【依頼人】反撃の牙
その夜の凌華は、いつもと違った。
バス停から食堂へ向かって歩いている間、凱はそれに気づいていた。
凌華が口数少ないのはいつものことだ。しかし今夜の沈黙は質が違う。
思考が内側に向いているときの穏やかな静けさではなく、何か重いものを必死で抑え込んでいるような、張り詰めた緊張感があった。
食堂のオレンジ色のテーブルに着き、いつもの合成コーヒーが運ばれてきても、凌華はカップに手をつけなかった。
「……何か、ありましたか」
凱が静かに尋ねると、凌華は少しだけ肩を揺らし、間を置いた。
「……別に、何も」
「嘘をつく前に、少し考える癖がありますよ。凌華さんは」
凌華はハッとして凱を見た。それから、降参するように視線を落とす。
「……見てしまったんです。ただ、この街では、きっとよくあることなので」
「よくあることでも。あなたが一人で抱え込んでいるなら、話してください」
凌華は冷めかけたカップを両手で包み込み、しばらく黙っていた。
やがて周囲の客に聞こえないよう、限界まで声を潜めて口を開いた。
「先週、フロアのシステム端末が一時的にバグを起こして……私のディーラー用管理画面に、本来アクセス権限のない別のウインドウが混入して。ほんの一瞬でしたが……スロットマシンの稼働データが映ったんです」
「稼働データ?」
「客ごとの、生体反応のリアルタイムログです」
「生体反応? スロットマシンのデータに……?」
凌華は、吐き捨てるように言った。
「スロットの座席に、隠しセンサーが内蔵されているんです。座った瞬間から、客の心拍数、発汗量、瞳孔の開き具合、血圧の変動を逐一計測している。……それを元に、AIが次の抽選結果を操作しているんですって」
凱は息を呑んだ。凌華はカップを握る手に力を込める。
「興奮して心拍が上がっている客には、絶対に大当たりを出さず、徹底的にむしり取る。逆に、絶望して心拍が下がり、席を立ちそうになった客には、小さな当たりを出して引き留める。……客の脳内麻薬の分泌量に合わせて、最も効率よく破産させるための『最適な負け方』を、システムがリアルタイムで書き換えていたんです」
「……それは」
「明確な違法行為です」
凌華は凱の言葉を遮るように言った。
「カジノの抽選は、確率的に公正でなければならないという厳しい業界規定があります。生体データを使ったリアルタイムの確率操作なんて、バレれば一発で営業停止になる。
でも、それがエリュシオン全店舗のスロットで行われている」
「全店舗って……いったい、何個の」
「……ログには、グループ全体のメインサーバーのIDが記録されていました。オーナーのゴールドスタインが、これを把握していないはずがない」
凱は言葉を失った。
食堂の雑音が、ひどく遠くに聞こえた。
カウンターの向こうでフライヤーを操作する調理ドローンの駆動音、隣の席で酔っ払いが笑う声。
それらがすべて薄っぺらな書き割りのように感じられた。
「それを……一人で抱えていたんですか」
「誰かに話しても、意味がないので」
「でも、俺には話してくれた」
「……あなたになら、話せると思ったからです」
凌華は少し顔を背け、自嘲気味に続けた。
「でも本当に、よくあることなんです。このウエスト区のカジノで、何かしらのイカサマをしていない店なんて一つもない。エリュシオンが特別に悪質なわけじゃなく、ただ『人を食い物にする技術』が他より進んでいるだけ。
……告発したところで。私みたいな末端のディーラーが証拠もなく騒いだところで、即座に揉み消されて消されるだけです。……そういう、よくある話です」
凱は、自分の泥水のようなコーヒーをテーブルに置いた。
「凌華さんは、それで納得してるんですか」
凌華は答えなかった。
「納得していないから、今日、そんな泣き出しそうな顔で歩いてたんじゃないですか」
「……顔に、出てましたか」
「いつも完璧なはずの仮面が、今日はぐしゃぐしゃになっている気がしました」
凌華は小さく息を吐き、認めた。
「納得なんて、していません。でもどうしようもない」
「――告発、できませんか」
静かな声だった。無責任に煽っているわけではない。
ただ純粋な「可能性」として聞いていた。
「証拠がありません。あの画面は一瞬で消えたし、録画もしてない。私がそれを見たという証言だけでは、警察は絶対に動かない。それに——」
そこで凌華は言葉を切り、唇を噛んだ。
「それに?」と凱が促す。
「それに、私はエリュシオンに命を握られてます。告発してバレれば、確実に解雇される。解雇されれば返済が止まる。返済が止まれば契約違反として法外な違約金が発生し、今の残高よりさらに絶望的な額を一括で請求される。……そうなれば、もう……」
凌華はそう言って、冷え切った合成コーヒーを一口飲んだ。
「だから、見なかったことにするのが正しい選択なんです。この街ではそれが正解で、私はそのルールを知っている。ただ——」
「ただ?」
「ただ、今夜はどうしても……なんだか、飲み込めなかっただけです。明日になればまた忘れて、作り笑いでカードを配れますから」
