【断罪】コレクションの破壊
同じ夜。セントラル区。
暗号化された虚数空間に、二つのホログラムが浮かんでいた。
一つはエドワード・フィンチ。
もう一つは、隠者たちの中核メンバーの一人——アレクサンダー・クロウ。
ブラック・リヴァイアサン社CEO。
軍事・警備産業の巨頭。
「報告は聞いた」
アレクサンダーの声は低く、鉄を擦り合わせたような響きがあった。
「教育委員会の管轄下にある生徒を、お前の個人的な趣味で監禁し、傷害を負わせた。しかも処理が杜撰で、被害者は生きたまま発見された。そういうことだな、エドワード」
エドワードのホログラムが、びくりと震えた。
「ち、違う……あれは『あえて』で、だって生かしておかないと夢をなくした姿が見れなくて……」
「……はぁ」
アレクサンダーの声が、一段冷たくなった。
「貴様の気色の悪い趣味嗜好など聞いていないわ。無能のクズめ」
「ぐっ、ぬっ……」
エドワードは口をつぐんだ。
ホログラムの手が、膝の上で小刻みに震えている。
「マルコムが死に、レックスが死に、ゴールドスタインが死んだ。我々は今、あの化け物に狩られている最中だ。その状況で——お前は何をしている? 小児性愛の性癖を満たして遊んでいるのか?」
「あ、遊びなどでは……! あれは職務の一環で、下層の才能ある子どもの芽を摘むのは——」
「管理という名の、お前の自慰行為だろう。我々の間では周知の事実だ」
アレクサンダーが鼻で笑った。
その嘲笑には一片の温度もなかった。
「今まで無視していたのは、我々にも利があったからだ。だが、証拠が残る形で暴走するなら話は別だ」
アレクサンダーのホログラムが、エドワードに一歩近づいた。
「生きた被害者は証言する。兄は諦めていない。お前の隠れ家に痕跡が残っていれば、いずれ足がつく。そうなったとき、我々は——」
「わ、わかっている! 処理する、痕跡は必ず消すから……!」
「処理? どうやって。お前は我々の中で最も無能だ。金もない、武力もない、人脈もない。あるのは教育委員会の肩書と、子どもを洗脳する気色悪い技術だけだ」
エドワードの歯が、カチカチと鳴った。
屈辱と恐怖が入り混じった、惨めな震えだった。
「まあいい」
アレクサンダーの声から、完全に感情が消えた。
「好きにしろ、エドワード。お前がどうなろうと、我々には関係ない。カーバンクルに狙われたくなければ自分で身を守れ。守れなければ——他の連中と同じ末路を辿るだけだ」
通信が切れた。
アレクサンダーのホログラムが消え、虚数空間にエドワードだけが残された。
「……クソッ」
歯の隙間から、呪詛が漏れた。
「クソッ、クソ、クソ……! なんで私ばかり……私は悪くないのに……あいつらだって同じことをしてるじゃないか……人間狩りだの拷問ショーだの、もっと酷いことを……! なのになんで私だけ馬鹿にされて、見下されて……ッ」
ガリガリと親指の爪を噛み千切りながら、エドワードは通信を切断した。
■
エドワードの隠れ家は、セントラル区の外縁部にあった。
表向きは教育委員会の資料保管庫として登録された、築三十年の低層ビルの地下一階。
入口は生体認証でロックされ、彼だけの完全な密室空間となっている。
通信を終えたエドワードは、部屋の中央に立っていた。
琥珀色の照明に照らされた壁一面の写真。
百枚近い子どもたちの輝く笑顔と、その対になる虚ろな顔。
彼が丹念に集め、壊し、支配してきた「芸術作品」の数々。
エドワードはグラスに安酒を注ぎ直し、写真の前をゆっくりと歩いた。
一枚一枚を指でなぞりながら。
ヴァイオリンの少女。科学の少年。スポーツの天才。そして——最新の一組。
左側には、工具を手に笑うナノの写真。右側はまだ空白だった。
「……ナノの写真は、どうしようかなァ」
甘い独り言が漏れた。
「手のない姿を撮るか……? 少しやりすぎたかもしれないな。でも仕方がなかった。私を拒絶したあの子が悪いんだ。大人しく愛されていれば——」
その時。
鼻腔を、異質な匂いが掠めた。
「ん……?」
エドワードの独白が止まる。
グラスを持つ手が固まり、目だけが左右に動いた。
——焦げ臭い。
最初は気のせいかと思った。
しかし匂いは急速に強くなっていった。
紙が燃える匂い。布が焦げる匂い。
そして——化学系の着火剤特有の、鋭い刺激臭。
「なっ——」
天井の通気口から濃い灰色の煙が這い出していた。
火災警報が鳴らない。
建物のセキュリティシステムが、完全に沈黙している。
「火事……!? なっ、なぜ警報が——!?」
エドワードは慌てて端末を取り出し、監視システムにアクセスしようとした。
画面は真っ暗だった。
通信も、セキュリティも、消火システムも——全てが死んでいる。
(ハッキングされた……!? のか!?)
