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【依頼人】カジノディーラー

 イスラは薄く笑いながら指先で空を弾いた。

 軽い電子音と共に、ホログラムのウインドウが展開される。


 旧地下鉄ターミナル跡の薄暗い空間に、一人の男の顔が浮かび上がった。

 六十代半ば。白髪を丁寧になで付け、いかにも上品に仕立てたスーツを纏っている。


「マルコム・ゴールドスタイン。ウエスト区最大のカジノチェーン、『エリュシオン・グループ』のオーナーだ」


 イスラはタバコの煙を細く吐き出しながら言った。


「表の顔は慈善家でね。区の振興事業にも積極的に出資しているから、善良な市民からの人気も高い」

「裏の顔は?」

「当然、少し違う」


 イスラは一拍置き、空中のウインドウをスワイプして別のファイルを開いた。


 そこに映し出されたのはカジノの華やかなネオンとは無縁。

 薄汚れた裏路地や、債務者たちのリストだった。


「高利貸し、違法ギャンブル、そして債務奴隷。カジノに来た客を系統的に食い物にして、絶対に返せない額まで追い込む。返せなければ、骨の髄まで働いて返せ……ただそれだけの話だ」


 カーバンクルは無言のまま、空中に浮かぶ男の顔を眺めた。


「証拠は?」

「今から見せよう」


 イスラは口角を上げ、芝居がかった手つきでホログラムを操作した。


「ウエスト区の底に沈んだ、ある悲恋の物語を」



(……はぁ)


 凌華(リンファ)が『エリュシオン』に来たのは、一年半前のことだ。

 いや、正確に言えば「来た」のではない。「連れてこられた」のだ。


 母が死んだのは、その三週間前。


 イースト区の安宿で、誰にも看取られずに息を引き取った。

 カルテに記された死因は肝不全だったが、凌華はそれが真実だとは思っていない。


 本当の死因は「借金」だ。


 ゴールドスタインの高利貸しから融資を受けたのは、母が仕事を失った五年前のこと。


 最初の額は大したものではなかった。しかし、利率が常軌を逸していた。

 月々の返済が利子にすら追いつかない、最初から破綻した設計だったのだ。


 母は身を粉にして働き、五年かけて元本の三倍を返済した。

 それでも残高は増え続けた。


 そして母が死んだ翌週。

 薄暗い凌華のアパートに、仕立てのいいスーツを着た男が二人、静かに立っていた。


「お母様の債務を、お嬢さんに引き継いでいただくことになりました」

「……え?」


 男たちの口調はひどく事務的で礼儀正しかった。

 声を荒げることも、凄むこともしない。

 ただ、帰り際にドアノブに手をかけたまま、振り返らずに一言だけ付け加えた。


「拒否される場合は、ただちに法的手続きを取ります。お母様が署名された契約書には、連帯保証の条項が含まれておりますので」

「な……に、それ」

「ただ、我々も鬼ではありません。よろしければ職業を紹介します。我々のグループでの、華やかな仕事を」


 凌華は十九歳だった。弁護士を雇う金などあるはずもなく、頼れる親戚もいない。


 一週間後、彼女はエリュシオンなるカジノの「ディーラー研修」に参加していた。


 『給料の六割が、自動的に返済に充当される』……そんなふざけた条件に同意するサインを書かされて。


 返し終わるまでに何年かかるのか。そんなことは誰も教えてくれなかった。



 エリュシオンの営業フロアは地下二階に広がっている。


 エレベーターのドアが開くと、まず「音」の波が押し寄せてくる。


 低く安定した電子音楽。

 チップが積み重なるカチャカチャという乾いた音。

 客の笑い声とため息。

 それらが混ざり合い、ひとつの熱を帯びた塊となって出迎える。


 次に「光」だ。

 天井から床まで、あらゆる面に埋め込まれた間接照明が、室内全体を甘い蜂蜜色に染め上げている。


 テーブルの端やカード台の縁からは、薄いホログラムの装飾が常に揺らめき、客の周囲に夢のような陽炎を作り出していた。


 この光の中では、時間の感覚が溶けて消える。

 昼も夜もなく、疲労感すら麻痺していく。


『お客様に、いつまでもここにいたいと感じさせること』


 それがエリュシオンの設計思想だ、と凌華は研修で教わった。

 心地よい感覚が滞在時間を延ばし、消費額を増やすのだと。


(心地よい感覚ね。いったい誰が、こんな地獄で心地よくなれるんだか)


