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【依頼人】ストレステスト

 それは、狙ったわけではなかった。


 その夜のエリュシオンは珍しく客の入りが悪く、凌華のテーブルは一時間に一度のペースで空席になった。


 ゲームの合間にシステム端末の定期チェックを行うのは、ディーラーの退屈なルーティンだ。

 凌華もいつもの機械的な手順で、手元のホログラム画面を展開した。


「……っ!?」


 ——前回と同じだった。


 ディーラー用のシフト管理画面の下層に、本来アクセス権限のない別のウインドウが混入している。


 ただ、今回は前回の一瞬とは違った。五秒、十秒と経っても画面が切り替わらない。

 凌華は息を殺し、視線だけを動かして周囲を確認した。


 フロアマネージャーは奥のVIPテーブルに付きっきりだ。

 他のディーラーたちも自分の持ち場から目を離していない。


(……今なら)


 凌華はテーブルの下で、左手首のペイチップに触れた。

 給与決済用の安価なチップだが、基本的な網膜連動の記録機能……つまり、ドライブレコーダーのようなものが搭載されている。


 規定では店舗データの私的記録は厳禁だが、対象の画面を三秒間凝視するだけで、視野のスクリーンショットが密かに保存される仕組みだ。


 凌華は、画面を直視した。

 見続けた。


 スロット稼働ログ。心拍変動グラフ。発汗センサーの生数値。

 そして、リアルタイムで書き換わっていく抽選テーブルのパラメータ。


 前回よりもさらに詳細なデータが並んでいた。

 エリュシオン・グループ全店舗のリアルタイム数字が一覧になっており、最下段には稼働時間の累計と、そこから算出された『顧客損失最適化指数』というおぞましい項目があった。


 一秒。二秒。三秒。


 記録が完了したことを示す微細な振動が、手首のチップから伝わった。


 その瞬間、まるでこちらの行動を見透かしていたかのように、ノイズと共に画面が正常に戻った。

 シフト管理画面だけが表示された、いつもの退屈な端末だ。


「……はぁ、っ」


 凌華は大きく息を吐き出し、次の客のためにシャッフルを再開した。

 指先が微かに震えていた。恐怖からか、高揚からか、自分でも分からなかった。



 翌日の深夜、凌華は凱と落ち合った。


 いつもの食堂ではなく、凱が指定したのはウエスト区の地上一階、公共通路沿いに並ぶ薄汚れた自動販売機の裏だった。


 「深夜は人通りがないし、監視カメラは三台あるが、二台はレンズが焼かれて死んでる。残りの一台の死角がここだ」と凱は言った。

 工場の整備士らしい、実用的な確認の仕方だ。


 凌華はペイチップの暗号化記録を、凱の端末にローカル通信で転送した。


 凱はコンクリートの壁に背を預け、網膜に直接投影されるデータを確認した。

 その顔から、少しずつ血の気が引いていく。


「……これ、言い逃れできないレベルではっきり残ってますね」


 凱はひどく低い声で言った。


「『顧客損失最適化指数』って。……何を最適化してるかを示す数式が、客の生体データと完全に連動してる。このログが本物なら、ゴールドスタインの首が確実に飛ぶ」

「偶然持ち出せたものですが……証拠として成立しますか?」


「すると思う。ただ、あなたがこれをどうやって取得したか——『システムエラーで意図せず表示されたもの』だと裏付ける必要がある」

「エリュシオンのメインサーバーには、末端のエラーログもすべて残る仕様のはずです。少なくとも私の端末が誤作動を起こしたというエラーは、管理部門に上がっているはず」

「なら、いける」


 凱はデータから目を離し、凌華を見た。


「持ち込み先ですが、行政や警察はダメだ。十中八九、ゴールドスタインと繋がってる。告発した瞬間に俺たちが消されるだけだ。……ウエスト区の外、セントラル区の独立系メディアに投げましょう」

「そんな伝手があるんですか?」

「伝手はないですが、工場の件で後悔したあと、一人で色々調べてたんですよ。あのとき動けなかった分、今回は役に立ちそうだ」


 凌華は彼を見た。凱は壁に背を預けたまま、少しだけ自嘲するように笑った。

 前回動けなかった後悔を彼はまだ引きずり、それを今回の反撃の力に変えようとしている。


「……凱さん」

「はい」

「ありがとうございます」


 凱は少し目を丸くして、それから視線を逸らし、「いや」とだけ短く答えた。

 ぶっきらぼうな言い方だったが、凌華にはそれが照れ隠しだと分かった。


 二人はその夜、告発先をセントラル区の独立系メディア『アーカイブ・ゼロ』に絞った。


 反体制的な報道で知られる小規模な配信局で、過去に複数の企業不正を暴いた実績がある。


 送信方法も決めた。

 凌華の端末や足がつく回線は使わず、凱がイースト区の違法なプロキシサーバーを経由して、匿名でデータを送る。


 タイミングは翌日の午前中。凌華がシフトに入る前だ。


 凌華が自分の薄暗いアパートに帰ったのは、夜明け近くだった。


 ベッドに横になっても、目を閉じるとデータの数値が網膜に焼き付いたように浮かび上がった。

 心拍グラフ。発汗センサー。あの醜悪な数式。どれだけの人間が地獄に落とされたのか。

 もしかしたら彼女自身の母もまた、その毒牙にかかっていたのかもしれない。


(これで、終わる)