その認識が脳に届くのと同時に。
ボワッ!! という爆発音とともに、壁の写真の上端が一斉に赤く染まった。
「うわぁぁっ!!」
天井裏から回り込んだ炎が、壁面に降り注いだのだ。
高熱の化学炎は、乾燥した印画紙を瞬く間に燃料として喰らい尽くしていく。
「あっ——」
エドワードは壁に手を伸ばした。
写真を剥がそうとした。反射的に。
しかし指先が触れるより早く、ヴァイオリンの少女の笑顔が赤く歪み、チリチリと黒く縮んでいく。
「やめろ……! やめろやめろやめろ!!」
エドワードは絶叫しながら、隣の写真に手を伸ばした。
科学の少年が燃えた。
プログラミングの神童が燃えた。
スポーツの少女が燃えた。
ナノの写真が燃えた。
「あああああ!! 私のコレクションが……私の愛した芸術が……私の、私の……ッ!!」
炎は壁を伝って左右に走り、百枚近い写真を次々と火の海に飲み込んでいく。
子どもたちの輝く笑顔も、絶望に染まった虚ろな顔も、等しく無価値な灰へと変わっていく。
エドワードが人生をかけて築き上げた「優越感の証明」が、文字通り音を立てて崩れ去っていく。
「ふざけるな! ふざけるなよぉ!?」
天井の一部が崩落し、火の粉がエドワードの肩に降りかかった。
高級スーツが焦げ、皮膚に焼き鏝を当てられたような激痛が走る。
煙が目を灼き、呼吸が詰まった。
「ひっ、ヒィ、ヒィ……!?」
——逃げなければ死ぬ。
執着を生命の危機が上回った。
エドワードは壁に未練の手を炎の熱に弾かれ、泣き叫びながら踵を返して出口へ走った。
「ああああ……! うわあああぁッ!」
廊下は既に黒煙で充満していた。
這うようにして非常階段を登り、地上への扉を蹴り開ける。
夜の外気が肺に流れ込み、アスファルトの上に転がり出て激しく咽せた。
「ゴホッ、ゲホッ……ハァッ、ハッ、ハァ……ッ!」
路地裏だった。
セントラル区の住宅街の裏手。人通りはない。
ビルの地下から猛烈な黒煙が噴き出し、非常口の隙間からオレンジ色の業火が漏れている。
エドワードは四つん這いになり、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら酸素を貪った。
煤で汚れた顔。焼け焦げたスーツ。眼鏡の片方のレンズは割れている。
つい先ほどまでの優雅な教育委員長の面影は、微塵も残っていなかった。
「クソ、なんだ、何が起きた……!? 誰が、こんな――」
息を整えようとしたとき。
頭上から、静かな声が降ってきた。
「夢の燃える匂い。分かる?」
エドワードの心臓が、冷水を浴びたように凍りついた。
ゆっくりと顔を上げる。
路地裏の向こう側。街灯のない暗がりの中に、小さな影が立っていた。
白いパーカー。
そして——透き通るような水色の髪。
エドワードの呼吸が止まった。
暗闇の中で微かに赤く光る二つの瞳。
しかし、エドワードの脳髄を貫いたのは恐怖だけではなかった。
(……美しい)
華奢な体躯。幼さを残す白い輪郭。そして何より、あの色素の薄い水色の髪。
それはまさに、エドワードの「タイプ」だった。
