【依頼人】夜のデート
翌日も凱は来た。
しかし今夜の彼はこれまでと様子が違っていた。
凌華のテーブルに着席してからの最初のベットに、ずいぶん時間がかかったのだ。
ゲームの展開を熟考しているというより、どう振る舞うべきか迷っているような手つきだった。
カードが配られ、凌華が次のシャッフルに入った頃、彼は手元のチップを一枚だけ台の端に押し出した。
最低限の額。ゲームを続けるためだけの、口実のような賭け方だ。
ゲームが進む。勝ちも負けも、今夜の彼には大して関係なさそうに見えた。
カードを見ているようで見ていない。
視線は時折、さまようように凌華の方を窺っていた。
やがて他の客が二人席を立ち、テーブルには凱一人だけが残された。
BGMの低いベース音だけが響く数秒の沈黙の後、彼が静かに口を開いた。
「昨日は、ありがとうございました」
凌華は滑らかな手つきでシャッフルを続けながら、表情を変えずに答えた。
「何のことでしょうか」
「フロアマネージャーの忠告」
凌華は返事をしなかった。聞いていないふりをしてカードを配る。
「あれからずっと考えてたけど……名前を聞いておいてよかった。あなたの名前が分かれば、また会いにくる理由になるから」
「……カジノに来る理由としては、本末転倒かと」
「そうですね」
凱は少し笑った。悪びれた様子もない、素直な笑い方だった。
「でも、今日は賭けに来たわけじゃないので」
凌華は手を止めずに、初めて彼の顔を見た。
「では、何をしに」
「凌華さんと、話しにきました」
真顔だった。照れも衒いもなく、ただ事実を述べるような真っ直ぐな目。
凌華はカードを綺麗に揃えながら、僅かに息を吐いた。
「……ここでは、仕事の話しかできません」
「分かりました。じゃあ、仕事の話を聞かせてください。ディーラーという仕事のことを」
凌華は彼を見た。からかっているわけではない。本気で知りたがっている顔だ。
「……仕事の話というより、ただの退屈な作業の話になりますが」
「構いません」
それから凌華は、数分ほど話した。
シャッフルを習得するまでにかかった時間に、それを何時間も繰り返すこと。
そうしてしばらく話したあとで、閉店の一時間前に静かに席を立つと、彼は足早にエレベーターへと乗り込んでいった。
■
その翌日。
凌華のシフトが終わったのは、深夜の三時を回った頃だった。
従業員用の通用口は、エリュシオンの裏手を走る薄暗い路地に面している。
凌華が薄手のジャケットを羽織りながら外に出ると、路地の端に人影があった。
「あっ、凌華さん」
凱だった。
壁に背を預け、腕を組んで立っている。凌華の姿を認めると、彼は軽く手を上げた。
「……待っていたんですか」
凌華は立ち止まった。驚きより先に、長年培ってきた警戒心が勝る。
「はい。帰る方向が一緒なら、少し話しながら歩けないかと思って」
「……方向が一緒かどうか、知らないはずですが」
「そうですね」
凱は頭を掻き、正直に言った。
「俺は、イースト区方面のバス停に向かいます。もし逆方向なら、ここで失礼します」
「…………」
凌華は数秒だけ彼を睨むように見つめ、やがて小さくため息をついた。
「同じ方向です」
凌華が歩き出すと、凱が一定の距離を保ちながら隣に並んだ。
ウエスト区の深夜は、狂騒の余韻が残っている。
ホログラム広告のどぎつい光が濡れた路面を染め、人工の夜空の下を酔客たちがふらふらと歩いている。
ドラッグストアの店先からは、アイドルの甲高い歌声が垂れ流されていた。
二人はその光と音の波を避けるように、少し間を開けて歩いた。
「昨日、ありがとうございました。シャッフルのこと教えてくれて」
最初に口を開いたのは凱だった。
「大した話じゃありません。面白くなかったでしょう」
「俺にとっては大した話でした。あなたが七時間、何を考えながらあのテーブルの前に立っているのか、少しだけ想像できた気がして」
凌華は前を向いたまま答えた。
「何も考えていない時間の方が長いです」
「何も考えないって、どういう感覚ですか」
「……カードを配って、集めて、また配る。ただそれだけを繰り返していると、頭の中が完全に空っぽになる瞬間があります。すべてが作業の波に溶けるような。……それが、一番楽なんです」