 凌華は毛布を強く握りしめ、浅い眠りに落ちた。



 翌朝、凱から短いメッセージが届いた。


『送信完了。あとは向こうの動きを待つだけだ』


 その文字を見て、凌華は長く息を吐き出した。

 重い石を一つ、ようやく下ろせた気がした。


 ——その40分後。

 凌華の部屋のドアが、外から乱暴に叩かれた。



「あ、あの……」


 男は三人いた。

 私服だったが、厚い胸板と感情の死んだ目の動かし方は、エリュシオンの裏の警備部門そのものだった。


「ひっ!?」


 凌華がチェーン越しに玄関を開けた瞬間、凄まじい力でドアが蹴り開けられた。


 金属のチェーンが弾け飛び、凌華は床に叩きつけられる。

 悲鳴を上げる間もなく、二人がかりで両腕を背後に捻り上げられた。


「うっ、あぁっ! やめっ、離してください!」

「こちらは確保した。そっちは?」


 もう一人の男が、アパートの廊下の奥に向かってインカムで短く何かを指示している。


「放して! あなたたち——」


 凌華が叫んだ瞬間、男の無骨な手が顔面を打ち据えた。口の中に血の味が広がる。


「ぎゃうっ……!」

「静かにしろ、ネズミめ」


 男は冷たく言い放ち、凌華の首根っこを掴んで廊下へ引きずり出した。

 そのとき、階段の方から激しい打撃音と怒声が聞こえた。


「触るなッ! クソ野郎——!」

「え――」


 凱だった。

 彼は二人の大男に両腕を掴まれながらも、必死に抵抗していた。


「凱さん!?」


 片方の男の脛を思い切り蹴り上げ、もう一人の顔面に頭突きを見舞う。

 男が鼻血を出して怯んだ隙に、凱は凌華の方へ駆け寄ろうとした。


「凌華、逃げ——ぐぁッ!」

「凱さんッ!!」


 背後から迫った別の男が、凱の膝裏を警棒でフルスイングした。


 鈍い音が響き、凱は苦悶の声を上げてその場に崩れ落ちる。

 すかさず二人の男が凱の上にのしかかり、アスファルトに顔を押し付けた。


「凱さん……!」

「無駄な抵抗はよせ。お前ら二人は、もうとっくに終わってるんだ」


 男の一人が冷たく吐き捨て、凱の腹に重い蹴りを見舞った。

 凱は咳き込み、それ以上動けなくなった。


 アパートの外には、エリュシオンのエンブレムが入った黒い大型車が停まっていた。


 遮光ガラスの貼られた後部座席に、二人はゴミのように放り込まれた。

 両脇を大柄な男たちに挟まれ、身動き一つ取れない。


 車が滑るように走り出す。


「……どこに、連れていくつもりだ」


 凱が口の中の血を吐き出しながら、隣の男を睨みつけて聞いた。


 男たちは前を向いたまま一切答えない。

 凱がもう一度声を荒げようとしたとき、凌華は震える手で、そっと彼の腕に触れた。


(ダメ。今は抵抗しても無駄)


