【断罪】老若男女平等パンチ
ネオ・バンク・アルカディア本店の最上階。
そこは下界の喧騒も、汚濁も悲鳴も届かない「神の座」だった。
エリザベス・ヴァンダービルトの私室は静寂に満たされていた。
窓の外にはセントラル区の摩天楼が宝石箱のように輝いているが、特殊な防音ガラスはその輝きだけを通し、都市のノイズを完全に遮断していた。
エリザベスはデスクに座り、優雅な手つきで空中のホログラムを操作していた。
表示されているのは『ネオ・アルカディア有望スタートアップ・リスト』。
フィンテック、バイオ医療、物流最適化AI……。
どれもが、情熱と才能に溢れた若者たちが立ち上げた、未来の希望だ。
エリザベスは一つ一つのプロフィールを、高級レストランのメニューを選ぶように眺め、舌なめずりをした。
「……ふふっ。どれも素晴らしそう」
まだ誰も気づいていない。
自分たちが必死に育てている果実が、誰の食卓に並ぶために熟しているのかを。
融資という名の肥料を与え、成功体験という水をやり、十分に太らせたところで――収穫する。
入金エラーという小さなナイフで切り込みを入れ、遅延損害金という毒を流し込み、最後は骨までしゃぶり尽くす。
「あら。これは……」
彼女の指が、ある企業のデータで止まった。
VR教育プラットフォームを開発する、従業員5名の小さな会社。
代表はサウス区出身の24歳の女性。プロフィール写真の彼女は、貧困層の子供たちに教育を届けたいと、穢れのない瞳で微笑んでいた。
「次はあなたにしましょうか……」
エリザベスは女性の顔を拡大し、その「輝き」を確認した。
希望。信頼。愛。
完璧だ。最高級の食材だ。
この美しい瞳が絶望に濁り、光を失い、最後には虚無へと変わる瞬間。
それを想像するだけで、エリザベスの背筋に甘美な震えが走った。
彼女が融資プランのドラフトを作成しようと、キーボードに手を伸ばす。
その瞬間だった。
「――ヴィクターに比べたら、ここの警備はザルだった」
「っ!?」
背後から、温度のない声がした。
エリザベスの指が空中で凍りついた。心臓が早鐘を打つ。
だが、彼女は長年の訓練で培った鉄の自制心で、表情筋を微動だにさせなかった。
ゆっくりと、優雅に、革張りの椅子を回転させる。
そこに、水色の髪の少女が立っていた。
サイズオーバーな白いパーカー。赤い瞳。小柄な体躯。
少女は無表情のまま、エリザベスを見下ろしていた。
その瞳には殺意すらなく、ただ路上の石ころを見るような無関心さだけがあった。
だが、エリザベスには分かった。
この子供は、「死」そのものだ。
三秒の沈黙。エリザベスは完璧な淑女の微笑みを浮かべた。
「404号室の始末屋。……噂は聞いているわ」
少女――カーバンクルは答えなかった。
ただ赤い義眼が微かに明滅し、エリザベスの生体情報をスキャンしている。
エリザベスはゆっくりと立ち上がり、両手を広げてみせた。
敵意がないことを示すポーズだが、その目は蛇のように冷たく少女を観察していた。
「よくここまで入れたわね。このフロアのセキュリティは……それこそ、ヴィクターほどではないにせよ軍事基地並みよ。どうやって……」
「イスラから穴を教わった」
カーバンクルの声は、録音された音声のように抑揚がなかった。
「イスラ・テスラ……なるほど」
エリザベスは得心がいったように頷いた。
「あの男が動いたのね。私の罠に堕ちなかった、忌々しい男……!」
「エリザベス・ヴァンダービルト。あなたを始末する」
カーバンクルが一歩踏み出した。
足音がない。体重を感じさせない、幽霊のような歩み。
エリザベスは反射的に一歩下がり、デスクの端に手をかけた。
「待って。少しお喋りをしましょう? 私たちは文明人よ」
「話すことなんてない」
「本当に? あなた、自分が何を壊そうとしているか理解しているの?」
エリザベスの声に、侮蔑の色が混じった。
強大な力を持つ者が、無知な羽虫に向ける憐れみ。
「私はこの都市の心臓よ。金融システムの中枢。私を殺せば、ネオ・アルカディアの経済は止まる。何百万という人間が路頭に迷い、餓死するわ。……あなたは、その責任を取れるの?」
「そんなことをいちいち考える必要はない」
カーバンクルは即答した。
「……ふっ。これだから子供は嫌いよ」
エリザベスは肩をすくめ、デスクの周りをゆっくりと歩き始めた。
カーバンクルとの距離を保ちつつ、部屋の奥――「安全地帯」へと誘導するように。
「それに、私が死んでも代わりはいくらでもいる。銀行というシステムは不滅よ。融資も、取り立ても、破産も、永遠に続く。あなたが私一人を消したところで、世界は何一つ変わらない」
「それでも、あなたは死ぬ」
カーバンクルの言葉は絶対的だった。
