【404】あの男の過去
三年前――。
深夜の無機質な廊下を、レックスは足音すら殺して歩いていた。
非常灯の青白い光だけが、等間隔に並ぶ分厚いチタン製のドアを照らしている。
ターゲットは最奥の特別研究室。
ネオ・テックの主任研究員、マーカス・ヴァイス。
『隠者』たちからの依頼はシンプルだった。
「研究成果ごと消し去れ。事故に見せかけろ。無理ならミンチにして下水道に流せ」。
裏社会の覇権を握る『隠者』たちにとって、一介の科学者など路傍の石に等しい。
(……インテリの始末ね。欠伸が出るぜ)
レックスはインカムを叩き、先行させていた六人の部下に配置を命じた。
非武装の科学者相手に一個分隊。過剰戦力もいいところだ。
『ターゲット確認。現在、研究室から出ました』
「よし。音を立てるな。一瞬で終わらせろ」
レックスは廊下の角に身を潜め、拳銃を抜いたまま様子を窺った。
分厚い扉が開き、一人の男が歩み出てくる。
白衣を着た、一見するとどこにでもいる研究者。
きっちりとした金髪のオールバック。にこやかな細目はひどく静かで、知性を感じさせた。年齢は四十代半ば。
角を曲がった瞬間、六人の戦闘員が音もなくヴァイスを包囲した。
前後左右、逃げ場のない完璧なフォーメーション。
だがヴァイスは立ち止まり、まるで観察するように周囲を見回した。
「……なるほど」
ヴァイスの声には、微塵の恐怖もなかった。
「『隠者』たちの清掃員か。予想はしていたが、思ったより対応が早い」
「黙れ。動くな」
背後に立った戦闘員が、スタンガンを兼ねた警棒を振り上げる。
だがヴァイスは両手を白衣のポケットに突っ込んだまま、薄く笑った。
「忠告しておこう。私を『物理的』に排除しようとするのは、非効率だよ」
「何言ってやがる!」
警棒が振り下ろされる。
直後、レックスの視界がバグった。
ヴァイスの体が、映像のコマ落ちのようにブレたのだ。
鈍器を紙一重で回避すると同時に、ヴァイスは極限まで姿勢を低くして懐に潜り込んでいた。
そして床を削るような踏み込みと共に、背中から男の胸板へ強烈な鉄山靠を見舞う。
「ギャッ!!」
分厚い防弾ベストごと肋骨が粉砕される、嫌な音が響いた。
大柄な戦闘員がまるでボールのように宙へ浮き上がり、天井に激突して動かなくなる。
「遅いな。いや、人間じゃこんなものか」
ヴァイスは独り言のように呟いた。
残りの五人が一斉に飛びかかる。
二人がナイフを抜き、三人が銃を構えた。
だが、当たらない。
ヴァイスの動きは流麗にして残忍だった。
迫るナイフの軌道を最小限の動きで逸らし、手首の関節を逆方向に極めながらへし折る。
そのまま男の腕をテコにして宙を舞い、弾丸の雨を回避しながら、別の男の顎へ回し蹴りを叩き込んだ。
バキリ。
乾いた骨折音が響く。
(……なんだ、あの動きはッ!?)