 その冷たい指先の震えに気づき、凱は奥歯を噛み締めて口を閉じた。


 車は、ウエスト区の中心部——エリュシオンの本店に向かって走っていた。



 エリュシオンの本店は、ウエスト区で最も地価の高い一等地にそびえ立つ複合施設だ。


 一般客が知っているのは地下の広大なカジノフロアだが、地上層にはグループの中枢機能が密集している。


 凌華たちが引きずり出され、通されたのは、地上八階の最奥だった。


 エレベーターを降りると空気が一変した。

 カジノフロアの猥雑な蜂蜜色の光はない。

 落ち着いたグレーと高級な木目を基調とした内装。


 廊下の突き当たりにある扉が開かれる。

 そこにあるのは広大な部屋だった。


 壁一面の窓ガラスの向こうには、ウエスト区の薄汚れた夜景が皮肉なほど美しく広がっている。

 ホログラムの広告塔が瞬き、ドームの内壁が青白く揺れていた。


 部屋の中央に置かれた長いテーブルの奥。

 そこに、一人の男が座っていた。


「ご苦労だった」


 六十代半ば。白髪を丁寧になで付け、質の高い深い紺色のスーツを纏っている。

 彼は手元のグラスに入った透明な液体をゆっくりと揺らしながら、氷の触れ合う音を立ててこちらを見ていた。


「ゴールド……スタイン……?」

「いかにも」


 柔和な笑顔だった。

 研修資料の写真で見たのと同じ顔。ただ、写真よりもさらに目が細められている。


 口元は笑っているのに、その目の奥には一片の感情も、光すらも存在していないように見える。


 マルコム・ゴールドスタイン。


 この街の底辺の人間たちを喰い潰して肥え太る、最大の捕食者。


「ま、座りなさい」


 ゴールドスタインは穏やかな声で言った。

 椅子を勧めるような手つきだったが、それは絶対の『命令』だった。


 凌華と凱は、背後の男たちに強引に肩を押され、テーブルの手前の椅子に座らされた。

 男たちは一礼し、部屋の隅へ無言で下がる。


 ゴールドスタインはグラスを置き、組んだ手の上に顎を乗せた。


「君たちが一生懸命に送ってくれた、あのデータのことだがね」


 前置きは一切なかった。

 凌華の心臓が、早鐘のように打ち始める。


「結論から言おう。あのデータは、私が『用意した』ものだよ」

「……え?」


 凌華は息が止まりそうになった。


「半年に一度ほど、ランダムに選んだ末端の従業員の端末に、あの一見致命的とも思える機密データを意図的に表示させる。あ、ちなみに中身はきちんと本物だ」


 ゴールドスタインはひどく穏やかな口調で続けた。


「目的は単純だ。どの従業員がカジノのルールを破り、それを外に持ち出そうとするかを確認するため。……『忠誠度のストレステスト』とでも言えば分かりやすいかな」


 凌華の全身から、さあっと血の気が引いていく。


 罠だった。

 自分たちが反撃の狼煙だと思っていたものは、最初から蜘蛛の巣のど真ん中に用意された、ただの餌だったのだ。


「ほとんどの者は恐怖し、見なかったことにして目を伏せる。だが稀に、正義感か野心に駆られて記録しようとする愚か者が出る。……今回は、君だったというわけだ」


 ゴールドスタインは凌華を見た。


「君は一年半、文句も言わずに真面目に働いていたね。素行の記録も悪くない。だから、あの罠に引っかかったのは少し残念だったよ」


 それから、彼は値踏みするような視線を凱に移した。


「君はうちの従業員ではないが……彼女と定期的に接触している底辺の整備士だということは把握している。データをイースト区の違法サーバーから送信した経路も、すべてこちらで追跡済みだ」

「……俺たちが送った『アーカイブ・ゼロ』は、あんたらの息がかかってない独立メディアのはずだ!」


 凱が吠えるように言った。

 しかし、ゴールドスタインは可笑しそうに喉の奥で笑った。


「独立メディア、ね。確かに彼らは威勢がいいが……逆らえんのだよ。隠者たち(われわれ)にはね」

「……!?」


 その言葉の意味を、凌華は絶望と共に理解した。

 彼らが唯一の希望として縋った告発先すら、この男の掌の上だった。


 凱が、テーブルに身を乗り出すようにして口を開いた。


「あんた……自分が何をしてるか、分かってんのか」


 ゴールドスタインはわずかに眉を動かした。

 怒ったわけではない。路傍の石が突然喋り出したことに、少し興味を持ったような目だった。


「客の生体データを盗み見て、絶対に勝てないように確率を操作する。……それが何十万人に対して行われてるか、そのせいで何人が首を括ってるか、分かっててやってるのか!」

「当然、分かっているとも」


 ゴールドスタインは即答した。やはり、その表情には一片の罪悪感もなかった。


「すべて理解した上で、三十年以上この街でビジネスをやってきた。効率よく富を回収するシステムの何が悪い? 弱者が搾取されるのは自然の摂理だ。何か問題があるとすれば——」


 ゴールドスタインの目が、すっと細められ、機械のような冷たさを帯びた。


「君たちのような『不良品』がいることだ。弱者だというのに、強者に歯向かう。歯向かえるなどという『夢』を抱いている」


 凱が立ち上がろうとした瞬間、背後にいた男が凱の肩を激しく押さえつけ、椅子に縛り付けるように固定した。

 ゴールドスタインは軽く手を上げた。

 暴力を止めるためではなく、自分の話を引き取るための優雅な仕草だった。


「さて、建設的な話をしよう。君たちが、今後どうなるかということについて」


 部屋の外でエレベーターの作動音がした。

 分厚い静寂の部屋の中で、その機械音だけがやけに鮮明に聞こえた。


 凌華は、隣に座る凱の手がテーブルの下で、血が滲むほど強く握り締められているのを感じた。


 ゴールドスタインは再びグラスを手に取り、透明の液体を一口飲んだ。

 それからゆっくりと、這い回る虫を見下ろすような目で、二人を等分に見つめた。


「焦らなくていい。今夜はまだ……たっぷりと時間がある」


 笑顔のまま言った。

 その目は最初から最後まで、欠片も笑っていなかった。

隠者たちとかいう夢大嫌い同盟

どんだけ夢嫌いやねんコイツら!

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