【依頼人】飛び降りた幼馴染
イースト区第七工業地帯。
そこにはオートメーション化の波に取り残された工場群が墓標のように立ち並ぶ。
その間に規制を逃れた増改築を繰り返した結果、歪なキノコを思わせる雑居ビルが建っていた。
かつては生身の労働者が眠るための簡易宿泊施設だったが、今や半分以上がゴースト・ルーム。
その屋上、高さ24メートルの縁に、一人の少女が立っていた。
ユイ・ナカムラ。16歳。
艶やかだったはずの黒髪は無造作に切り裂かれている。
左頬は内出血で紫色に腫れ上がり、唇の端には乾いた血がこびりついていた。
ところどころ破れた制服は泥と、何か吐瀉物のようなシミで汚れ、焼け焦げた跡まである。
その下から覗く右腕には無数の切り傷。誰かが等間隔に刻みつけた傷跡だった。
ビルを取り巻く旧式の監視カメラは、そのほとんどが腐食し機能を停止している。
まだ稼働している数台のレンズも、この高さまでは届かない。
誰も彼女を見ていない。
誰も彼女を止められない。
「おい、まだかよ」
下から苛立ちを含んだ声が響いた。
地上5メートルほどの非常階段に、3人の人影が見える。
リュウジ・クロス。
非正規の筋肉増強剤で膨れ上がった体躯の17歳。
首筋にはハッキングされた皮下ディスプレイが、青白いグリッチ模様を明滅させている。
その隣にはアヤ・ブラック。
派手な赤い髪に、高価そうなピアスをいくつも付けた少女。
手にはスマートフォンを構え、動画撮影の赤いインジケーターが冷たく点滅している。
そしてケンゾウ・ヤマダ。
ボクサーのような体格で、拳にはまだ血の滲んだバンテージが巻かれていた。
「まだ死にたくないってか?」
「さっき散々『死にたい』って泣いてたじゃねえか。嘘だったのかよ」
ユイはただ震えながら、眼下に広がるイースト区の工場街を見つめていた。
合成化学物質の匂いが混じった黒い煙を吐き出す煙突。
安物のホログラム広告がノイズ混じりに明滅する風俗街。
そしてはるか上空、ドームの内壁に投影されたデータ上の夕焼け。
(この景色……トウマと一緒に見たっけ)
頭の中はノイズまみれだったが、ユイは涙の滲む目で、幼馴染の姿を思い描いた。
『あの夕焼けって本物じゃないんだよな』
『でも、きれいだよ。偽物でも』
『そうかぁ? ユイはなんでもキレイって言うよな』
『だってそうでしょ? そりゃ、この国には汚いものもたくさんあるけどさ。なるべくキレイなものを見て生きていかなきゃ』
記憶が、ガラスの破片のように胸に突き刺さる。
優しかった日々。普通の高校生だった頃。
(私がトウマを庇ったあの日から、全部……狂い始めた)
「ねえ、早くしてくれない?」
アヤの声が耳障りに響く。
「こっちも暇じゃないんだけど。それとも、もう一回あの『お仕置き』されたいの?」
「……ひ……っ」
お仕置き。その光景がフラッシュ・バックする。
工場跡地での6時間。
鉄パイプで殴られ、剃刀で切られ、タバコの火を押し付けられた。
そして、男たちに身体を好きにされた。
アヤは笑ってカメラを回し続けていた。『あんたのその顔、いい値がつくかも』と言いながら。
「結局、根性なしか」
リュウジが煙草に火をつける。オレンジ色の光が、彼の冷酷な目を一瞬照らした。
「それにしてもトウマも情けねぇよなぁ。テメェの彼女がこのザマなのに、来もしねぇんだからよ」
「来てくれなら特等席で見せてあげるのにねぇ。最高の瞬間を。ふふっ」
(……トウマ君)
ユイの脳裏に、また幼馴染の顔が浮かぶ。
正義感が強くて、優しくて、でも不器用で。
リュウジたちの不正を告発したせいで、いじめの標的になった。
