第17話 京子
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その日、幸助がお風呂上りに祖母を寝かそうとして居間に行くと、祖母は食卓で日記をつけていた。日記は祖母の日課だった。
彼は祖母の傍に寄って記している内容をチラリと見た。
「見ないで」
幸助は笑って、「ごめん、ごめん」と言った。
日記にはこうあった。
――きっとお京は帰ってくる。
この祖母が言っているお京とは家を出て行った彼の母親のことである。母親は思い出せば思い出すほど意固地な人で、一度言ったことを絶対に曲げない人だった。さらには人に謝ったりしたことがなかった。
夜になると母親は、家から出ないで学校にも行かない孝道を、無理矢理に学校へ行かせようとして言い争っていた。お互い一歩も譲らないやり取りだった。しかしどうして母親はわざわざ夜中にそういう話をしていたのだろうか――。幸助には自分ではどうにもできないということを父に見せたいがため、見せしめみたいに孝道を怒鳴りつけているようにもみえた。母親は孝道を疎ましく感じていたに違いない――。母親もこうしてえげつない方法をとって、父を牽制していたのではないだろうか――。母親は孝道との言い争いを、父が帰るのを見計らうように、絶頂にもってくるのである。
父が帰るのはいつも9時半くらいだった。幸助にとってはもう眠たい時間帯である。そんな時に父は帰ってくる。母親は孝道を罵倒している。孝道は喚く。
そして父が玄関から家へあがってこう言う。
「何時だと思ってるお前たち! いい加減にしろ!」
そこから母親と父の口論が始まるのだ。そしてこの行為は、あの頃の家の毎日の習慣みたいなものだった。
そういう晩が何か月も続いた。そして幸助はある日、奇怪な父を見た。父はトイレにいた。彼はその前の廊下を通り過ぎた。
「はい、すみません」「どうもすみません」「申し訳ありませんでした」「それがどうにもなりませんでして」「なんだっていうんですか」「ふざけるな!」…………
幸助ははじめ聞き間違いだと思っていた。しかしトイレの扉の向こう側から聞こえてくる奇怪な言葉は確かに父の声であり薄気味悪さから怖さを感じた。晩秋の宵の口に背筋が凍るような寒気を感じながら両腕を左右互い違いに交差して抱えながら縮こまったまま居間に入った。うす暗い居間で母親は食卓に肘をついて、その手で顔を覆っていた。
「ひと独りごと言ってるけど、あれなに?」
「前からよ」
母親は父を軽蔑しながら怨念の籠った声であの独り言を罵った。幸助は冷ややかなものを感じた。彼はそのためかその日はすぐにお風呂に入ることにした。脱衣所の脇にトイレがあるため、幸助は服を脱いでいる最中にも父のひとりごとを聞いた。「はい、はい。すみません」「いえ、ごめんなさい」「うまくいきませんでした」「申し訳ございません」「バカ」「バカやろう」「イエ何でもございません」「クズが」…………
幸助はひどく気の重い感覚を持った。いやな気分を持ちながらお風呂に入ると、いつも考えごとをした。熱い湯に体全体を浸して淵に首を持たれるとぼんやりぼやけたお風呂の灯りをみる。もくもくとふくれあがる湯気に包まれて、拡散する灯りを彼はぼうっと眺めていた。
「入るぞ——」
すると父が風呂場に入って来た。幸助はこのころ時たま時間を節約するために父と風呂をともにすることがあった。彼は別段構わなかった。どうせ会話はないのだから、どうでもいいのだ。しかしこの日幸助は、湯船の中で考えていたことを不意に口にしてしまった。それは今後、後悔する他ない言葉になった。父はその時ちょうどそれに苦しめられていた。
「離婚するの?」
父は母親に攻め立てられていた。母親は父を攻め立てていた。それは孝道のことであったかもしれないし、祖母のことであったかもしれない——。父は黙々と石鹸を泡立てていた。シャカシャカいう音だけが延々響いた。しばらく幸助は静かに彼の浸かっているお湯の水面を見ていた。父は頭を洗い終わると言った。
「早く出てくれよ」
それはいつもの淡々とした言葉だった。彼の言葉はどこかに置いてけぼりにされていた。幸助はけれどもホッとしていた。応えは聞きたいようで聞きたくなかった。幸助は身体を洗ってすぐにお風呂から出た。
母親はまだ手で顔を覆っていた。
「離婚するの?」
幸助は何げなく母親にも同じことを尋ねた。母親は何を思っていたのだろうか——?
「しないわよ」
その日母親はそれ以上何も口にはしなかった。




