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【依頼人】天才少女の失われし夢

 最初に感じたのは、吐き気を催すような甘い匂いだった。


 後頭部が脈打つように熱い。

 重い鈍痛が頭蓋の内側を圧迫し、意識の浮上を妨げている。


 次に感じたのは冷たさ。

 背中と太ももの裏に触れる硬い金属の感触。


(……う……)


 目を開けようとしたが、瞼が鉛のように重い。

 こじ開けるように薄目を開くと、視界がぼやけていた。


「……ぁ」


 ひび割れた声が漏れた。

 ナノは自分の状況を確認しようとして、腕が動かないことに気づいた。


 両手首と両足首が、重厚な革製の拘束具で金属製の椅子に固く縛り付けられている。

 身じろぎするたび、革の縁が肌に食い込んだ。


「ヒッ……!」


 視界が徐々に鮮明になっていく。


 そこは、広いがひどく陰湿な部屋だった。

 窓はなく、壁に取り付けられた古風な間接照明が室内を黄ばんだ琥珀色に染めている。


 そして——壁一面の、異常な光景。


 ナノは息を呑んだ。


 壁には、子どもたちの写真が何十枚。

 いや、百枚近く隙間なく貼られていた。


 写真は全て二枚一組。左に一枚、右に一枚。

 それが何段にも重なり、壁を埋め尽くしている。


 左側の写真は、いずれも目を輝かせた子どもたちだった。


 ヴァイオリンを抱えて笑う少女。

 化学式が書かれたボードの前でピースサインをする少年。

 プログラミングのトロフィーを掲げる少年。

 未来と自分の才能を信じている、眩しい顔。


 右側の写真は——同じ子どもたちの、別の姿だった。


 虚ろな目。光の消えた顔。

 工場の作業着を着て旋盤の前に立つ姿や、安い酒瓶を手に路地裏に座り込んでいる姿。

 才能を失い、空っぽの手をした彼らは、生きたまま何かが死んでいるように見えた。


 写真の下には小さなラベルが貼られている。

 左に『Before』、右に『After』。


「目が覚めたかい、ナノ……」


 背後から、ねっとりとした声が耳元に吹き込まれた。

 ビクッと肩を震わせたナノの首筋に何かが這う。エドワードの指先だった。


「ひっ……!」

「ああ、いい声だ。怯えた君もたまらなく可愛いよ」


 エドワード・フィンチはナノの背後から身を乗り出し、彼女のうなじに顔を埋めるようにして、深く、長く匂いを嗅いだ。


 上等なスーツの上着は脱ぎ捨てられ、ネクタイは緩み、額には異様な汗が浮いている。

 いつもの神経質な身だしなみは消え失せ、発情した獣のような荒い呼吸だけがあった。


「知っているかな、ナノ。ネオ・アルカディアでは毎年、平均から逸脱した『天才児』が二百人ほど見つかる。ヴァイオリンでも、科学でも……機械いじりでもね」


 エドワードの熱い指先が、ナノの首筋から鎖骨へ、そして制服の胸元へと滑り降りる。

 ナノは椅子の上で身をよじったが、拘束具はびくともしない。


「やめっ……触らないで……!」

「彼らには共通点がある。夢を持っているということだ。夢を持った下層のゴミどもは、這い上がり、既存の秩序を脅かす。我々の完璧な世界をね」


 エドワードはナノの前に回り込み、彼女の膝の間にしゃがみ込んだ。

 そして、ナノの太ももを両手で撫で上げながら、恍惚とした目で彼女を見上げた。


「だから私がいる。近づいて、特別だと囁き、孤立させ、私だけが味方の世界を作る。そうして夢をへし折り、私の腕の中で暮らしてもらう。絶望して泣き喚く彼らが『先生だけが頼りです』と私に縋り付いてくる瞬間……! ああ、あれは最高なんだよ」


