【404】セッション、再会
最初のセッションは、息が詰まるほどの静寂の中で始まった。
マルクの頭部に神経接続インターフェースが装着される。
エリナは端末の前に座り、最初の音声データを読み込んだ。
ケヴィン・ラウの声。
『マルク、プロトタイプの実機テスト、終わったぞ』
スピーカーから流れた声に、マルクの反応はなかった。虚ろな目は天井を向いたまま。
エリナは次のデータを再生した。
スカイランナー・ロジスティクスのドローンが、イースト区の路地裏を飛行するプロペラ音。
変化なし。
「次。嗅覚刺激テスト」
マルクが好きだったという屋台の焼きそばの、調理音と匂いのデータ。
合成された香料をマルクの鼻元に近づける。
——ピコン。
脳波モニターに、ごく微かなスパイクが記録された。
「……反応あり」
エリナの声が微かに震えた。
画面を凝視する。海馬の残存領域で、0.3秒間の微弱な神経発火。すぐに消えたが、確かにそこにあった。
「嗅覚刺激に反応しました。食の記憶は原始的な領域に保存されるから、損傷を免れている可能性が高い」
エリナは匂いの刺激を維持しながら、次のデータを重ねた。
リサ・カワムラの声。
『マルク、また焼きそば? あんな化学調味料の塊のどこがいいのよ』
——ピピコン。
脳波モニターに、二度目のスパイクが走った。今度は少し長い。0.7秒。
そして——海馬の別の領域でも、連動するように微かな発火が観測された。
「二点同時発火! 断片が応答しています!」
エリナの手が汗ばんでいた。
荒唐無稽な仮説が今、目の前で現象として立ち上がろうとしている。
しかし発火はすぐに消えた。繋がりかけた断片は、再び沈黙の闇に戻る。
廊下に一瞬だけ光が差し、すぐに暗闇が戻ったようなものだった。
「……一回のセッションじゃ全然足りない。繰り返し刺激を与えて、強制的にルートを太くする必要があります」
エリナはデータを保存し、マルクの顔を見た。
虚ろな目は変わらなかった。
けれどその死の海のような脳の奥底で、何かが確かに息を吹き返し始めている。
「マルクさん」
エリナはインターフェースを外しながら、静かに語りかけた。
「明日もやりますからね。焼きそばの匂い、もう少しキツくしてみます」
返事はなかった。
けれどエリナには分かっていた。彼はまだそこにいる。
見つけられるのを、繋いでもらえるのを、暗闇の中でずっと待っている。
個室を出ると、廊下でイスラが壁に寄りかかって待っていた。
「どうだった」
「反応がありました。微弱ですが、嗅覚刺激と音声刺激の複合で、海馬の二領域が同時発火しました」
「つまり」
「道はあります。まだ細くて、すぐ消える獣道ですが」
エリナはデータパッドを胸に抱きしめた。
「毎日やります。外部データを増やして、刺激の組み合わせを最適化して、少しずつ接続を強化していく。時間はかかります。でも——」
彼女の目が、イスラを真っ直ぐに射抜いた。
「絶対に、諦めません。私が彼をこちらの世界に引っ張り上げます」
イスラは頷いた。何も言わなかった。
ただ、白いスーツのポケットに手を入れて、先に廊下を歩き始めた。
■
セッションは毎日、執拗に続けられた。
三日目、五日目、八日目。
エリナは刺激の組み合わせを変え、強度を調整し、タイミングをコンマ一秒単位で微調整しながら、マルクの脳の反応パターンを丹念にマッピングしていった。
嗅覚刺激への反応が最も強く、次いで聴覚、視覚の順。
