【404】イスラとヴァイス
ウエスト区の地下深層。
旧・第十四地下鉄ターミナル跡は、都市のはらわたのように静まり返っていた。
かつて数万人の市民を飲み込み吐き出していた広大なコンコースは、今や完全な廃墟だ。
天井からは神経束のような太いケーブルが垂れ下がり、錆びついた自動改札機が墓標のように並んでいる。
ショートしたホログラム案内板が暗闇の中で『希望の未来へ ネオ・アルカディア』という色褪せたスローガンを幽霊のように明滅させていた。
カーバンクルはプラットホームの縁に立ち、ライトの消えたトンネルの奥を見つめていた。
足元には分厚い埃が積もり、乾いたネズミの死骸が転がっている。
トンネルの闇に響く、規則正しい足音。
硬い革靴がコンクリートを叩く音だ。
カーバンクルは振り返らず、ただ赤い義眼のセンサーを音の方向へ向けた。
「やあ、カーバンクル。待たせたね」
声と共に、闇の中から純白が浮かび上がった。
イスラ・テスラ。塵一つない仕立ての良い白いスーツに、完璧に整えられた金髪。
右手には、銀色の小型ジュラルミンケース。
左手はポケットに突っ込んだまま、彼はリラックスした足取りで歩み寄ってくる。
カーバンクルは無言で彼を見据えた。
イスラは数メートル手前で立ち止まり、懐かしむように廃駅を見回す。
「ここは三十年前まで、セントラル区とウエスト区を繋ぐ大動脈だった。今じゃ誰も寄り付かない死んだ空間だ」
イスラは微笑み、手に持っていたケースをプラットホームのベンチに置いた。
ロックを解除する電子音が響き、プシューッと白い冷気が漏れ出す。
「ささやかな報酬を持ってきた。受け取ってくれるかな?」
「なに?」
カーバンクルはケースの中を覗き込んだ。
冷却ガスが晴れたそこにあったのは、鮮やかなオレンジ色をした楕円形の物体が二つ。
表面は滑らかで、濡れたような艶がある。
網膜のデータベースが検索をかけ、該当する情報をポップアップさせた。
「……マンゴー?」
「正解だ」
イスラは満足げに頷いた。
「温室プラントから仕入れた完全な天然物だ。今のネオ・アルカディアじゃ、一部の『隠者』たちと私くらいしか口にできない代物だよ」
イスラはケースから果実を一つ取り出し、カーバンクルに向かって放り投げた。
カーバンクルは片手でそれを受け取る。
ずっしりとした水分の重み。合成プロテインのブロックにはない、有機物特有の冷たい感触。
「ローレンス、エリザベス、そしてレックス・ドレイク! 三人の『隠者』を排除してくれたお祝いだ。君の仕事ぶりには心から感謝している」
イスラは自分の分のマンゴーを取り出すと、懐から銀のペーパーナイフを抜き、皮に刃を滑らせた。
慣れた手つきで格子状に切れ目を入れ、果肉を押し出す。
黄金色の果肉が露出し、強烈に甘い香りが漂った。
カーバンクルは手の中の果実を見下ろした。
どうやって食べるのか、一瞬迷う。
「……ナイフ貸して」
「ああ。はい」
イスラの動きを真似て、ナイフを皮に入れた。
不器用だが、なんとか果肉を切り出す。
「マンゴーを食べるのは初めてかい?」
「……たぶん」
「そうか。なら、ゆっくり味わうといい。この街にいる限り、もう二度と口にできないかもしれないからね」
イスラは切り分けた果肉を口に運び、目を閉じて深く味わった。
カーバンクルも無言で果肉を削り、口に放り込む。
(——!)
