えろ、あの禿げジジイに。お前ら全員、明日には——」
「静かにして」
声は静かだった。低く、平坦で、一切の感情が抜け落ちている。
グラントの口が止まった。
その声に、聞き覚えがなかった。明らかに自分の部下の誰とも違う。若すぎる。
人影が一歩前に出た。コンテナの影から、訓練場の非常灯の薄い光の中へ。
帽子の鍔の下から覗いたのは、赤い瞳だった。
グラントの全身が、凍りついた。
「……お前は」
「こんにちは、グラント」
カーバンクルは帽子を取った。水色の短い髪が非常灯に照らされ、淡く光る。
シャドウ・セキュリティの制服は体に合っておらず、袖が余っている。
その赤い瞳は、報告書の記述そのものだった。
「カー……バンクル……」
「うん。さっきの集会にもいたんだよ。三列目の端に」
グラントの腫れた顔が、恐怖で歪んだ。同時に理解が走った。
あの声。『安全な場所でふんぞり返ってただけだろ』——あれを言ったのは、こいつだ。
「テ……テメェが……あの声は……」
「私だよ。みんなが思っていることを、代わりに言っただけ」
カーバンクルは椅子に縛られたグラントの前にしゃがみ込んだ。
小柄な体が目線を合わせる。赤い瞳が、至近距離からグラントの右目を覗き込んだ。
「お前……何しに来た。殺すのか?」
「その前に、少し話をしてあげようかと思って」
カーバンクルは床にちょこんと座る。
まるで友人と雑談でもするような、くつろいだ姿勢だった。
「グラント。あなた、戦争の歴史って知ってる?」
「……は?」
「ドーム以前の世界の話。あなたみたいに後方で命令だけ出して、前線の兵士を使い捨てにした上官がどうなったか、知ってる?」
グラントは答えなかった。カーバンクルは構わず続けた。
「昔の戦争で——ベトナム戦争って呼ばれてた紛争の時に、『フラッギング』っていう言葉が生まれた。
破片手榴弾のことをフラグって呼ぶんだけど、前線の兵士たちが夜中に、自分の上官のテントに手榴弾を投げ込んで殺す行為のこと」
「……!」
「記録に残っているだけで数百件あった。弾丸だと証拠が残るから、誰のか分かりづらい手榴弾が主に使われたんだって」
グラントは黙っている。腫れた顔のまま、赤い瞳を睨みつけている。
「原因はいつも同じだった。安全な場所にいる上官が、前線の兵士の命を軽く扱った。無意味な作戦を命じ、部下が死んでも数字としか見なかった。
……兵士たちは最初は従ったんだよ。命令だから。でも仲間が死に続けて、上官だけがのうのうと生きている。その怒りが限界を超えた時、兵士は敵じゃなくて、上官に武器を向けた」
カーバンクルは一拍置いた。
「もっと前の戦争でもあった。第一次世界大戦中のフランス軍。ニヴェル攻勢って言って、何万人もの兵士を無駄死にさせた作戦があってね。
その後、数万人の兵士が命令を拒否した。……彼らは臆病者じゃない。ただ、自分の命を紙くずみたいに扱う上官に従えなくなっただけ」
「……だから、何だ」
グラントが唸った。血の混じった唾液が顎から垂れる。
「俺に説教しに来たのかよ。テメェが煽ったからこうなったんだろうが。歴史の授業なんざ聞いてる暇は——」
「着火したのは私。でも火薬は彼らのものだった」
カーバンクルはまっすぐにグラントを見つめていた。
「私が言ったのは一言だけ。それだけで崩壊したのは、もともと壊れかけていたからだよ。あなたは兵士たちを数字としか思っていなかった。数字は文句を言わないと思っていた」
カーバンクルの赤い瞳が、ほんのわずかに細くなった。
「フラッギングをやった兵士たちは、誰にも頼まれてない。復讐屋にも依頼してない。自分たちの意思で、自分たちの手で上官を殺した。……あなたの兵士たちも、同じこと」
グラントの右目が、微かに揺れた。
「お前の、言いたいことは……」
「あなたは自分で自分の墓穴を掘ったってこと」
カーバンクルは立ち上がった。制服のポケットに手を入れ、何かを取り出す。
小さなアンプル。透明な液体が入った、医療用の何の変哲もない容器。
「……なんだ、それ……は」
グラントの声が震えた。
「神経抑制剤。即効性のもの。30秒で意識がなくなって、5分で心肺が停止する」
カーバンクルは料理のレシピを読み上げるような口調で説明した。
アンプルの先端を折り、注射器で透明な液体を吸い上げる。
