表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
198/219

【断罪】フラッギング

 グラント・キャピタル本社ビル、地下訓練場の奥。

 普段は資材置き場として使われている窓のない小部屋。


「てめ……ぇら」


 フレデリック・グラントは、パイプ椅子に縛りつけられていた。


 ダークグレーのスーツは血と泥にまみれ、原形をとどめていない。

 鉤鼻は折れて左に曲がり、左目は紫色に腫れ上がっている。


 裂けた唇と、軍靴の跡がくっきりと刻まれた顎。

 それでも意識はあった。充血した右目だけが、暗がりの中でぎらぎらと光っている。


 部屋の外から、兵士たちの押し殺した議論が漏れ聞こえてきた。


「……どうすんだよ、これ」

「俺たち、オーナーをリンチしたんだぞ。シャレにならねぇ」

「だってあいつが先に手を出したから——!」

「そんなの理由になるか。俺たちは終わりだ……!」


 古参のネルソン軍曹の落ち着いた声が、若い兵士たちの動揺を押さえ込もうとする。


「……落ち着け。まずは状況を整理しろ。俺たちはグラントを殺したわけじゃない。怪我をさせただけだ」

「だけって……鼻折れてますよ、軍曹」

「骨折は治る。問題はこの後だ。グラントを解放すれば、間違いなく報復される。全員クビどころじゃ済まない。かといって、このまま監禁し続けるわけにもいかない」


 現場指揮官であるヘイズの声が割り込んだ。


「……グラントはクロウとも繋がっている。下手を打てば、ブラック・リヴァイアサンが今度は俺たちを始末しに来るぞ」


 沈黙が降りた。誰もが八方塞がりだと気づいている。


 カッとなって手を出した。その瞬間は正しいと思った。

 だが熱が引いた今、残ったのは冷たい現実だけだった。


「……とにかく、頭を冷やそう。全員一旦メシでも食え。空腹で考えてもろくなことにならん」


 ネルソンが提案し、反論する者はいなかった。

 足音が遠ざかっていく。ドアの施錠音。


 そして、完全な静寂が訪れた。



 グラントは暗い部屋の中で、一人きりになった。


「クソ、野郎……クソが……!」


 拘束を解こうと身をよじるたび、パイプ椅子の脚がコンクリートの床に擦れて不快な音を立てる。

 だが兵士たちの結び方は手慣れたもので、手首の拘束はびくともしなかった。


「クソが……底辺のクソ共が……!」


 腫れ上がった唇から、呪詛が漏れる。


「覚えてろ……ヘヘッ、全員クビだ……いや、クビじゃ済まさねぇ……バラバラにしてやる……家族ごと……!」


 独り言が壁に反射して自分の耳に返ってくる。

 みじめだった。だが怒りだけは衰えない。

 怒りだけが、今のグラントを支えている唯一の柱だった。


「――?」


 不意に、空気が変わった。


 ドアは開いていない。足音も聞こえなかった。

 だが、部屋の中に誰かがいる。


「な……」


 グラントの右目が本能的に動いた。暗がりの中を探る。

 部屋の奥——積み上げられたコンテナの影に、小さな人影が立っていた。


 シャドウ・セキュリティの制服を着ている。

 帽子を目深に被り、顔は見えない。体格が子供のように小さかった。


「……誰、だ? お前は」


 グラントの声が掠れた。


「ネルソンの手下……か? 俺を見張りに来たのか? だったら伝えろ、あの禿げジジイに。お前ら全員、明日には——」

「静かにして」


 声は静かだった。低く、平坦で、一切の感情が抜け落ちている。


 グラントの口が止まった。

 その声に、聞き覚えがなかった。明らかに自分の部下の誰とも違う。若すぎる。


 人影が一歩前に出た。コンテナの影から、訓練場の非常灯の薄い光の中へ。

 帽子の鍔の下から覗いたのは、赤い瞳だった。


 グラントの全身が、凍りついた。


「……お前は」

「こんにちは、グラント」


 カーバンクルは帽子を取った。水色の短い髪が非常灯に照らされ、淡く光る。


 シャドウ・セキュリティの制服は体に合っておらず、袖が余っている。

 その赤い瞳は、報告書の記述そのものだった。


「カー……バンクル……」

「うん。さっきの集会にもいたんだよ。三列目の端に」


 グラントの腫れた顔が、恐怖で歪んだ。同時に理解が走った。

 あの声。『安全な場所でふんぞり返ってただけだろ』——あれを言ったのは、こいつだ。