彼が今まで集めてきたどの子どもよりも、圧倒的に彼のストライクゾーンのど真ん中を射抜いていた。
「だ、誰だ……?」
喉が引き攣り、声が震えた。恐怖と、わずかな熱情が混ざった醜い声。
だが目の前の存在が何者であるか、エドワードの脳は既に理解していた。
隠者たちが怯える死神——カーバンクル。
だがその死神があまりにも自分の理想の姿をしていたため、彼の脳は処理を遅らせていた。
「404号室から来た」
カーバンクルの声は絶対零度に凪いでいた。
怒りも憎しみも、何の感情も込められていない。ただ事実を告げるような平坦な声。
エドワードの身体が激しく震え始めた。
四つん這いのまま後退ろうとし、手のひらがアスファルトを擦って皮が剥ける。
「ま、待て……! 私を殺すつもりか……!? やめてくれ……! 私は、私は悪くない……あいつらに利用されていただけで……!」
「まだ殺さないよ」
カーバンクルの声が、エドワードの醜い弁解を刃物のように遮った。
「……え?」
「まだ、殺さない」
カーバンクルが一歩、前に出た。
街灯のない路地裏でも、その赤い瞳だけは鮮明に見えた。
幾何学模様が、瞳孔の中で歯車のようにゆっくりと回転している。
「だけど」
もう一歩。
エドワードとの距離が3メートルを切る。
近づいてくるその幼い姿に、エドワードは恐怖に震えながらも、目を逸らすことができなかった。
「あなたはもっと、必死になったほうがいい」
カーバンクルの声に、初めて異質な響きが混じった。
薄い氷の下に閉じ込められた、途方もなく冷たく残酷な何か。
「あの部屋の写真は全部見た。名前も、日付も、全部ね……」
「ヒ――」
エドワードの顔から、一気に血の気が引いた。
「次は、もっと大切なものを奪うから」
カーバンクルの赤い瞳が、エドワードを真っ直ぐに射抜いた。
数秒。それだけの時間だった。
けれどエドワードにとっては、自分の全存在を解剖され、ナイフを突き立てられたような、永遠にも等しい時間だった。
カーバンクルが静かに踵を返した。
路地裏の暗がりに向かって歩き出す。足音はない。
白いパーカーの背中の『404 Not Found』のロゴが、闇に溶けていく。
「ま、待て……! 待ってくれ……! ど、どうか、私は悪くなくて……」
狂気に当てられたエドワードの戯言は、誰にも届かなかった。
水色の髪が路地裏の角に消え、あとにはビルの地下から漏れる猛烈な黒煙と、アスファルトに這いつくばった惨めな男だけが残された。
遠くで、消防ドローンのサイレンが鳴り始めた。
エドワードは路地裏の地面に座り込んだまま、ガタガタと震え続けた。
焼け焦げたスーツから煙の匂いが立ち上り、ひび割れた眼鏡の向こうで、目だけが狂ったように左右に動いている。
「次……次は……? 次はだって……? ま、まさか、また来るつもりなのか……!? なぜ! 私は、私は悪くないんだぞ……!」
誰に言い聞かせているのかも分からない言葉を繰り返しながら、エドワード・フィンチは夜の路地裏で膝を抱えた。
コレクション捨てるのは、善人にも悪人にも効く