そこには迷いも、哲学も、正義さえない。ただ復讐という機械的な意志だけがあった。
「……残念だわ。あなたのような才能、私のコレクションに加えたかったのに」
エリザベスは溜息をつき、そして――動いた。
デスクの裏側、指紋認証付きの隠しボタンを押し込む。
無音のアラームが発報された。
カーバンクルの瞳がわずかに細まったが、エリザベスは余裕の笑みを崩さなかった。
「でも、どうしてもと言うなら、私もお相手せざるを得ないわね」
エリザベスは窓際まで下がり、優雅に腕を組んだ。
彼女の計算では、あと20秒。
このビルには、ネオ・バンク・アルカディアが極秘裏に開発した「対テロ用戦闘アンドロイド部隊」が常駐している。
軍用スペックの重装甲、AIによる連携攻撃。一体で一個小隊を殲滅できる怪物が、五体。
子供一人を挽き肉にするには、十分すぎる戦力だ。
時間を稼ぐため、エリザベスは口を開いた。
「イスラったら、自分が手を汚すのは嫌なのね。こんな子供を鉄砲玉にするなんて、あの男らしい偽善だわ」
「……その、どうでもいい話は終わり?」
カーバンクルは無言で、パーカーのポケットから何かを取り出そうとした。
だが、遅い。
時間だ。
シュッ、という気密音がして、部屋の四隅にある隠し扉が開いた。
現れたのは、五体の鋼鉄の巨人だった。
身長二メートル半。漆黒のボディアーマーに身を包み、顔面には三つの赤いセンサーアイが不気味に輝いている。
両腕には高周波振動ブレード、肩には小型ミサイルポッド。駆動音が重低音となって床を震わせる。
五体のアンドロイドは瞬時に展開し、カーバンクルを包囲した。
逃げ場はない。死角もない。
エリザベスは窓際のソファに腰を下ろし、特等席で足を組んだ。
「紹介するわ。私の『親衛隊』よ。彼らは痛みを感じないし、慈悲もない。……さあ、404号室の死神さん。見せてごらんなさい?」
彼女の顔には、地下室でマルクを見下ろしていた時と同じ、加虐的な愉悦が浮かんでいた。
期待しているのだ。
無敵だと思っていた子供が、圧倒的な暴力の前に手足をもがれ、絶望して死んでいく様を。
だが、カーバンクルの表情はまるで変わらない。
期待はずれ。エリザベスは眉をひそめた。
「……あなた、怖くないの? それとも、状況が理解できていないのかしら?」
「理解してるよ」
カーバンクルは静かに答えた。
五体の巨人に囲まれても、その小さな体は微動だにしなかった。
アンドロイドの一体が、甲高い音を立てて高周波ブレードを起動した。
殺戮の合図だ。
カーバンクルの赤い瞳が、カッと激しく発光した。
パーカーの袖口から、何かが滑り落ちる。
「……ふっ」
エリザベスは失笑を漏らした。
(何を取り出すつもり? ナイフ? それとも小さな拳銃?)
無意味なことだ。彼らの装甲は劣化ウラン弾すら弾き返す。子供の玩具で、神の軍隊に勝てはしない。
が、カーバンクルの手から、コロンと何かが落ちた。
それは無造作に床を転がり、先頭のアンドロイドの足元で止まった。
ゴルフボールほどの大きさの、無骨な金属球。
表面には、血管のように複雑な回路が剥き出しになっている。
エリザベスが眉をひそめた瞬間――。
カッ、と世界が反転した。
「――――ッ!? あっ、あああああ!?」
音はない。
青白い閃光だけが、部屋の色彩を焼き尽くした。
エリザベスは反射的に腕で顔を覆った。網膜に残像が焼き付く。
何が起きた? 爆発? いや、衝撃波がない。
目が眩む中彼女の耳に届いたのは、異様な重さの音だった。
ズウン、ズウン、ズウン、ズウン、ズウン。
五回。
何かが巨大な質量を持って倒れ込む音。
エリザベスはおそるおそる目を開けた。
そして、呼吸を忘れた。
「あ……あ……!?」
五体の最強無敵のアンドロイドが、床に伏していた。
糸の切れた操り人形のように。あるいは、打ち捨てられた粗大ゴミのように。
赤いセンサーアイの光は消え、関節からは煙が上がり、焦げた絶縁体の臭いが充満している。
ピクリとも動かない。ただの、高価な鉄屑の山。
「な……に……?」
エリザベスは立ち上がろうとして、膝が震えていることに気づいた。
カーバンクルが、鉄屑の山をまたいで一歩前に出た。
その足取りは、散歩の続きのように軽い。
エリザベスは反射的に後ずさった。背中が冷たい窓ガラスに触れる。
セントラル区の夜景。自分の支配する街。
だがガラス一枚隔てたこちらの世界は、今、彼女の理解を超えた法則で動いていた。
「待って……待ちなさい!」
エリザベスは両手を突き出した。
声を張ろうとしたが、喉が引きつり、裏返った悲鳴のような音しか出ない。
「ありえない……彼らは最新式よ! 軍用レベルのEMPシールドを搭載しているはずだわ! なのに、どうして!」