圧倒的な甘さとわずかな酸味。そして、口の中で溶けるような繊維の食感。
合成甘味料の単調な味とは次元が違う、複雑で芳醇な味が食道から胃へと落ちていく。
カーバンクルは表情こそ変えなかったが、食べる手は止まらなかった。
「美味しいだろう?」
「……うん。おいしい」
短く答えるカーバンクルに、イスラは優しく微笑んだ。
「外の世界には、まだこういうものがある。本物の食べ物、本物の空、無限に広がる大地。ネオ・アルカディアは安全だが、完全に閉じられた鳥籠だ。このままじゃ、人類はここでゆっくりと腐っていくだけだ」
イスラはナイフを仕舞い、プラットホームの端へ歩み寄った。
「だからこそ、私は外と繋がりたい。この地下鉄を復活させ、他のドーム都市との物流ネットワークを再構築する。人々に『本物』を届けたいんだ」
果肉を飲み込みながら、カーバンクルはイスラの背中を見つめた。
美しい理想だ。
だがその言葉の裏には、どこか冷たい狂気が張り付いているように聞こえる。
カーバンクルはナイフの刃を拭いながら、核心を突いた。
「……ヴァイスと、繋がってたの?」
イスラの背中がピタリと止まった。
ゆっくりと振り返る。穏やかだった碧眼が、刃物のように細められていた。
「……レックスから聞いたのかな。ああ、その通りだ」
イスラは隠さなかった。
「彼がまだ、一介の学者だった頃からの付き合いだ。技術カンファレンスで知り合い、互いのヴィジョンに惹かれた。彼は『新人類計画』による生物学的な進化を。私は地下鉄による環境的・社会的な拡張を」
「協力してたの?」
「いいや。決裂したよ」
イスラは首を横に振った。
「彼のやり方は急進的すぎた。全市民の体を、外の世界の過酷な環境に強制適応させる……それはもはや人間ではない別の何かだ。私は環境を変えるべきだと主張したが、彼は人間を変えるべきだと言って譲らなかった」
「でも、目的は同じだった……」
「そうだ。この鳥籠から出る。人類の未来を切り開く。その一点においてのみ、私たちは一致していた」
カーバンクルの赤い瞳が、イスラを射抜く。
「仲間だったの?」
イスラは少し考え、薄い笑みを浮かべた。
「仲間、というのは少し違う。強いて言えば……『共通の敵』を持つ者同士かな」
「共通の敵……」
「この街を永遠の鳥籠にしようとしている連中。特権階級の老害ども——『隠者』たちだ」
イスラの目に、明らかな憎悪の炎が宿った。
「ヴァイスは市長という権力を使って、表と裏から奴らを攻撃した。私は地下鉄計画で、奴らの物理的な閉鎖空間を壊そうとした。
……だが結果としてヴァイスは死に、隠者たちは復活し、私の計画は息の根を止められかけている」
イスラはカーバンクルに歩み寄り、懐から薄型のホロ・デバイスを取り出した。
空中に、七人の男女の顔写真が投影される。
「残り、七人……」
「そうだ。全員を排除すれば、隠者たちのネットワークは崩壊する。私の地下鉄計画への妨害もなくなり、外の世界への扉が開く」
カーバンクルは空中に浮かぶ顔ぶれを一瞥した。
どれもこれも高級なサイバーウェアで着飾り、傲慢な脂ぎった顔をしている。この街の養分を吸い尽くすダニ達だ。
「……それで?」
カーバンクルは視線をホログラムからイスラへと移した。
「それで、と言うと?」
「ヴァイスとの関係。敵の敵は味方。……本当に、それだけ?」
カーバンクルの声は平坦だが、その奥には明確な疑念が刃のように潜んでいた。
レックスが死に際に残した言葉。ヴァイスとイスラは、ただの同盟関係以上の「何か」を企んでいた。
イスラは完璧な笑みを崩さなかった。
だがその碧眼の奥で、何かが冷たく渦巻いているのをカーバンクルは見逃さなかった。
「……それだけじゃあない」
イスラの声のトーンが、一段階低く響いた。
イスラは廃駅のコンコースを歩き始めた。
カーバンクルはプラットホームの端に立ったまま、その背中を静かに見つめていた。
「ヴァイスと私は、確かにアプローチの面で完全に決裂した」
イスラが振り返らずに、反響する声で語りかける。