「テ……テメェが……あの声は……」

「私だよ。みんなが思っていることを、代わりに言っただけ」


 カーバンクルは椅子に縛られたグラントの前にしゃがみ込んだ。

 小柄な体が目線を合わせる。赤い瞳が、至近距離からグラントの右目を覗き込んだ。


「お前……何しに来た。殺すのか?」

「その前に、少し話をしてあげようかと思って」


 カーバンクルは床にちょこんと座る。

 まるで友人と雑談でもするような、くつろいだ姿勢だった。


「グラント。あなた、戦争の歴史って知ってる?」

「……は?」

「ドーム以前の世界の話。あなたみたいに後方で命令だけ出して、前線の兵士を使い捨てにした上官がどうなったか、知ってる?」


 グラントは答えなかった。カーバンクルは構わず続けた。


「昔の戦争で——ベトナム戦争って呼ばれてた紛争の時に、『フラッギング』っていう言葉が生まれた。

 破片手榴弾のことをフラグって呼ぶんだけど、前線の兵士たちが夜中に、自分の上官のテントに手榴弾を投げ込んで殺す行為のこと」

「……!」

「記録に残っているだけで数百件あった。弾丸だと証拠が残るから、誰のか分かりづらい手榴弾が主に使われたんだって」


 グラントは黙っている。腫れた顔のまま、赤い瞳を睨みつけている。


「原因はいつも同じだった。安全な場所にいる上官が、前線の兵士の命を軽く扱った。無意味な作戦を命じ、部下が死んでも数字としか見なかった。

 ……兵士たちは最初は従ったんだよ。命令だから。でも仲間が死に続けて、上官だけがのうのうと生きている。その怒りが限界を超えた時、兵士は敵じゃなくて、上官に武器を向けた」


 カーバンクルは一拍置いた。


「もっと前の戦争でもあった。第一次世界大戦中のフランス軍。ニヴェル攻勢って言って、何万人もの兵士を無駄死にさせた作戦があってね。

 その後、数万人の兵士が命令を拒否した。……彼らは臆病者じゃない。ただ、自分の命を紙くずみたいに扱う上官に従えなくなっただけ」

「……だから、何だ」


 グラントが唸った。血の混じった唾液が顎から垂れる。


「俺に説教しに来たのかよ。テメェが煽ったからこうなったんだろうが。歴史の授業なんざ聞いてる暇は——」

「着火したのは私。でも火薬は彼らのものだった」


 カーバンクルはまっすぐにグラントを見つめていた。


「私が言ったのは一言だけ。それだけで崩壊したのは、もともと壊れかけていたからだよ。あなたは兵士たちを数字としか思っていなかった。数字は文句を言わないと思っていた」


 カーバンクルの赤い瞳が、ほんのわずかに細くなった。


「フラッギングをやった兵士たちは、誰にも頼まれてない。復讐屋にも依頼してない。自分たちの意思で、自分たちの手で上官を殺した。……あなたの兵士たちも、同じこと」


 グラントの右目が、微かに揺れた。


「お前の、言いたいことは……」

「あなたは自分で自分の墓穴を掘ったってこと」


 カーバンクルは立ち上がった。制服のポケットに手を入れ、何かを取り出す。

 小さなアンプル。透明な液体が入った、医療用の何の変哲もない容器。


「……なんだ、それ……は」


 グラントの声が震えた。


「神経抑制剤。即効性のもの。30秒で意識がなくなって、5分で心肺が停止する」


 カーバンクルは料理のレシピを読み上げるような口調で説明した。

 アンプルの先端を折り、注射器で透明な液体を吸い上げる。


「待て……待てよ。殺す気か?」

「うん」

「取引しよう! 金なら——」

「いやぁ……実はちょっと前にカジノで大勝ちしてさ。4億5000万くらい現金を持ってるんだよね」

「それはゴールドスタインから盗った金だろうがッ!!」


 グラントは吠え、それから激しく咳き込んだ。


「殺すな! 頼む! 隠者たちの情報を全部渡す! アーサー・ハミルトンの——」

「いらない。情報はイスラがいずれ全部渡す……」

「じゃあ金だ! 俺の全財産を——」

「この街に必要なのは金じゃなくて、あなたがいなくなること」


 カーバンクルはグラントの首筋に指を添えた。

 頸動脈の位置を探る。その指はひどく冷たく、正確だった。


「聞、聞け……聞いてくれ……! 俺はイースト区の貧民街で生まれたんだ……! 素手で泥水すすって……ここまで這い上がって来たんだ……! 俺は死んでいい人間じゃない……!」

