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第1話 魔王より面倒な凱旋式典

 魔王が倒された。


 千年続いた闇の時代は終わり、空は晴れ、呪われた大地には草花が戻り、王都の広場では毎日のように祝宴が開かれている。


 人々は勇者の名を讃えた。

 聖女の慈悲に涙した。

 魔法使いの叡智を歌にした。

 剣士の武勇を子供たちが真似した。


 世界は救われた。


 だからこそ、僕は思う。


「なぜ、世界を救ったあとの方が忙しいんですかね……」


 王城の会議室。

 磨き上げられた長机の端で、僕、リオ・グレイは胃のあたりを押さえていた。


 目の前には王国宰相ベルトラム卿。

 白い髭を整えた、いかにも偉そうで、実際に偉い老人である。


 その隣には書記官が二人。

 壁際には近衛兵が四人。

 机の上には、分厚い書類が山のように積まれている。


 嫌な予感しかしなかった。


「リオ君」


「はい」


「君は、かつて勇者パーティーに同行していたな」


「同行というか、記録係です。戦闘能力はありません。魔王城では主に荷物番と議事録と遺書の下書きを担当していました」


「うむ。実に重要な役割だ」


「今、だいぶ雑に褒めましたよね」


 宰相は聞こえなかったふりをした。


「三日後、王国主催で勇者パーティーの凱旋式典を行う」


「それはおめでとうございます」


「そこで君に頼みがある」


「嫌です」


「まだ内容を言っておらん」


「内容を聞く前に嫌な場合もあります」


 宰相は重々しく頷いた。


「勇者パーティー全員を、式典に出席させてほしい」


 会議室が静まり返った。


 近衛兵の一人が、わずかに目を逸らした。

 書記官の羽ペンが止まった。

 僕の胃が、きゅっと縮んだ。


「……確認していいですか」


「許す」


「勇者アルトさん、聖女セラフィナ様、魔法使いミリアさん、剣士ガレンさん。この四人を、同じ場所に、同じ時間に、穏便に集めろと?」


「そうだ」


「無理では?」


「魔王を倒した彼らを集めるだけだ。簡単だろう」


「魔王を倒す方が簡単だった可能性があります」


 これは冗談ではない。


 魔王は強かった。

 それはもう、世界の終わりみたいに強かった。


 けれど魔王は、少なくとも会議を欠席しなかった。

 こちらの話を途中で資料化しなかった。

 謝罪のために決闘を申し込んでこなかった。

 治療しながら心を刺してくることもなかった。


 そして何より、魔王は一人だった。


 勇者パーティーは四人いる。


 この差は大きい。


「リオ君。君は彼らの旅を最初から最後まで記録していた。食事、戦闘、移動、怪我、口論、仲直り、また口論。そのすべてを知っているはずだ」


「ええ。知っています。だから無理だと言っています」


「だが、君以外に適任がいない」


「適任者がいない仕事は、だいたい仕事の方がおかしいんですよ」


 宰相は机の上から一枚の紙を差し出した。


 そこには大きな文字で、こう書かれていた。


『勇者パーティー凱旋記念式典 式次第』


 嫌なものを見てしまった。


 一、開会の辞。

 二、国王陛下より感謝状授与。

 三、勇者アルトによる演説。

 四、聖女セラフィナによる祝福の祈り。

 五、魔法使いミリアによる魔王討伐戦解説。

 六、剣士ガレンによる剣技披露。

 七、勇者パーティー全員による仲睦まじい握手。

 八、閉会の辞。


「七番を考えた人は誰ですか」


「広報局だ」


「処罰しましょう」


「なぜだ」


「現場を知らなすぎます」


 仲睦まじい握手。


 文字だけなら美しい。

 国民は喜ぶだろう。

 子供たちは目を輝かせ、吟遊詩人はその場面を歌にするかもしれない。


 だが、僕は知っている。


 魔王討伐後の勇者パーティーは、空気が最悪である。


 勇者アルトは、宿のベッドから出てこない。

 聖女セラフィナは、慈愛の笑顔で毒を吐く。

 魔法使いミリアは、怒りを六十二ページの報告書にする。

 剣士ガレンは、仲直りの方法を決闘だと思っている。


 この四人に仲睦まじい握手をさせる。


 それはもはや式典ではない。

 高度な封印儀式である。


「ちなみに、すでに四名には招待状を送ってある」


「返事は?」


 宰相は書記官に目配せした。


 書記官が震える手で四枚の返書を机に並べる。


 一枚目。

 勇者アルトから。


『眠い。欠席』


 二枚目。

 聖女セラフィナから。


『勇者様が棺でご出席なさる場合、弔いの祈りとして参加いたします』


 三枚目。

 魔法使いミリアから。


『欠席理由書を別便で送付します。全六十二ページ。要約版は存在しません』


 四枚目。

 剣士ガレンから。


『全員が参加するなら俺も行く。仲直りのため木剣を持参する』


 僕は静かに目を閉じた。