味覚と触覚はほぼ無反応。
長期間の電気ショックと無味の餌によるダメージの表れだと、エリナは分析した。
十日目の夜。
セッション後の膨大なデータを整理していたエリナのもとに、イスラが紙コップのコーヒーを持ってきた。
「毎日遅くまでご苦労さん。倒れないようにな」
「大丈夫です。……というか、止まれないんです。データが出るたびに次の仮説が浮かんでしまって」
エリナはホログラムに表示されたマルクの脳マップを見上げた。
初日に比べ、赤い損傷部位の隙間に点在する青い光点の周辺に、微かなネットワークの兆しが見え始めている。
まだ、風が吹けば消えるような細い糸だが。
「一つ聞いていいか」
イスラがパイプ椅子を引き寄せて座った。
「君のアプローチは、要するに外部の情報を使って内側の記憶を『強制的に思い出させる』ということだ。
でも、他人の証言はあくまで他人の主観だ。マルク本人の記憶とは、微妙にズレているはずだろう。そのズレはノイズにならないのか?」
「なりません」
エリナは即答した。その声には、研究者としての絶対の確信があった。
「むしろ、そのズレこそが鍵なんです」
エリナはコーヒーの紙コップを両手で包みながら、熱を帯びた声で語った。
「というと?」
「人間は、自分がどういう人間かを、自分だけでは知ることができません。鏡がなければ自分の顔が分からないのと同じで、他者という鏡がなければ自分の輪郭は見えない。
私たちの自己認識は、常に他者との関係性の中で形作られています」
イスラは黙って、彼女の言葉の先を促した。
「ケヴィンさんが語るマルクさんと、リサさんが語るマルクさんは、少しずつ違います。
ケヴィンさんにとってマルクさんは『無茶をする相棒』で、リサさんにとっては『夢を語る経営者』。
サラさんにとっては『優しい社長』で、ジョーさんにとっては『ドローンに取り憑かれた変人』。
どれもマルクさんの一面であり、どれも完全ではない」
エリナは脳マップの光点を一つ指さした。
「でも、そういう断片的な像を脳に叩き込むと、脳は勝手に『それは自分のことだ』と反応するんです。
完全に一致しなくても、七割くらい重なれば、残りの三割を脳が自力で補完しようとする」
エリナの目が、ホログラムの青い光を反射して鋭く輝いた。
「鏡は完璧じゃなくていい。歪んでいても、曇っていても、そこに自分の姿がぼんやりと映っていれば——人は『ああ、これが自分だ』と思い出せる。
記憶も同じです。他者という不完全な鏡を通して、自分を再発見していく。それが私のアプローチです」
イスラはコーヒーを一口飲み、小さく笑った。
「……面白いね。人間は一人では自分を取り戻せない。他者が必要だ、ということか」
「はい。……それを、ある子に教えてもらいました。だからマルクさんの回復は、私一人の手柄にはなりません。彼を知っている全員の、泥臭い共同作業です」
■
14日目。
その日のセッションでは、新しい試みを行った。
ケヴィンとリサの声を、交互ではなく同時に再生する。
二人がオフィスで言い合っていた日常の会話を、可能な限り再現したものだ。
『マルク、プロトタイプの実機テスト、終わったぞ』
『まったく……何日風呂入ってないわけ、あなたたち? 臭いんだけど』
同時に、ドローンのプロペラ音と、焼きそばのジャンクな匂いと、イースト区の工場の排気音を合成した環境音を重ねる。
マルクが毎日過ごしていた空間の、感覚的な再現。
——ピピピコンッ!