「楽、ですか」
凱は少し間を置いた。
「俺も、工場でそういう瞬間があります。機械の整備をしてると、余計なことが全部消えて、油の匂いと部品のことだけ考えてる時間が来る。……それが一番落ち着く」
凌華はちらりと彼の横顔を見た。
「機械の整備を?」
「プレス機械の保守点検です。イースト区の第四製造棟で。もう五年になります」
「五年……」
凌華は小さく繰り返した。
「辞めようと思ったことはないんですか」
「あります。何度も」
凱は顔を上げ、空を見つめた。
ドームの巨大な内壁に映し出された『人工の星』が規則的に瞬いている。
「でも、辞めたところで次に何があるか分からない。イースト区で工場以外の仕事を探しても、どこも食いつぶされる条件ばかりで。それならまだ、やり慣れた場所で部品を触っている方がマシだと……毎回そう判断してしまう」
「それは、諦めですか」
自分でも驚くほど直接的な聞き方だった。
言ってしまってから少し後悔したが、凱は気分を害した様子もなく頷いた。
「半分は諦めで、半分は……恐怖かな。先が見えないから、動けない。この街でどう生きるかを考えろって言われても、判断する材料がないんです。だから今いる場所に留まり続けてる」
しばらく二人で歩いた。
ホログラム広告の光が、凱の横顔を青く、赤く、また青く照らしていく。
「凌華さんは……」
不意に、凱が言った。
「カジノを、辞めたいですか?」
凌華は冷たい夜風を肺に吸い込み、少し考えてから答えた。
「……辞められません」
「理由を、聞いてもいいですか」
大通りの交差点。遠くにバス停の看板が見えてきた。凌華は足を緩めた。
「母が借金を残して死にました。それを、私が引き継がされています。働いた給料の六割を自動的に返済に充てる契約なので、返し終わるまでは辞められないんです」
凱は立ち止まり、何も言わなかった。
安っぽい慰めの言葉を探す気配も、同情する素振りもなかった。
ただ、痛みを共有するようにじっと聞いていた。
その静かな聞き方が、凌華にはひどく心地よかった。
遠くから、イースト区行きの深夜バスの接近を知らせる電子音が響いてきた。
■
それから凌華と凱は、週に二度ほど顔を合わせるようになった。
凱はもうカジノには来なかった。
代わりに凌華のシフト終わりにバス停で落ち合い、近くのダイナーで一時間ほど話した後、それぞれの家へ帰るのがお決まりになった。
食堂は二十四時間営業の安価なチェーン店。
深夜は工場のシフト明けの労働者や、行き場のない若者たちで半分ほど埋まっている。
けばけばしいオレンジ色のテーブル。
栄養ペーストのプレートと、泥水のようなコーヒーフレーバーの合成飲料。
二人は向かい合って座っていた。
「その顔、どうしたんですか?」
凌華は思わず聞いた。凱の顔には、明らかな腫れがあった。
「いやぁ、ちょっと揉め事でね。……凌華さんは、怒ることってある?」
「……不思議な質問ですね。いつも怒っていますよ。でも、表に出さないだけ」
「……そうか」
凱はコーヒーフレーバーを一口飲み、眉間を揉んだ。
「俺はそういう器用な怒り方ができない。怒ると全部顔に出ちまって、結局いつも損をする」
「その顔も、そうだったんですか」
「上司に、整備の安全手順を省略しろって言われてね。生産の時間を惜しんで。でもそれをやると機械の精度が落ちて、半年後には必ず致命的な故障を起こす。そう説明したら、『それは半年後の話だろ』って笑われました」
凌華は彼を見た。
「言い返したんですか」
「思い切り。おかげでお互い揉めて」
凌華はしばらく彼を見ていた。
それから——小さく、吹き出した。
自分でも気づかないくらいの、自然で柔らかな笑みだった。
「……本当に、損をする怒り方ですね」
「分かってますよ」
凱は照れ隠しのように苦笑した。
「でも、手順を省いたら壊れるって分かってるのに、黙って見過ごすことは俺にはできない。どっちも上手く選べないから、毎回バカを見るんです」
「馬鹿みたいですね」
凌華は言ってから、少し焦って口元を押さえた。しかし凱は声を上げて笑っていた。
「そうです。昔から、ずっとそう言われて生きてきました」