レックスは物陰で息を呑んだ。
科学者のはずだ。培養液とデータモニターに囲まれて生きている、ひ弱なモルモットのはずだ。
だが目の前で繰り広げられているのは、訓練された特殊部隊ですら到達できない、洗練されたCQCと武術の極致。
三十秒。
たった三十秒で六人のプロフェッショナルが、全員床に転がる肉塊へと変わっていた。
「ふぅ」
ヴァイスは白衣についた埃を軽く払い、乱れのない呼吸のまま、レックスが潜む角の方へ視線を向けた。
「そこにいるのは指揮官かな?」
隠れていても無駄だ。
レックスは舌打ちをし、廊下に姿を現した。
銃口をヴァイスの眉間にピタリと合わせる。距離は十メートル。
「……ただの頭でっかちかと思ったが、随分と面白い手品を使うな」
「研究の応用でね」
ヴァイスはポケットから両手を出さないまま、優雅に微笑んだ。
「私の脳には、東洋武術と、CQCの達人の戦闘データが直接焼き込まれている。ついでに、全身の骨格もチタンで強化置換済みだ。君たちのオモチャでは、私の骨一つ折れない」
サイバーウェアの自家中毒。人体改造の極致。
この男、狂っている。
「動くな。次に動けば、そのイカれた脳髄をぶち撒けるぞ」
「撃てるかな?」
ヴァイスの瞳がレックスを射抜いた。
その底知れない圧力に、歴戦の傭兵であるレックスの指が硬直する。
「私を殺せば、新人類の進化はここで止まる。この箱庭は、永遠に『隠者』たちの腐ったおもちゃ箱のままだ」
「知ったことかよ。俺は金で動く」
「知るべきだよ。君もこの街にいる以上、無関係ではないのだから」
ヴァイスは一歩、レックスへ近づいた。
銃口を向けられているというのに、プレッシャーを放っているのはヴァイスの方だった。
「『隠者』たちは外の世界との接続を恐れている。だが、私は壁を壊す。この街の人間――いや、すべての人類を次のステージへと引き上げる」
「寝言は棺桶の中で言え」
レックスは冷笑した。銃を持つ手に力を込める。
「今日俺がしくじっても、明日は別の暗殺者が来る。お前がどんなサイボーグだろうと、外を目指す限り『隠者』たちは何度でも仕掛けてくるぜ。それがこの街のルールだ」
「なるほど。それは、たしかに少し厄介だね」
ヴァイスが静かに答えた。
「そうだな……確かに、主任研究員程度の社会的地位では、連中の攻撃が面倒なままか」
「ハッ、市長にでも立候補してみるんだな。そうすりゃ連中も手が出せなくなるだろうぜ」
レックスの皮肉。
しかし、ヴァイスは面白そうに目を細めた。
「素晴らしい提案だ。実は、既に立候補の準備を進めていたところなんだ」
「……あ?」
「市長権限を掌握し、彼らを法的に切り裂く。そうすれば、より合法的に新人類計画も進められる」
ヴァイスはさらに一歩近づき、レックスの銃口のすぐ目の前で立ち止まった。
「今日は見逃してあげよう。次に会う時、私は市長だ……誰につくべきか、よく考えておくといい」
そう言い残し、ヴァイスは踵を返して廊下の奥へと消えていった。
レックスは、ただの一発も引き金を引くことができなかった。
床に転がる部下たちは、全員骨を折られながらも生かされていた。ヴァイスは『殺す価値すらない』と判断したのだ。
「……バケモノがッ」
それが、レックスとマーカス・ヴァイスの最初で最後の接触だった。
■
「があっ……!」
関節を極め上げられ、レックスは荒い息と共に現実へと引き戻された。
背後には、あの化け物を葬り去ったさらなる化け物……「404号室の始末屋」が立っている。
「……狂人は、本当にシステムを乗っ取っちまったのさ」
レックスは折れた指の激痛に耐えながら、血の混じった唾を吐き捨てた。
「選挙戦は圧勝。改革派の若き天才科学者、希望に満ちたホログラム演説。市民どもは熱狂した。『隠者』たちは本気で焦ってたぜ……」
カーバンクルは関節を極めたまま、無言で聞いている。
「市長になったヴァイスの野郎は、即座に動いた。『治安強化』と『不正摘発』を大義名分にして、隠者たちのフロント企業を次々と強制捜査した。裏では資金洗浄のルートを物理的に潰し、脅迫も辞さなかった。あの男は、本気でこの箱庭の支配者どもを皆殺しにするつもりだった」
「……でも、死んだ」