脳波モニターが大きく跳ねた。
海馬の三領域で同時発火。しかも今回は、発火が消えなかった。
微弱だが、確実に持続している。
「来た! 接続が維持されています……!」
エリナは息を止めた。
三つの光点の間に、薄い光の線が伸び始めている。
死に絶えていた断片同士が、自力で手を伸ばし合っている。
そのとき。
「……か」
声がした。
エリナとイスラが同時にベッドを見た。
マルクの荒れた唇が、微かに動いていた。
虚ろだった目に、ほんの一瞬——焦点のようなものが宿った。
「か、ぜ」
砂利を擦るような、掠れた声。
一年以上使われていなかった声帯が、ぎこちなく振動している。
「かぜ……まど……あけて」
エリナの背筋を、強烈な電流が駆け抜けた。
——窓を開けて。
ケヴィンが語った証言が、脳裏に蘇る。
『あいつは、コードを書くとき必ず窓を開けてた』。
マルクの記憶が、外部の刺激に応答して浮上したのだ。
ケヴィンの声を聞いて、それに紐づいた自分自身の記憶——窓を開ける習慣——が、言葉として表出した。
「マルクさん! 聞こえますか?」
「……かぜ……」
それ以上は続かなかった。焦点は再び散り、マルクの目は元の虚無に戻った。
しかし、言葉は確かに発せられた。
地獄のような一年以上の沈黙を破って。
エリナは椅子の上で両手を強く握りしめた。
指が震えている。涙が目の縁に溜まっていたが、絶対に拭わなかった。データを見逃すわけにはいかない。
隣でイスラが、小さく息を吐いた。
「……風、か」
イスラは無言で、医療棟の空気循環システムを強めた。
その風がマルクの痩せこけた頬を撫でたとき、彼の唇が再び動いた。
「……こ、れ」
虚ろな目のまま。
しかし、その声には——微かだが確かに、故郷に帰ったような安堵が滲んでいた。
■
30日目。
エリナはイスラに一つの提案をした。
「ケヴィンさんとリサさんに、直接会ってもらいたいんです」
「まだ早くないか? 協力者のショックが大きすぎるんじゃないか」
「それは……そうかもしれません。でも、録音された合成音声と本人の生の声では、脳の反応が全く違うはずです」
イスラは少し考え、短く頷いた。
――翌日。
医療研究棟の個室に、二人の訪問者が通された。
ケヴィン・ラウとリサ・カワムラ。
一年以上ぶりに見るかつての相棒の無残な姿に、ケヴィンは入り口で足を止めた。
リサは口元を両手で覆い、肩を震わせた。
ベッドの上のマルクは、以前より少しだけ頬に色が戻っていた。
エリナの指導のもとリハビリが始まり、上半身を何とか起こせるようになっている。
しかし、二人が見知っていた『空を夢見るドローンバカ』の面影は——まだほとんどなかった。
「……マルク」
ケヴィンが、血を吐くような声を絞り出した。
マルクの目が、声の方向を向いた。ゆっくりと。
焦点が定まらず、ぼんやりとケヴィンの顔を見ている。
「マルク、俺だよ。ケヴィンだ。……分かるか?」
沈黙がひどく重かった。
マルクの唇が動いた。何かを言おうとしている。
しかし言葉にならない。眉間に皺が寄り、もどかしそうな表情が浮かんだ。
……それは一ヶ月前には存在しなかった「感情の葛藤」だった。
「……めが」
「ん?」
「めがね。まる……まるい。めがね」
ケヴィンは息を呑んだ。
自分の顔にかかった、度の強い丸眼鏡に手を触れる。
「ああ……ああ、そうだよ。俺は丸眼鏡だ。お前にいつも『度が強すぎて目が泳いでる』って笑われてたよな」
マルクの目が、少し見開かれた。
唇が震え、何かと格闘するように口を開閉する。
「けヴぃ……けう゛ぃん」
「そうだ! ケヴィンだ! マルク、お前……っ!」
ケヴィンが泣き崩れそうになりながら歩み寄ろうとしたのを、エリナが手で制した。
急激な接触は逆効果になりうる。ケヴィンは悔しそうに足を止めたが、その目からはボロボロと涙が溢れていた。
リサが静かに、一歩前に出た。
マルクの目が、今度はリサを捉えた。