「待て……待てよ。殺す気か?」
「うん」
「取引しよう! 金なら——」
「いやぁ……実はちょっと前にカジノで大勝ちしてさ。4億5000万くらい現金を持ってるんだよね」
「それはゴールドスタインから盗った金だろうがッ!!」
グラントは吠え、それから激しく咳き込んだ。
「殺すな! 頼む! 隠者たちの情報を全部渡す! アーサー・ハミルトンの——」
「いらない。情報はイスラがいずれ全部渡す……」
「じゃあ金だ! 俺の全財産を——」
「この街に必要なのは金じゃなくて、あなたがいなくなること」
カーバンクルはグラントの首筋に指を添えた。
頸動脈の位置を探る。その指はひどく冷たく、正確だった。
「聞、聞け……聞いてくれ……! 俺はイースト区の貧民街で生まれたんだ……! 素手で泥水すすって……ここまで這い上がって来たんだ……! 俺は死んでいい人間じゃない……!」
「……グラント」
カーバンクルの赤い瞳が、泣き叫ぶ男を静かに見下ろした。
「死んでいい人間なんて、一人もいない」
針が、首筋に刺さった。
「ッ——!」
冷たい液体が血管に流れ込む感覚。グラントの体が硬直し、力が抜け始める。
怒りが薄れていく。
恐怖が薄れていく。
全ての感情が遠ざかっていく。
「お……前は……」
舌が回らなくなる。視界の端から色が消えていく。
「おれの……ていこくを……」
言葉は完成しなかった。
グラントの右目が——最後まで閉じなかった充血した目が——ゆっくりと焦点を失い、虚空を見つめた。
カーバンクルは脈を確認した。徐々に弱まっていく拍動を、指先で数える。
三分後。心拍停止。
カーバンクルは注射器をポケットに戻し、針の刺し跡を確認した。
首筋のごく小さな点。リンチによる無数の外傷に紛れ、検死でも見落とすだろう。
死因は「部下によるリンチの際の外傷性ショック」として処理される。
カーバンクルの関与を示す痕跡は何もない。
拘束を解く必要はなかった。兵士たちが戻ってきた時、グラントはパイプ椅子に縛られたまま死んでいる。
リンチの後に容態が急変した——誰もがそう結論づける。
「……フレデリック・グラント」
カーバンクルは死体の前で足を止めた。
「あなたはもう、|どこにも存在しない《404 Not Found》」
声は静かだった。そこに感情はない。
カーバンクルは制服の帽子を被り直し、天井の通気ダクトに身体を滑り込ませた。
狭い金属の管を這い進み、訓練場を抜け、搬入口から外に出る。
兵士たちが戻ってくる頃には、彼女はもうこのビルに存在しない。
■
40分後。
「……軍曹。グラントが」
ドアを開けたノアの声が廊下に響いた。
ネルソンが駆けつけた時、グラントはパイプ椅子に縛られたまま頭を垂れていた。
目は半開きで焦点を失い、口元から涎が一筋垂れている。呼吸はなかった。
「脈がない。……死んでる」
ネルソンが首筋に指を当てて確認し、短く告げた。
兵士たちが集まってきた。小部屋の入り口に、20人以上の顔が重なる。
誰も声を出さなかった。長い、長い沈黙が降りた。
「……リンチの時に、内臓をやっちまったのか」
誰かが呟いた。
「こんなつもりじゃ……こ、殺すつもりなんて……」
若い兵士が青ざめた顔で後ずさった。
ヘイズが兵士たちを押し分けて入ってきた。グラントの遺体を無表情で見下ろし、首筋の脈を自分でも確かめる。
それから、部屋の中を一度だけ見回した。
天井。通気ダクトの蓋が、ごくわずかにずれていた。
ヘイズの額の傷跡が引き攣った。
だが、その表情は一瞬で消えた。
「……全員聞け」
ヘイズは振り返り、兵士たちに向かって言った。
「グラントはリンチの際の外傷が原因で死亡した。俺たち全員に責任がある。……だが、死人は生き返らない。今やるべきことは、ここから先をどうするか考えることだ」
兵士たちは黙って頷いた。
困惑と罪悪感、そしてどこか——重圧から解放された安堵が入り混じった顔をしていた。
(……間違いなく、ヤツだろうな)
再びヘイズは天井のダクトを見る。
憎んでいたはずのターゲットに、今はどこか畏敬の念すら抱いていた。
博識カーバンクルさんのお時間です
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