【404】襲撃の兆し
カーバンクルはロビーのソファには座らなかった。
壁に背を預け、腕を組んで立っている。いつものように。
白いパーカーの裾が、空調の風で微かに揺れていた。
「久しぶり……っ!」
エリナが言った。声が少し震えていた。
「うん」
カーバンクルの返事は短かった。
けれど、赤い瞳がエリナを見る角度が——出会った頃の絶対零度とは違う、ほんの少しだけ柔らかな温度を帯びていた。
「元気そうだね」
「おかげさまで。……あなたのおかげでね」
エリナは紅茶の紙コップを胸の前で強く抱え込んだ。
この少女に伝えたいことは山ほどあった。
記憶を取り戻してからのこと。地獄のどん底から這い上がり、研究を再開したこと。寝る間も惜しんで論文を書いたこと。
そして今、マルクという新しい命を繋ぎ止めようとしていること。
「あの日、あなたが私の記憶を取り返してくれなかったら……私はまだ、自分が誰かも分からないまま廃人になって——」
「……そうならなかった」
カーバンクルが短く遮った。素っ気ない声だった。
けれど、その後に続いた言葉は違った。
「論文、読んだよ」
エリナがハッと目を見開いた。
「え……どこで?」
「イスラに見せてもらった。……難しかったけど、すごく大事なことが書いてあるのは分かった」
カーバンクルは壁から背を離し、医療研究棟の奥——マルクの個室がある方向を静かに見つめている。
「脳が萎縮して廃人になった被害者を治療してるって。すごく、いいことだと思う」
エリナは力強く頷いた。
「まだ途中よ。でも、彼は確実にこちらの世界に戻ってきている」
「……そっか」
短い沈黙。
カーバンクルの唇が、ほんの一瞬だけ綻んだ。
笑みと呼ぶにはあまりにも小さすぎる変化。けれどエリナは見逃さなかった。
あの朝、部屋を出ていく直前に見せた、あの一瞬の不器用な表情と同じものだった。
「よかった」
カーバンクルはたった一言、それだけを口にした。
「……っ!」
エリナの目に涙が滲んだ。
その言葉が、どれほどの重みを持っているか。
他人の人生に干渉せず、感情を殺して生きてきたこの少女が、「よかった」と口にすることの意味を、エリナは痛いほど分かっていた。
「ありがとう……本当にありがとう、カーバンクル。あなたが私を救ってくれたから、私は今、彼を救うことができる」
「……」
カーバンクルはバツが悪そうに黙って目を逸らした。イスラが肩を竦める。
「オイオイ……なんだ、照れてるのか? 404号室の死神が?」
「うるさい」
カーバンクルの声がわずかに硬くなった。
エリナは恩人の温かな心に触れたようで、微かな笑みを浮かべる。
「それより。仕事の話がある」
空気が一変した。
カーバンクルの赤い瞳から柔らかさが完全に消え、凪いだ水面の冷徹さが戻っている。
イスラがソファからゆっくりと身を起こした。
緩めていたネクタイを締め直し、碧眼に鋭い光を戻す。
人間臭い素の顔から、ネクサス・リンク社CEOの『白いカリスマ』の顔へ。切り替えは一瞬だった。
「隠者たち絡みか?」
「そう。この施設に、外から圧力がかかっている。知ってる?」
イスラの片眉がスッと上がった。
「……気づいてるさ。今朝から、ネクサス・リンク社のメインサーバーに異常な攻撃的アクセスが集中している。ショウが監視と迎撃をしているが、発信元が偽装されすぎていて特定しきれていない。
それと、今日の午後、うちのメイン取引銀行二行から『融資条件の不当な見直し通告』が来た。同日に二行だ。偶然とは思えない」
「偶然じゃない」
カーバンクルが冷たく断言した。
「隠者たちの新しい動き。今日の昼にショウが裏のネットワークで拾った断片的な情報を、裏取りしてきた」
カーバンクルは壁に戻り、腕を組み直した。
「エリザベスが消えた後、ネオ・バンク・アルカディアの経営権が宙に浮いた。レックスの軍事会社も、ゴールドスタインのカジノネットワークも同じ。隠者たちが次々と消えて、残された莫大な企業や資産が無主物になっている」
イスラの目が、猛禽類のように細まった。
「……それを、裏で一手に拾い集めているハイエナがいる、ということか」
「そう。一人の男が、消えた隠者たち全員の事業を密かに引き継ぎ、自分の帝国を作り始めている」
カーバンクルの声が、一段低く、重くなった。
「フレデリック・グラント」
イスラの表情が微かに固まった。
名前に聞き覚えがある、という顔ではない。
その名が持つ『危険度』を正確に把握している顔だった。
「……グラント・キャピタルの、フレデリック・グラントか」
「知ってるんだね」
「あぁ。連中のことは全員分調べてるからな。隠者たちの中では比較的新参だが——えげつないM&Aの専門家だ。表の顔はセントラル区の巨大投資ファンドCEO。企業買収と事業再編を得意とする、冷血な『乗っ取り屋』だ」