「……くろい。かみ。ぽにーてーる」
リサのタイトな黒髪のポニーテールを見て、マルクが呟いた。
「こーひー。いつも……こーひー、もってた」
「……ええ。合成コーヒーよ。あなたがいつも『それ何杯目だ、死ぬぞ』って聞いてきた」
「なんばい……め」
マルクの口元が、微かに——ほんの微かに——持ち上がった。
それは笑みと呼ぶにはあまりにも弱すぎた。
けれど、一ヶ月前の虚無とは決定的に違う「人間」が、そこにいた。
リサの膝が折れた。その場にへたり込み、声を殺して泣き咽んだ。
ケヴィンは天井を見上げて歯を食いしばり、男泣きしている。
エリナは二人から少し離れた場所で、データパッドに記録を取り続けていた。
脳波モニターには、これまでで最も巨大なスパイクが記録されている。
海馬の五領域で同時発火。しかも、発火のパターンが連鎖的に広がっている。
一つの断片が隣の断片を呼び覚まし、それがさらに次の断片を繋いでいく。
「エリナさん」
イスラが横から声をかけた。いつもの軽薄な声が、少しだけ掠れていた。
「大成功のようだね」
「はい。ただ——」
エリナはモニターを見つめたまま、油断なく言った。
「順調なのは確かですが、まだ入口です。名前や外見の記憶は比較的浅い階層にある。これから先、もっと深い記憶——感情や、価値観や、『自分が何者だったか』という核の部分に到達するには、まだ長い時間がかかります」
「それでも、一ヶ月前にはこの光景は想像すらできなかった」
「……ええ。それは確かに」
エリナはベッドの方を見た。
ケヴィンがマルクの骨ばった手を両手で握り、リサがその隣で目を赤くしながら微笑んでいる。
マルクはまだ虚ろだが、二人の顔を交互に見ていた。
その目の動きは、もはや空虚を漂うものではない。何かを探している目だった。
自分が何者だったのかを、二つの不完全な鏡の中に見出そうとする、人間の目だった。
「……まだ」
マルクが呟いた。
全員が動きを止めた。
「まだ……おわってない」
掠れた声。途切れ途切れの、ぎこちない発話。
けれどその言葉を聞いた瞬間、ケヴィンの顔がくしゃくしゃに歪んだ。
「お前……お前……っ」
ケヴィンはもう抑えられなかった。
マルクの手を握ったまま、子供のように声を上げて嗚咽を漏らした。
リサが涙を乱暴に拭い、鼻をすすりながら笑った。
「そうよ。まだ終わってない。私たちの会社は、全然、終わってないわよ……っ」
マルクの目が二人を見ていた。
まだ記憶は断片的で、二人が誰なのかを完全には理解できていないかもしれない。
けれど——この二人が、自分にとってかけがえのない存在であるということだけは、壊れた脳の奥底で、確かに熱を帯びて灯り始めていた。
■
その夜。
ケヴィンとリサが帰った後、エリナはデータの整理を終え、医療研究棟の薄暗いロビーで紅茶を飲んでいた。
イスラが隣のソファにドカッと座った。
白いスーツのネクタイは緩められ、珍しく疲労の色を隠そうともしていない。
「今日の結果を見て、確信したよ。君の手法は、マルクだけじゃなくエリザベスの他の被害者にも確実に適用できる」
「そのつもりです。マルクさんのケースでプロトコルを確立したら、五人分のスケジュールを組みます。それぞれの被害者に合わせた刺激セットを作る必要がありますが、絶対に――」
エリナの力強い言葉が、ふと途切れた。
ロビーの入口に、人影が立っていた。
受付を通った形跡はない。最上位のセキュリティゲートのログにも反応はない。
ただ、そこに幽霊のようにいた。
白いパーカー。水色の髪。
暗がりの中で微かに赤く光る、二つの無機質な瞳。
エリナの手からカップが滑り落ちかけた。
咄嗟に掴み直し、ガタッと音を立てて立ち上がる。
「……カーバンクル」
忘れるはずがない。自分の記憶を取り戻してくれた少女。
自分から全てを奪った男を処刑し、自分の人生を救ってくれた、404号室の死神。
カーバンクルの赤い瞳が、エリナを見た。
「……ひさしぶり」