カーバンクルの平坦な声が落ちる。
「ああ、死んだとも。つい最近な」
レックスは苦痛に顔を歪めながらも、皮肉に満ちた嘲笑を浮かべた。
「ずいぶん他人事だな。お前が殺したんだろうが。404号室の始末屋サマよォ」
カーバンクルの赤い瞳が、僅かに細められた。
「隠者たちはお祭り騒ぎだったぜ。最大のバグが消去されたんだからな。失った利権をあっという間に取り戻し、前よりも悪辣に街を支配し始めた」
「……で、イスラは?」
「あいつもヴァイスが死んで首が回らなくなった一人だ。ヴァイスが生きて暴れ回ってる間、隠者たちはそっちの対処で手一杯だった。だから、イスラが進める計画への妨害も、そこまで激しくはなかった」
「……今は違う」
「当たり前だ。目の上のたんこぶが消えて、隠者たちは全力でイスラを潰しにかかってる」
レックスは肩越しに、カーバンクルの冷たい顔を睨みつけた。
「だからイスラは、お前に依頼したんだろうよ。隠者たちを始末してくれ、ってな。ヴァイスがやり残した大掃除を、ヴァイスを殺したお前の手でやらせようとしてる。傑作だろ?」
「……イスラとヴァイスの関係は?」
カーバンクルが尋ねた。
今回のクライアントであるイスラ。彼の真意を、彼女は計りかねていた。
「仲間だったってこと?」
「……ケッ」
レックスは鼻で笑った。
「俺が知るかよ。気になるなら、お前の雇い主本人に聞いてみろよ。あのタヌキなら、全部知ってる——」
言葉の途中で、カーバンクルはレックスの腕を解放した。
ふっと拘束が解かれ、レックスは床に手をついた。
助かった。そう錯覚した。
折れた指を押さえ、体勢を立て直そうと顔を上げた瞬間——彼の視界のど真ん中に、黒々とした銃口が突きつけられていた。
カーバンクルが、床に落ちていたレックスのハンドキャノンを拾い上げていたのだ。
「おい、待て——」
バァンッ!!!
レックスの言葉を、轟音が掻き消した。
重い弾頭が至近距離からレックスの眉間を貫き、後頭部から脳漿と人工骨の破片をぶち撒ける。
目を見開いたまま、歴戦の傭兵の巨体がドサリと床に崩れ落ちた。痙攣すらない、即死だった。
「……私の命を狙ったからには、生かしてはおけない」
カーバンクルは無表情のまま、硝煙を上げる拳銃を見下ろした。
必要な情報は全て引き出した。
これ以上、この男を生かしておく理由はない。
拳銃を床に放り捨て、指揮車から降りる。
夜風が火照った顔を撫で、白いパーカーを揺らした。
カーバンクルは左耳のイヤーカフに触れた。
「ショウ」
『おう、生きてるか。指揮官のバイタルが消えたが』
「処理した」
『そっか。まあ、そうなるわな』
ショウの声に驚きはない。始末屋の日常業務の報告を受け取っただけだ。
カーバンクルは人気のない空き地を見回す。
シャドウ・セキュリティの包囲網からは完全に離脱している。
『で、次はどうする? セーフハウスの手配なら——』
ショウの言葉が、不自然なノイズと共に途切れた。
「ショウ?」
『……あ〜、待てカーバンクル。別の回線が割り込んで——』
ザザッという電子音と共に、カーバンクルの視界の隅に赤い警告が点滅した。
「……別の通信が来てる」
『チッ。人が話してるってときに、せっかちな野郎だ』
カーバンクルは目を細めた。
この秘匿回線のアクセスコードを知っている人間は限られている。
「出る。後でね、ショウ」
回線を開く。一瞬のノイズの後、クリアな音声が響いた。
落ち着いた、深い抑揚のある男の声。
『——もしもし、カーバンクル。聞こえるかな?』
依頼人、イスラ・テスラだった。
カーバンクルは足を止め、ウエスト区の夜空を見上げた。
人工太陽はとっくに消灯し、ドーム内壁の巨大なLEDパネルが「理想的な星空」を投影している。
絶対に瞬かない、冷たい偽物の星々。
「……聞こえる」
『よかった。君がシャドウ・セキュリティの指揮車を奪取したと報告を受けてね。無事で何よりだ』
イスラの声はいつも通り温和で、演技的な響きを持っていた。
短い息を吐く音が、回線越しに聞こえる。
『君と話がしたい。直接会えないだろうか?』
ヴァイスさん、マジレスアサルトライフルされなければカーバンクルにも勝てるバケモンなので一般兵じゃこんなもんよ