「ショウが作ったやつだからね」
カーバンクルは淡々と事実だけを告げた。
まるで、今日の天気を答えるような気軽さで。
「ショウ……? 誰よそれは!」
「私の相棒。……あなたの抱えている技術者よりも、少しだけ優秀なハッカーってこと」
カーバンクルはさらに一歩近づいた。
エリザベスは逃げようとした。デスクの警報ボタンへ。あるいは隠し通路へ。
だが、足がもつれた。
最高級のピンヒールが分厚いカーペットに食い込み、無様に体勢を崩す。
「あうっ!」
ドサリと床に這いつくばる。
あられもない姿。優雅さの欠片もない。
「ひっ……こ、来ないで! 私に指一本でも触れてみなさい! このビルにはまだ何百人も警備員がいるのよ!」
「呼べばいい」
カーバンクルの声には、嘲笑すらなかった。
「全員、鉄屑にするだけだからね」
エリザベスの心臓が、早鐘を打って破裂しそうだった。
赤い瞳。
あの子の目は、人間を見ていない。駆除すべき害虫を見ている目だ。
エリザベスは這いずりながら後退した。
プライドも、威厳も、カナグリ捨てた。
「お、お金!? お金でしょう!? 払うわ! いくら欲しいの!? 一億? 十億!? 言い値でいいわ、全部あげる! だから!」
彼女の声は無様な懇願に変わっていた。
かつて、何人もの人間にこの言葉を言わせた。
命乞いをする経営者たちを、冷ややかな目で見下ろしてワインを飲んだ。
今、自分がその床に這いつくばっている。
カーバンクルは首を横に振った。
「いらない」
「じゃあ何が欲しいのよォッ!! 何でもする! 地位も、名誉も、情報も、何でもあげるからッ!!」
エリザベスは絶叫した。髪は振り乱れ、涙と鼻水が完璧な化粧を汚していく。
自分がどれほど醜いか、考える余裕すらなかった。ただ、死にたくない。
カーバンクルが目の前まで来た。
エリザベスは壁に背を押し付け、小さく震えた。
小柄な少女が見下ろしている。
その瞳に映っているのは、恐怖に歪んだ自分の顔だ。
「マルク・チェンバレンは、まだ地下にいるの?」
問いかけに、エリザベスは首が折れるほど激しく頷いた。
「い、いる! いるわよ! 生きてる! 殺してない! 餌もあげてる! だから、だから私は悪くな――」
言葉は、物理的な衝撃によって断ち切られた。
ゴシャッ。
「がッ!?」
嫌な音が響いた。
肉が潰れ、軟骨が砕ける生々しい音。
エリザベスの頭が跳ね上がり、後頭部が壁に激突した。
視界が真っ白に染まり、遅れて焼けるような激痛が顔面の中央から爆発した。
「あ……が……ッ!?」
エリザベスは両手で顔を押さえた。
指の間から、温かい液体がドクドクと溢れ出す。
血だ。
自分の血。
五十年以上、誰にも触れさせなかった高貴な血が、豚のように止めどなく流れている。
カーバンクルの小さな拳が、エリザベスの高い鼻を完全に粉砕していた。
「い、あ、痛い……痛い痛い痛いッ!!」
エリザベスは床を転げ回った。
オーダーメイドスーツが、血と鼻水で汚れていく。
生まれて初めて味わう「暴力」の味。鉄の味。死の味。
カーバンクルは無表情のまましゃがみ込み、血まみれのエリザベスの髪を乱暴に掴んで顔を上げさせた。
「ひぃっ!?」
エリザベスの顔は、見る影もなかった。
鼻はひしゃげ、唇は切れ、恐怖で引きつり、涙と血でぐちゃぐちゃになっていた。
あの「聖母」の面影はどこにもない。
ただの、痛みに怯える初老の女がそこにいた。
「……いい顔だね」
カーバンクルが、初めて微かに口角を上げたように見えた。
「これは、あなたが地下の人々にしたことの千分の一にも満たない」
エリザベスはガチガチと歯を鳴らした。
怖い。殺される。
だが、カーバンクルの目は殺意よりも、もっと冷たい「作業」の色を帯びていた。
「やめ……ごめんなさ……もう、許して……」
エリザベスは泣きじゃくった。
かつて地下室で、自分が「美しい」と評した光景。
夢破れ、絶望し、ただ許しを請う敗者の姿。
それが今の自分自身であることに、彼女は気づいていなかった。
カーバンクルは手を離した。
エリザベスは汚れた雑巾のように床に崩れ落ちた。
「まだ終わってない」
カーバンクルの言葉に、エリザベスは血走った目を向けた。
(終わりじゃない? まだ殴るの? ……まだ奪うの?)
やめて。私の顔が。私の尊厳が。私の完璧な人生が。
だがカーバンクルは、もうエリザベスを見ていなかった。
彼女はデスクの端末に向かい、何かを操作し始めた。
「さて。追跡プログラムを始動しようか」
「追……跡……!?」
エリザベスは本能で悟った。
肉体的な痛み以上の、本当の地獄がこれから始まるのだと。
老いも若きも男も女も殴るよ カーバンクルさんは