(……あのとき、私が『やめて』なんて言わなければ、トウマ君だけで済んだのかな)
ユイは今さら深い後悔に襲われる。
(……何考えてんだろ。最低だな、私……)
そして直後に、深い自己嫌悪に襲われた。
見ていられなかった。いじめられる彼を見て、絶対に止めなきゃと思った。
……だけど。その標的がまるまる全部自分に来ると思っていなかったのも事実だった。
左手首に埋め込まれたペイチップが、微かに振動した。メッセージの着信。
震える指で、スカートから取り出した端末のディスプレイを確認する。トウマからだった。
『ユイ、どこにいる? 学校にいないって聞いた。心配だから連絡してくれ』
涙が、腫れ上がった頬を焼くように伝う。返信画面を開き、震える指で文字を打った。
『ごめんね、トウマ君。もう、大丈夫だから』
送信ボタンを押し、そっとスマートフォンを足元に置いた。
「おい! 何してんだよ!」
リュウジの怒声が響く。
「飛ぶならさっさと飛べ! 飛ばねえなら降りてこい! また可愛がってやるよ、今度は朝までな」
ユイは深く息を吸った。
汚染された空気が肺を満たす。イースト区特有の、機械油と排気ガスの匂い。
これが、最後の空気。
目を閉じる。瞼の裏に、様々な顔が浮かんでは消える。
両親。友達。そして――
「トウマ君……ごめんね」
小さく呟いて、ユイは前に体重を預けた。
一瞬、体が宙に浮く感覚。
重力が彼女を掴み、アスファルトへと引きずり下ろす。
風が耳元で唸り、破れた制服がはためく。
時間が、引き延ばされたように感じる。
これで終わる。全部、終わる。
もう痛くない。もう汚されない。もう――
地面が迫る。
最後に目に映ったのは、偽物の夕焼けの、残酷なほど美しいオレンジ色だけだった。
鈍い音が、イースト区の喧騒に吸い込まれて消えた。
――ビルの非常階段で、リュウジたちは顔を見合わせた。
「ひゃははっ、マジで飛びやがった!」
ケンゾウが、乾いた口笛を吹く。
「まあ、これで口封じ完了ってわけだ」
アヤがスマートフォンの録画を停止し、満足げに微笑んだ。
「いい画撮れたか?」
「バッチリ。顔は映してないから、個人特定は無理。ただの事故映像として高く売れるよぉ!」
リュウジは煙草を地面に投げ捨て、火花ごと踏み潰した。
「行くぞ。警備ドローンが嗅ぎつける前にずらかる」
三人の姿が、ビルの構造物が落とす闇に消えていった。
■
地上では、人だかりができ始めていた。
誰かが緊急通報をしている。
誰かが野次馬として写真を撮っている。
誰も、彼女がなぜ飛んだのか知らない。知ろうともしない。
ただ一人、息を切らして駆けつけた少年を除いて。
「ユイ……? ユイ! ユイィィィ!!」
トウマが人垣を押しのけて前に出る。
そこに広がっていた光景を見て、膝から崩れ落ちた。
血の海に横たわる、数日前まで笑いかけてくれたはずの幼馴染の姿。
「なんで……なんでなんだ……!」
震える手で彼女に触れようとして、寸前で止める。
もう、触れることさえ許されない気がした。
「俺が……もっと……もっと強ければ……っ!」
遠くでサイレンの音が鳴り始める。
データ上の夕焼けが、プログラムされた夜の闇へと移り変わっていく。
ネオ・アルカディアの日常は、一人の少女の死など気にも留めず、ただ無慈悲に流れていく。
「……さない」
彼は荒れたコンクリートを、引き裂かんばかりの力を込めて掴む。
その手指から血が滲んでいく。
「絶対に、許さない……」
トウマは懺悔でもするかのように天を仰いだ。
「仇は、取ってやるからな……ユイ」