 エドワードの吐息が荒くなる。彼はナノの膝に頬をすり寄せ、それから立ち上がる。


 エドワードは壁の前で立ち止まり、両手を広げた。

 百枚近い写真を、まるで美術館のコレクションのように示してみせる。


「この子たちを見てごらん。みんな、かつては君と同じ目をしていた。キラキラと、馬鹿みたいに輝いた目だ」


 彼の声が、低くなった。


「それが消える瞬間がね……たまらなく癒やされるんだよ」


 ナノの背筋を、悪寒が這い上がった。


「癒やされる……?」

「ああ。例えるなら、夜中にドアの鍵を確認する感覚に近い。ちゃんと閉まっている。誰も入ってこない。誰も、上がってこない。……そう確認できた瞬間、ふっと肩の力が抜けるんだ」


 エドワードは目を閉じ、深く息を吐いた。


「私はね、才能のある子どもが怖いんだよ。彼らが成長して、力を持ち、声を上げ、この腐った秩序を変えてしまうことが怖い。私の居場所が——私たちの居場所がなくなることが怖い。だから鍵をかける。一人ずつ、丁寧に、確実に。それが私の使命だ」


 ねっとりとした目が、再びナノの全身を撫で回す。


「君もそうなるはずだった。あと少しで、君は機械技師の夢を捨て、泣きながら私の足元に這いつくばるはずだった。そうすれば、私は君をたっぷりと可愛がってあげたのに……君は余計なことを聞いて、私を拒絶した」