「……グラント」


 カーバンクルの赤い瞳が、泣き叫ぶ男を静かに見下ろした。


「死んでいい人間なんて、一人もいない」


 針が、首筋に刺さった。


「ッ——!」


 冷たい液体が血管に流れ込む感覚。グラントの体が硬直し、力が抜け始める。


 怒りが薄れていく。

 恐怖が薄れていく。

 全ての感情が遠ざかっていく。


「お……前は……」


 舌が回らなくなる。視界の端から色が消えていく。


「おれの……ていこくを……」


 言葉は完成しなかった。

 グラントの右目が——最後まで閉じなかった充血した目が——ゆっくりと焦点を失い、虚空を見つめた。


 カーバンクルは脈を確認した。徐々に弱まっていく拍動を、指先で数える。

 三分後。心拍停止。


 カーバンクルは注射器をポケットに戻し、針の刺し跡を確認した。

 首筋のごく小さな点。リンチによる無数の外傷に紛れ、検死でも見落とすだろう。


 死因は「部下によるリンチの際の外傷性ショック」として処理される。

 カーバンクルの関与を示す痕跡は何もない。


 拘束を解く必要はなかった。兵士たちが戻ってきた時、グラントはパイプ椅子に縛られたまま死んでいる。

 リンチの後に容態が急変した——誰もがそう結論づける。


「……フレデリック・グラント」


 カーバンクルは死体の前で足を止めた。


「あなたはもう、|どこにも存在しない《404 Not Found》」


 声は静かだった。そこに感情はない。


 カーバンクルは制服の帽子を被り直し、天井の通気ダクトに身体を滑り込ませた。


 狭い金属の管を這い進み、訓練場を抜け、搬入口から外に出る。

 兵士たちが戻ってくる頃には、彼女はもうこのビルに存在しない。



 40分後。


「……軍曹。グラントが」


 ドアを開けたノアの声が廊下に響いた。

 ネルソンが駆けつけた時、グラントはパイプ椅子に縛られたまま頭を垂れていた。


 目は半開きで焦点を失い、口元から涎が一筋垂れている。呼吸はなかった。


「脈がない。……死んでる」


 ネルソンが首筋に指を当てて確認し、短く告げた。

 兵士たちが集まってきた。小部屋の入り口に、20人以上の顔が重なる。


 誰も声を出さなかった。長い、長い沈黙が降りた。


「……リンチの時に、内臓をやっちまったのか」


 誰かが呟いた。


「こんなつもりじゃ……こ、殺すつもりなんて……」


 若い兵士が青ざめた顔で後ずさった。


 ヘイズが兵士たちを押し分けて入ってきた。グラントの遺体を無表情で見下ろし、首筋の脈を自分でも確かめる。


 それから、部屋の中を一度だけ見回した。

 天井。通気ダクトの蓋が、ごくわずかにずれていた。


 ヘイズの額の傷跡が引き攣った。

 だが、その表情は一瞬で消えた。


「……全員聞け」


 ヘイズは振り返り、兵士たちに向かって言った。


「グラントはリンチの際の外傷が原因で死亡した。俺たち全員に責任がある。……だが、死人は生き返らない。今やるべきことは、ここから先をどうするか考えることだ」


 兵士たちは黙って頷いた。

 困惑と罪悪感、そしてどこか——重圧から解放された安堵が入り混じった顔をしていた。


(……間違いなく、ヤツだろうな)


 再びヘイズは天井のダクトを見る。

 憎んでいたはずのターゲットに、今はどこか畏敬の念すら抱いていた。

博識カーバンクルさんのお時間です


本作を少しでも気に入っていただけましたら、ページ上部や下部から『ブックマークに追加』をぜひよろしくお願いいたします。

作者への応援や執筆の励みになります!

また、評価は下部の星マークで行えます! ☆☆☆☆☆を★★★★★にして応援お願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