第43話 調停
本格的に離婚の話し合いが始まり、父が調停に呼ばれて、幸助もついて行くことがあった。然し彼が話し合いに同伴することは拒まれた。幸助も母親に言ってやりたいことはあった。しかしあの女が話し合っていたのは財産分与のことだけで、彼らのことには一切触れていないと言うのであった。しかしそれはそうだっただろうと彼は思った。幸助には笑うことしか出来なくなっていた。母親からはしょっちゅう連絡が届いた。ほとんどが湿っぽい泣き言だった。幸助は馬鹿馬鹿しすぎてそのほとんどを見ずに葬った。
父と母親の離婚の調停の間に彼は何かの勘違いのような、押し付けがましい文面の手紙を渡された。彼宛のその手紙は、弁護士を通して父に手に渡された母親からのものだった。 彼は形だけでもその手紙を受け取って、目を通した。
幸助君
大学入学おめでとう。 自分の人生への第一歩を、自ら決めたことが、何より良かった、と私は、うれしく思っています。
また、中学・高校と違ってS大学は、これからの社会、生きているものすべての共生を目指していく上で、深く考えてきた先生方がそろっているとことだと思います。だからS大学を選んだことも良かったと私は、考えています。
それにしても、私が自分を〝お母さん〟と称さなくなって久しいです。親であることは変わりません。私の性質の半分は、孝道君も、受け継いでいるのですから。 それでも孝道君が中学の時、勉強の面や友だち関係、教師のことで、私が理解することができず、不安感にのみかられ、ヒステリックに追いこんでしまってから、私自身が〝お母さん〟などと生ぬるい言葉では称せなくなってしまいました。親としての自信を失くしたとも言えますが、それよりも逃げの気持ちの方が強いですよね。現実逃避だろうと今では、私自身が、そう思っています。
孝道が中学生としての生活の見切りをつけ外に出なくなってから、幸助はいろいろなことを考えてきていましたね。私の対応のまずさも、つぶさに見てきました。それを今更、弁解しようとしているのではありません。これは私が、 これからもずっと自分を糾ただしていかなければいけない課題です。人間としての……。
幸助が高校に入る前後の二年間、ちょうど老人介護施設の相談員をやっていたころのお母さんは本当によくなかったです。そんな時の高校二年の夏に大学受験の具体的な方向性をアドバイスしてくれたのはお父さんではなかったかと思います。 お母さんには何も言えませんでした。言える資格があったかどうか、ということだけでなく、孝道の時のように、何もわからないのに、不安にかられ、ヒステリックになって幸助の将来までも、潰してしまうのではないかと怖かったからです。それから孝道の時は、高校の三者面談で、私が先生の前で話したことで、孝道からものすごく反発されてしまったことでも、自信をなくしてしまいました。幸助の将来に何の関心がないのではなく、もはや私が立ち入っていけないのだと考えていました。幸助がとても辛そうにしているのは分かっていました。今も辛い、ということも……。 それでも幸助が自分で決めていくことを私は見守っていくしかない、待つしかない、と。
大学で幸助が何をしていくのか私にはよくわかっていませんが、大学での四年間はいろいろなことが吸収できる貴重な四年間になると思います。 去年の暮に、幸助は、私に「半端だ」といっていましたね。 それでも私は中途半端を捨てられず、弱さも克服できず、家を出ても、行ったり来たりの生活を選んでいます。 こうやって少し距離を置いて孝道や幸助が巣立って行くのを親鳥のように見守っているのだと言わせてもらっては、いけませんか? おこがましい言い方ですが。
××××年×月××日
幸助君へ
母より
彼は気持ちが悪くて仕方がなかった。今までのことを思えば結局京子はわかったような台詞で言いくるめて、自分の好きにしていたいだけなのだ。彼には京子の言いたいことが、結局何だったのかわからなかったし、手紙に書かれていることに反して調停で話していることがあまりにも勝手な言い分で、非常に怖くて、笑うことしかできなかった。そして彼はこの手紙を受け取ったことで、京子と父との間にはすでに会話の余地はなかったのだと思った。
そしてそうした彼の思いとは裏腹に、父は離婚を躊躇っていた。幸助は父に離婚をすすめた。父にとってそれが決め手だった。父は人の所為にしたいのだ。彼にはそれが分かっていた。父は当然のように〝お前の所為で〟と漏らした。この男に判断という言葉はないのだ。母親は既にいても居なくても変わらなかった。彼の中で母という人の記憶は既になかった。あの人は誰だったのだろうかという記憶だけがあった。しかしそう思いながらも彼の身体に母親の血が混ざっていると言う事実だけは変えられないことだった。