「彼は人間の肉体を弄り、環境に適応させようとした。私はインフラを拡張し、環境そのものを変えようとした。水と油、交わることはなかった。……だが、彼だけは私のヴィジョンを評価してくれた」
イスラは錆びついた改札機の前で立ち止まった。
指先で分厚い埃を払い、朽ちかけた金属の表面を愛おしそうに撫でる。
「市長になった彼は、私の会社に莫大な投資をしてくれた。表向きは技術提携。だが実態は、隠者たちからの経済制裁を凌ぐための防衛資金だった。ネクサス・リンク社が今日まで生き延びられたのは、紛れもなくあの男の支援があったからだ」
カーバンクルは沈黙したまま、赤い義眼でイスラのバイタルを計測する。
心拍数、体温、発声の周波数。全てが「真実」を示している。
「私も彼を評価していた。倫理観の欠如した狂気の科学者ではあったが、その才能と政治的手腕は本物だった。何より、彼が本気で人類の未来を憂いていたことは疑いようのない事実だ」
イスラは改札機から手を離し、ゆっくりとカーバンクルに向き直った。
穏やかだった碧眼に、暗く冷たい炎が灯っている。
「だからこそ……君が彼を殺した時、私は心底、君を憎んだよ」
声のトーンがさらに一段階落ちた。
温厚な実業家の仮面が剥がれ、一人の男の剥き出しの敵意が空気を震わせる。
「ヴァイスはこの街には絶対に必要な存在だった。隠者どもを力でねじ伏せ、私の計画の盾となってくれていたんだ。それを君は……あんな見世物のような公開処刑で惨殺した」
「…………」
カーバンクルの表情はピクリとも動かなかった。
イスラは一歩、靴音を鳴らして近づく。
「だから、私は君の全てを調べ上げた。『404号室の始末屋』。ノース区の汚染地帯の生き残り。そして……ヴァイス自身が作り上げた『最高傑作』であることもな」
イスラの目に、鋭利な刃物のような光が宿る。
「私は決断した。君を殺そうと」
カーバンクルは微動だにしなかった。
イスラはさらに一歩近づく。
距離は3メートル。カーバンクルの間合いだ。
「……だが、君を調べれば調べるほど、理解してしまった」
イスラはそこで立ち止まり、ふっと敵意を収めた。
「君の圧倒的な生存能力。完璧なタスク処理。そして、権力や金に靡かず、システムの外側から標的を排除する特異性。
君を殺すよりも利用したほうが、遥かにこの街のためになるとね」
カーバンクルは数秒、沈黙した。
イスラの言葉を脳内で咀嚼し、演算する。
そして小さく息を吐き、肩をすくめた。
「……そう」
イスラは拍子抜けしたように、薄く笑った。
「……怒らないのか?」
「別に。私自身が復讐の対象になることは、覚悟の上だから」
カーバンクルは平坦な声で答えた。
「あなたがヴァイスの狂信者で、復讐のために私を殺す腹積もりなら、今ここで処理するつもりだった。
でも、そうじゃない。あなたはただの合理主義者で、お互いに利用価値がある。……それで十分」
「クールだね、君は」
「それより、次のターゲットのデータを送って」
淡々とした要求に、イスラは呆れたような、あるいは感心したような表情を浮かべた。
しかし、すぐにいつもの柔和な笑みに戻る。
「……君には感情がないのか?」
「ある。でも、ノイズにならないようにしてるだけ」
「なるほど。実に優秀だ」
イスラは懐から薄型のホロ・デバイスを取り出し、空中に一人の男の顔写真を投影した。
六十代半ば。恰幅の良い体型に、オールバックの白髪。
仕立ての良い高級スーツを着こなし、両手には悪趣味なほど巨大な宝石の指輪をいくつも嵌めている。
唇の端を吊り上げて笑っているが、その灰のような目は全く笑っていない。
「次の標的だ。名前はマルコム・ゴールドスタイン。隠者の一人であり、この街の娯楽を牛耳る『カジノ王』だ」
イスラが冷たい声で説明を始める。
「そして……君が以前、依頼で関わったデイヴィッド。あの善良な男が借金まみれになり、絶望の淵に堕ちた元凶——その胴元でもある男さ」
ヴァイスはアレなやつでしたが優秀だし強いし社会的地位もあり、慕っている人もいました
死後評価が上がるラオウみたいだ




