第6話 悲しい歌
研究棟から長い坂を下りて住宅地の小道に入ると、亜子さんはちょっと待ってといい、テニスコート脇の自転車置き場へ行った。幸助は構わず敷地から出て、亜子さんが追いかけてくるのを待った。いつもの緑色の自転車に乗って亜子さんが追いつくと、ひらりとスカートを揺らして、自転車から降りた。そして突然口を開いた。
「ねえ、お兄さん。お兄さんは人を好きになると、どうなるの?」
それは突然の質問だった。
「ん。そうですねえ、」
そう言ってからしばらく考えた。亜子さんは隣で例の緑色の自転車を押しながら幸助が応えるのを待っていた。出来るならばあまり答えたくない質問だった。然し彼女は黙って幸助が応えるのを待っているようだった。彼は人の話の聞ける女性なのだと思った。
しかし、そう感心したのと共に彼は彼女の意志が強いのを感じとって少しばかり驚いた。実際のところは何がどうして彼女から幸助に対して話しかけられているのか、彼には分からなかった。彼はもっと、底知れない不気味な何かを彼女から感じていた。女の人は時折、不気味に閉口すると知っていたが、快活な彼女がこうして黙して平静としていることは彼にとって恐ろしかった。
幸助は少しどもり気味になって話した。
「嫌だな、何か。人のことを好きに思う時は、悲しい歌ばかり聞いています」
「え、どうして? あたしなんかうきうきするけど。なんか、楽しくならない?」
亜子さんは俄然強く応えてきた。幸助はこうなれば正直なところの話しか出来ないような気がした。
「いや、僕はいま、そういうことに責任を持てないんですよ。」
「そうか」
亜子さんはずっと真っ直ぐ先を見ていた。しかし彼にはその表情からは何も読み取れなかった。
「だから、そういうの考えると、悲しい歌ばかり聞きたくなりますね。」
「どんな歌なの?」
幸助は苦しい顔をして亜子さんを見た。
亜子さんは幸助のその顔を見て少し目を泳がせ気味になった。
「私、何でどうしてばっかり言って、いつも駄目だって思うんだけど、また言ってる」
――この人は何を求めているのだろうか。幸助はそう思った。
それは亜子さん自身にも分からないことだったのではないだろうか。
「――でも良いんじゃないですか。そういうの嫌いではないですよ。」
彼は沈黙をつなぐのに必死であった。
「――でも教えてはくれないんでしょう?」
「分かってるじゃないですか。」
これだけ話したのち、彼は駅で亜子さんと別れた。
幸助は亜子さんと別れた後、また幼いころのことを思い出していた。