■
ある夜、食堂が珍しく混んでいて席が取れなかった。
二人は仕方なく、自販機で買った飲み物を手に近くの公共通路に出た。
ウエスト区の地上三階にある回廊で、都市を覆うドームの内壁が一番近くに見える場所だ。
壁面に埋め込まれた無数のLEDが、夜のモードで青白く瞬いている。
本物の星空を模した光だが、本物の星を見たことがある人間など、この辺りには一人もいない。
凌華は冷たい手すりに凭れながら、光の天井を見上げた。
「……きれいだと、思いますか。あれ」
凌華がぽつりとこぼすと、凱は缶コーヒーを握りしめたまま答えた。
「本物を見たことがないから、比べられない。でも……きれいだとは思います」
「私は、あれが精巧な作り物だと思うと、少し腹が立ちます」
「本物の星が、見たいですか」
「見たいというより……」
凌華は少し迷い、言葉を探すように宙を見つめた。
「この街の外が、本当はどうなっているのか実際に見てみたい。ドームの外は汚染されていて危険だというのが、本当のことなのか。それとも、私たちを閉じ込めておくための嘘なのか。誰も教えてくれないから」
凱は凌華の横顔を見た。
「……俺も、同じことを考えてました。働き始めてから、五年間ずっと」
「凱さんも?」
「工場で油まみれで機械を直しながら、ずっと。この街の設備は、全部『内側』に向いてる。
ドームのヒビを直す技術はあるのに、外に出るためのゲートや探査設備はどこにもない。上司になぜかと聞いたら『外はまだ致死性のガスが充満してるからだ』と言われた。
……でも、そのデータの根拠を聞いたら、誰も答えられなかった」
凌華は彼の顔を見た。暗がりの中、彼の瞳だけが強い光を反射していた。
「外に、出たいですか」
「出たいです」
凱は一切の迷いなく即答した。
「出たい。でも、出る方法がない。だから……足がカジノに向いてたんだと思います。あそこに座ってカードを見てる間だけ、この街の重力みたいなものが遠のく気がして。本当は何も解決してないのに、ただ先延ばしにしてただけで」
「……分かります」
凌華は、痛みを分かち合うように小さく呟いた。
「分かりますか……?」
「はい。笑顔の仮面をつけて立っている間、私も同じことをしています。今日の地獄を見ないようにしている。でも、シフトが終わって通用口を出ると、全部の重さが戻ってくる」
二人は手すりに並んで凭れかかり、黙って光の壁を見ていた。
どこか遠くの階層から、微かに電子音楽のベース音が響き、また風に流されて消えた。
凱が、ぽつりと言った。
「凌華さんと話してると、頭の中のノイズが静かになる気がします」
「私は……気の利いたことは何も言えませんが」
「上手い下手じゃなくて。あなたが本当のことを言ってくれるから」
凌華はハッとして彼を見た。
「……本当のこと、ですか」
「はい。笑顔が作り物だってことも、心の中では怒り続けてるってことも、借金の終わりが見えないってことも。俺が知りたいと思ったことを、全部誤魔化さずに言ってくれる」
凌華は少し目を伏せ、自分の指先を見つめた。
「あなたが……真っ直ぐに聞くから、つい答えてしまうんです」
「俺は聞きたいから、これからも聞き続けます」
凱はそう言うと、少し照れたように視線を光の壁に戻し、缶コーヒーを煽った。
凌華はその不器用な横顔を見つめていた。
仮面をつけていない自分の顔が、今どんな表情をしているか、凌華には分からなかった。
ただ、ずっと胸にのしかかっていた氷のような重さが少しだけ形を変え、溶け出していることには気づいていた。
借金が消えたわけでも、街から出られるわけでもない。
それでも、隣に彼がいるだけで呼吸がしやすかった。
「……凱さん」
「はい」
「来週も、ここで会えますか」
凱は驚いたようにこちらを向き、それからふっと目を細めた。
いつかカジノのテーブルで見せてくれたのと同じ、作り物ではない、柔らかい笑い方だった。
「来ますよ。毎週でも」
見上げれば、頭上の光の壁が静かに瞬いている。
本物の星ではない。それでも今夜だけは、とてもきれいだと凌華は思った。
もうここでハッピーエンドでいいんじゃないか
そんな希望を覆すのがこの国ですぞ