 現場に立つ凌華は知っている。実際の設計思想はもっと悪辣で、単純だ。

 ——客がなるべく長く留まり、なるべく多くを失うこと。ただそれだけ。


「……プレイヤーズ・ターン」


 凌華の澄んだ声が、フロア中央付近のポーカーテーブルに響く。


 午後八時の開店と同時に定位置に立ち、翌朝三時の閉店まで七時間。

 ほぼ動かずにシャッフルとディールを繰り返すのが、彼女の日常だった。


 ディーラーの仕事には、精密機械のような技術が要る。

 均一なシャッフル。絶妙なタイミングのディール。カードの扱いに一切の迷いがあってはならない。


 凌華はそれらを二週間で習得し、研修担当者に舌を巻かせたが、嬉しい気持ちなどこれっぽっちも湧かなかった。


 技術よりもさらに困難だったのは、「表情の管理」だ。


 客が大勝ちして歓声を上げても、大負けしてテーブルを叩いても、ディーラーは感情を読ませてはならない。しかし、無表情は許されない。

 常に口角をわずかに上げ、『穏やかな微笑』を保ち続けること。


(お客様を歓迎する気持ちを、表情に……バカバカしい)


 研修担当者の言葉を思い出しながら、凌華はカードを配る。


 彼女にとって、この笑顔はただの「仮面」だった。

 仮面の下で何を考えていようと、客には絶対に届かない。

 だから凌華は毎晩、仮面の裏側で冷ややかに人間を観察していた。


 エリュシオンに来る人間は、大きく二種類に分けられる。

 余裕がある人間と、余裕がない人間だ。


 前者はセントラル区の中層以上の住人で、十万クレジット負けても翌日には忘れてしまう連中だ。


 問題は後者——イースト区やサウス区の底辺から足を運び、一勝にすがるような目をしている連中である。


 ゴールドスタインのシステムが本当の標的にしているのは、彼らだった。

 入口で配られる『体験無料クーポン』で小額の勝ちを味見させ、翌日には『次回割引』の甘い通知を送る。


 そして負けが込んだ頃合いを見計らい、フロアマネージャーが背後から囁くのだ。

 『追加クレジットのご案内です』と。

 暴利の仕組みは、契約画面の最下部に極小の文字で記されているだけ。


 凌華は毎晩、その地獄行きのサイクルを特等席で見続けていた。


 今夜のテーブルには、四人の客が座っている。


 一人目は初老の男。仕立てのいいジャケットからはセントラル区の香りがする。これは余裕のある側だ。

 二人目と三人目は観光客らしいカップルで、楽しそうにチップを弄っている。


 凌華の視線は、無意識のうちに「四人目」に引き寄せられていた。


 飾り気のない、イースト区の作業服を着替えただけの青年だった。


 二十代前半。短く切った黒髪。

 手元のカードをめくる手の甲には、機械整備の現場で付いたような薄い傷跡がいくつもある。


 彼は他の三人のように、浮かれた様子で札を出していなかった。

 ベットのたびに慎重に考え、勝っても小さく息を吐くだけだ。


(……来てはいけない人間ね)


 凌華は仮面の下で、静かに目を細めた。


 このカジノは、彼のような人間からすべてを搾り取るために作られている。

 もし彼がそれを理解していないなら、ひどく危うい。

 理解した上で一攫千金を夢見て来ているなら——それはあまりにも悲しい。


 シュッ、と微かな音を立てて、カードが空気を切る。


 ホログラムの光が青年の横顔を柔らかく照らし、彼を実際よりも少しだけ若く、少しだけ幸せそうに見せていた。


 仮面の下で、凌華の中に何かが静かに積み重なっていく。


 怒りと呼ぶには、まだ輪郭が定まらない何か。

 しかし確実に、毎晩少しずつ降り積もる黒い感情。


(……どうでもいい。誰が破滅しようと、私には関係ない――ただ働くだけ)


 凌華は完璧で穏やかな微笑を浮かべたまま、一枚、また一枚と正確にカードを配り続けた。

この街で悲恋じゃない恋愛あるんかな…

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