イスラは立ち上がり、壁際に歩み寄った。
「奴の手口は有名だ。弱った企業に資本を注入し、経営権を合法的に握り、中身を完全に解体して入れ替える。表向きはスマートな買収劇だが、その過程で競合を物理的に潰し、反対派を社会的に抹殺し、最終的には自分の傀儡企業に作り変える。
このネオ・アルカディアの市場で、ここ十年で最も多くの企業と人間を飲み込んできた男だ」
エリナは二人の会話を聞きながら、胸の奥で氷のような不安が膨らんでいくのを感じていた。
「それが……なぜ、この施設を狙うの?」
「エリザベスの地下室」
カーバンクルが淡々と答えた。
「グラントはエリザベスの事業を引き継いだとき、彼女の隠し資産だけじゃなく、あの地下施設の存在も知った。そこから情報の糸を辿っていけば、被害者の救出にイスラが関わっていることは推測できる」
イスラが振り返った。
「マルクの治療がここで行われていることも、すでにバレているのか?」
「ショウがさっき傍受した暗号通信によれば、グラントは今夜中にこの施設の周囲に人員を配置するつもりらしい。シャドウ・セキュリティ崩れの、重武装の私兵を使って」
エリナの顔から、さぁっと血の気が引いた。
「重武装って……ここは、ネクサス・リンク社の正規の施設よ!? セントラル区の企業ビルを武力で包囲するなんて、警察が黙って——」
「普通はあり得ない。だが警察権力は所詮、隠者たちの言いなりだからな」
イスラが静かに言った。
声に怒りはなく、ただ氷のような分析的な冷静さだけがあった。
「だが逆に言えば、それだけグラントが追い詰められている証拠でもある」
イスラはポケットから端末を取り出し、猛烈な速度で画面を操作し始めた。
「隠者たちは今、パニックに近い状態にあるはずだ。メンバーが次々と消され、その度に残された事業と資産が無防備になる。グラントのようなハイエナにとっては千載一遇のチャンスだが、同時に——『自分もいつカーバンクルに狩られるか分からない』という恐怖が常にある」
カーバンクルが頷いた。
「だから先手を打とうとしている。イスラを潰して、自分の安全を確保しようとしている。どうあれここは、イスラにとって重要な場所……そう見えてるから」
「ったく、やっぱり慈善事業ってのはクソだな」
イスラが冷酷に補完した。
「グラントは善悪や感情で動いているんじゃない。純粋な『ビジネスのリスクヘッジ』として、この施設と被害者を狙うだろう。隠者たちの中で最も合理的で、最も恐ろしいタイプだ」
三人の間に、重苦しい沈黙が落ちた。
「いつ来る?」
イスラが端末から目を離さずに尋ねた。
「ショウの見立てでは、早ければ今日の未明。遅くとも明日の夜」
「……時間がないな」
イスラの碧眼が、高速で防衛プランを構築する光を帯びていた。
「マルクの治療は絶対に中断できない。移送も現段階の彼の脳の状態ではリスクが高すぎる。つまり、ここを要塞化して守り抜くしかない」
エリナが一歩前に出た。
「はい。マルクさんを動かすのには絶対に反対です。……ようやく記憶の再接続が定着し始めたところなんです。今、環境が変わって強いストレスがかかったら、今までの積み重ねが全て——」
「分かってるさ。絶対に動かさない」
イスラがエリナを見て、力強く断言した。
「君はマルクの治療だけに全神経を集中してくれ。この施設の防衛は、ネクサス・リンク社CEOである俺の仕事だ」
そして、カーバンクルに真っ直ぐに向き直った。
「君に頼みたいことがある。グラントの件——引き受けてくれるか」
カーバンクルは腕を解き、パーカーのポケットに両手を入れた。
「……依頼?」
「そうだ。404号室への、正式な殺しの依頼だ」
カーバンクルの赤い瞳が、イスラを鋭く射抜いた。
数秒間、二つの視線が火花を散らすように交差する。
「……わかった」
イスラは無言で頷き、端末の画面を三人の間の空間にホログラム投影した。
フレデリック・グラントの顔写真。
五十代半ば。銀髪を短くオールバックに刈り込んだ、キツネのような冷たい目つきの男。
高級スーツに身を包み、慈善パーティーで優雅に微笑む姿。
その完璧な笑みの下に、何十もの企業の死骸と、何百もの人間の絶望が積み重なっている。
「おそらくだが、今回は……レックスのように現場に奴が来ることはないだろう」
「……ということは、つまり?」
「正真正銘の持久戦。兵隊を一人残らず、撃退するしかないな」
「……ふーん。随分なパーティーだね……」
カーバンクルは目を瞑り、ため息を吐く。
だからといって退くつもりはない。その瞳はいつになく、激しい感情に揺れていた。
最近あんまり出てなかったのでカーバンクルさんの出番です