 彼が立ち上がり、部屋の奥の暗がりへ向かった。

 重い金属を引きずる音がする。


「な、にを……」

「私を拒絶した罰だ。君のその傲慢な『夢』を、物理的に摘み取ってあげることにしたよ」


 戻ってきたエドワードの手に握られていたのは、小型で高出力の工業用チェーンソーだった。

 チタン合金の義体すら容易く両断する、セラミック・カーバイド合金の刃。


 ナノの全身の血が凍りついた。


「や、やめて……! やめて!!」

「君が悪いんだよ、ナノ。私の愛を拒絶した君が悪い」


 エドワードはナノの右手を掴んだ。

 拘束され逃げ場のないその手を、愛おしそうに撫でる。


 祖父が「宝だ」と言った手。

 傷だらけで、グリスが染み込んだ少女の手。


「この美しい手を切り落とせば、君は二度と機械を弄れない。一生、誰かに食事をさせてもらい、下の世話をしてもらうしかない無力な肉塊になる!」


 エドワードの股間が、醜く膨張しているのがナノの視界に入った。

 彼は少女から才能と自由を奪うというこの儀式に、狂気的な性的興奮を覚えていた。


「いやあああッ! お願い、やめて! じいちゃん……ッ、だれか助けて!!」

「誰も来ないよ。さあ、私に全てを委ねなさい」


 チェーンソーのスイッチが入れられた。


 鼓膜を劈く高周波の駆動音が部屋を満たす。


 刃が、ナノの右手首の数センチ上——前腕の中ほどに押し当てられた。


「――あァッ、あああああぁぁぁあああッ!!!」


 ナノの絶叫が部屋を貫いた。


 肉が裂け、骨が砕かれる凄まじい激痛。


 噴き出した鮮血がエドワードの白いシャツと顔に斑点状に飛び散る。


 エドワードは顔に生暖かい血を浴びながら、背筋を反らせて絶頂を迎えるように深く、長い息を吐き出した。


「ああ……素晴らしい。次は左手だ。愛しているよ、ナノ……!」


 両手とも確実に使えなくなるように。丁寧に、正確に。

 限界を超えた激痛の中、ナノの意識は急速に暗闇へと沈んでいった……。



「……それが、俺が調べた顛末……だ」


 ……語っていた、タクトの声が途切れた。


 イースト区の安宿、404号室。


 剥がれかけた壁紙と空調の微かな異音。

 部屋の大部分は暗がりに沈み、ベッドサイドの安っぽいランプだけがタクトの足元を照らしている。


 窓際のベッドの縁に、水色の髪の少女が腰を下ろしていた。


 フードを下ろした白いパーカー。

 カーバンクルの赤い瞳は何の感情も映さず、ただ静かに目の前の青年を見つめていた。


 タクトは部屋の隅の椅子に座り、両手で顔を覆っていた。

 語るべきことは、全て語り終えた。


「……三日、連絡がなかった」


 タクトが顔を上げた。

 目は真っ赤に充血し、涙はとうの昔に枯れ果てている。


「四日目の夜だ。セントラル区とイースト区の境界にある廃棄物処理場の近くで……ゴミの山に捨てられてるあいつが見つかった」


 タクトは拳を膝の上で握りしめた。骨が白く浮き出るほど強く。


「両腕がなかった」


 静かな声だった。叫ぶ気力すら使い果たした、絶望の底の音。


「肘から先が、両方とも……刃物か何かで切断されてた。止血処置だけはされてたそうだ。殺すつもりはなかったんだ。ただ、あいつから……あいつの宝物だった『手』だけを、奪いたかったんだ……ッ!」


 タクトの喉がヒュッと鳴った。

 工場労働で鍛えられた筋張った両腕で、彼は自分の頭を抱え込んだ。

 情けないほど小さく丸まり、声を殺して肩を震わせる。


 カーバンクルは何も言わなかった。

 急かさず、同情の言葉も口にせず、ただ静かに待った。

 タクトの嗚咽が収まり、荒い呼吸が落ち着くまで。


 数分が経った。

 タクトが顔を上げたとき、その目には黒い怒りの炎だけが残っていた。


「ナノは今、イースト区の集中治療室にいる。意識は戻ってない。……警察にも訴えた。だが、イースト区の労働者の言葉なんか誰も聞かねえ。相手は教育委員会のトップ、エドワード・フィンチだ。証拠は隠滅され、ナノは『自主退学した』ことになってる。どこに電話しても門前払いだ」


 タクトは椅子からずり落ちるようにして、床に膝をついた。

 そして、安宿の薄い絨毯に額を擦りつけるように——土下座をした。


「頼む。あいつを……エドワード・フィンチを始末してくれ」


 額が床にめり込むほど押し付けられている。


「金はねえ。この部屋の宿泊代を払うので精一杯だ……! でも、他に頼れるところがない。警察も、企業も、全部あっち側だ。俺一人じゃ、あの上層部のクズに手が届かない!」


 沈黙が落ちた。


 カーバンクルがベッドから降りた。

 足音もなく床に降り立ち、土下座をするタクトの前に立つ。


「顔を上げて」


 低く、静かな声だった。抑揚のない、氷のような声。


 タクトがゆっくりと顔を上げると、薄暗い部屋の中で、カーバンクルの赤い瞳が微かに発光していた。


 その瞳の奥に、タクトは確かなものを見た。

 同情ではない。ただひたすらに深く、冷たく、絶対的な——殺意と意志。


「ターゲットはエドワード・フィンチ。ネオ・アルカディア教育委員会委員長。だね」

「……ああ」


 カーバンクルは一度だけ瞬きをした。


「引き受けた」


 短い一言。

 しかしその言葉に、タクトは全てを賭けた。


 目の前の、妹と変わらない年頃の少女が、このドーム都市の闇の底まで手を伸ばせる死神であることを信じるしかなかった。


 カーバンクルは踵を返し、窓に向かった。

 窓枠に手をかけ、振り返らずに尋ねる。


「ナノさんの病室は」

「イースト区第三公立病院。集中治療棟の四階だ」

「……分かった」


 窓が開き、イースト区の夜の空気が流れ込んだ。

 遠くで工場の排気音が低く唸り、廃墟のネオンが毒々しく明滅している。


 カーバンクルは窓の外に身を躍らせた。

 音もなく、影のように。イースト区の夜の闇が水色の髪を一瞬だけ揺らし、そして完全に飲み込んだ。


 404号室に、タクトだけが残された。

 膝をついたまま、開かれた窓を見つめている。冷たい夜風が頬を撫でていった。


「……頼む。頼む……」


 誰もいない部屋に、タクトの掠れた声が落ちた。

ジメジメしたパートが長かったので、制裁をしていきます

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