凱はしばらく、凌華の顔をじっと見つめていた。
「俺も、似たようなことがありました」
凌華が顔を上げると、凱は伏し目がちに話し始めた。
「半年前、工場の排気システムが基準値を超える有害物質を出しているのに気づいて。担当の上司に報告したら、逆に『検査の数値を弄って、書類上は正常値になるよう設定を変えろ』と指示されました」
「……それで、どうしたんですか」
「俺は拒否しました。でも結局、別の担当者がそれをやった。俺は『命令を拒否して便所掃除に回された』という事実だけが残って……現実は何も変わらなかった」
「……そうですか」
凌華はどうせそうだろうな、というような失望の表情があった。
「行政に告発しようとも考えた。でも、データの抜き出し方も、どこに持ち込めば安全かも分からなくて、結局何もしなかった。その後、イースト区で原因不明の呼吸器疾患が増えているってニュースを見たとき……自分は何一つ変えられなかったという、最悪の気分だけが残ったんだ」
凌華は彼を見た。
「後悔、していますか」
「してる。毎日」
凱は迷わず答えた。
「何もしなかった自分を、ずっと後悔している。でも今回の件は、俺じゃなくてあなたの命がかかってる。俺が無責任に『やれ』と言えることじゃない。……ただ、一つだけ言わせてほしい」
「……聞きます」
「証拠がないのは、今の時点での話だ。あなたが今後もエリュシオンのシステムに触れるなら、またあのデータにアクセスできる機会が来るかもしれない。次は記録できるかもしれない。
告発先だって、腐った警察だけじゃない。確たるデータさえあれば、外部のメディアやフリーランスのハッカーに持ち込む方法もある」
……凌華は黙って聞いていた。
「俺はあなたに、今すぐ危ない橋を渡れと言いたいわけじゃない。ただ、『完全に諦めて見なかったことにする』のと、『いつか反撃するために、静かに爪を研いでおく』のは、全く別の生き方だと思うんです」
食堂の照明が、一定のリズムで微かに瞬いた。深夜の省エネモードの切り替えだ。
凌華はチカチカと明滅する光を見ながら、凱の言葉を反芻した。
「……準備、ですか」
「そうです。すぐに動かなくていい。ただ、次に何かを見たとき、どう記録して、誰に渡すかを考えておく。それだけでも、ただ食い物にされるだけの毎日とは違うはずです」
凌華は手元のカップを見つめた。
「……もし私が動いて、それがバレたら、あなたにも迷惑がかかります」
「なぜ俺に迷惑が?」
「カジノのセキュリティは、私の交友関係を調べます。私と定期的に会っているあなたも、共犯者として連れ去られる可能性がある。どんな目に遭うか——」
「それは」
凱は凌華の言葉を遮り、はっきりと告げた。
「俺が決めることです。あなたが一人で勝手に背負い込んで、心配することじゃない」
凌華は目を見開いて彼を見た。
凱は真顔だった。虚勢を張っているわけでも、事態の重さを軽く見ているわけでもない。
ただ、心の底からそう思っている人間の顔だった。
(……これが、この人の『怒り方』なんだ)
凌華は胸の奥が熱くなるのを感じた。
自分が損をすると分かっていても、間違っていることを見過ごせない。
半年前の工場の話も、今夜の話も、根っこは同じだ。
以前、それを「馬鹿みたいだ」と笑ったとき、彼は「そうです」と嬉しそうに認めた。
凌華は少し目を伏せた。
これまでの凌華なら、ここで話を打ち切り、明日にはすべてを飲み込んでいただろう。
母が死んで、莫大な借金を押しつけられて、感情を殺してカジノに立ち続けてきた一年半。
そうやって、理不尽な現実を全部胃の奥に押し込んできた。
でも今夜は、目の前に凱がいる。
「……一つだけ、聞いていいですか」
凌華が言うと、凱は「どうぞ」と頷いた。
「もし……私が戦うことを決めたら。あなたは、協力してくれますか」
凱は少しだけ間を置いた。長い間ではなかった。
「します。俺にできることがあるなら、全部!」
「自分が破滅するかもしれないと分かっていても?」
「分かっていても」
凌華はカップをテーブルに置き、深く息を吸った。
「……次にあのデータにアクセスできたとき、必ずログを抜き出します」
声は低かったが、確かな意志が宿っていた。
言ってから、指先が微かに震えた。
カジノの報復への恐怖からか、それとも生まれて初めて自分の意志で「反撃」を選んだ興奮からか、凌華自身にも分からなかった。
「その後のデータの解析や持ち出し方……一緒に、考えてもらえますか」
「もちろん」
凱は短く、力強く頷いた。
それで十分だった。凌華は強張っていた肩の力を抜き、小さく息を吐き出した。
今夜の絶望が消えたわけではない。
むしろ途方もない危険を背負い込んだことで、現実はより重く、暗くなったはずだ。
だがその重さは、今夜初めて、凌華が一人きりで背負うものではなくなった。
食堂の照明がまた瞬き、深夜の雑音が、再び二人の周囲を取り囲むように流れ始めていた。
どうして余計なことをするんですか