 世界は救われた。


 けれど僕の胃は、救われていない。


「宰相閣下」


「なんだ」


「この式典、中止にしませんか」


「できん。すでに王都中に告知した。各国の使節も来る。広場の屋台も準備を始めている」


「屋台の方が動き早いですね」


「国民は英雄たちの姿を待っているのだ」


「その英雄たちは、お互いの姿を見たくなさそうですが」


 宰相は深く息を吐いた。


 その顔には、疲労がにじんでいた。

 偉い人も偉い人で大変なのだろう。


 少しだけ同情しかけた。


 その直後、宰相は言った。


「だから君を呼んだ」


 同情は取り消した。


「リオ君。三日後までに、勇者パーティーを全員式典に出席させてくれ。可能なら笑顔で。最低でも、王城を壊さない形で」


「基準が低いのに難しいですね」


「報酬は出す」


「命の危険手当は?」


「検討しよう」


「胃薬代は?」


「王国で負担する」


「なら、まず前払いでお願いします」


 僕は椅子から立ち上がり、式次第を手に取った。


 やりたくない。

 ものすごくやりたくない。


 けれど、たぶん放っておくともっとひどいことになる。


 勇者は本当に来ない。

 聖女は祝辞で勇者を社会的に殺す。

 魔法使いは式典会場で資料を配る。

 剣士は仲直り決闘を始める。


 そして王国は、それを美談として処理しようとする。


 駄目だ。

 止める人間が必要だ。


 僕は元記録係である。

 戦えない。

 魔法も使えない。

 神の奇跡も起こせない。

 剣なんて持ったら自分の足を斬る自信がある。


 けれど、あの四人がいつ何で怒り、いつ何で黙り、いつ何で少しだけ笑うのかは、たぶん誰より知っている。


「わかりました。やります」


 宰相の顔が明るくなった。


「おお、引き受けてくれるか」


「ただし、成功するとは言っていません」


「頼んだぞ、リオ君。君ならできる」


「その根拠のない信頼、勇者様に少し似ていますね」


 僕は会議室の扉へ向かった。


 まずは勇者アルトを起こさなければならない。

 世界を救った男を、ベッドから引きずり出すのだ。


 魔王城に入った時より、足取りが重かった。


「さて」


 廊下に出て、僕は式次第を見下ろす。


 三日後。

 勇者パーティー凱旋式典。


 目標は全員出席。

 可能なら笑顔。

 最低でも王城を壊さない。


「……魔王討伐後の世界、思ったより平和じゃないな」


 僕はそう呟いて、勇者が引きこもっている宿へ向かった。



 勇者アルト・ヴァインは、王城ではなく宿屋に泊まっている。


 しかも高級宿ではない。

 王都の西区にある、食堂つきの小さな宿だ。

 名前は『眠れる鹿亭』。


 魔王討伐後、王国はアルトさんに王城の客室を用意した。

 広い部屋。

 豪華な寝台。

 専属の使用人。

 毎朝の謁見。

 昼の会食。

 夜の晩餐。


 アルトさんは一日で逃げた。


 理由は、本人いわく「寝返りを打つたびに国の威信が揺れる気がする」だった。


 意味はよくわからない。

 けれど逃げたくなる気持ちは少しわかる。


 眠れる鹿亭の女将は、僕を見るなり言った。


「ああ、リオ君。勇者様なら二階だよ」


「起きていますか?」


「朝食は食べたよ」


「それは起きている判定に入りますか?」


「寝ながらパンを食べてたね」


「入らないですね」


 僕はため息をつき、二階へ上がった。


 木の階段がぎしぎし鳴る。

 廊下の突き当たり。

 宿で一番日当たりのいい部屋。


 その扉には、なぜか小さな札がかかっていた。


『世界救済済み。起こさないでください』


 字はアルトさんのものだった。


 僕は札を裏返した。


『急用の場合は魔王復活後にお願いします』


 手が込んでいる。

 無駄な方向に。


「アルトさん、リオです」


 返事はない。


「王城から来ました」


 部屋の中から、布団が動く音がした。


「帰ってくれ」


「反応が早いですね」


「王城という言葉に体が拒否反応を起こした」


「勇者の体を何だと思ってるんですか」


「もう十分働いた体だ」


 僕は扉を開けた。


 鍵はかかっていなかった。

 というより、鍵穴に木の枝が刺さっていた。


「この枝は何ですか」


「簡易封印」


「子供の工作です」


 部屋の中は、思ったよりきれいだった。


 鎧は壁に立てかけられている。

 聖剣も鞘に収められ、机の横に置いてある。

 旅道具は整えられ、窓際には洗濯された外套が干されている。


 そして部屋の中央の寝台には、毛布の塊があった。


 世界を救った勇者である。


「アルトさん」


「いない」


「聖剣がある時点でいます」


「聖剣だけ置いて、俺は遠くへ行った」


「では、その毛布の中にいる人は誰ですか」


「通りすがりの毛布だ」


「毛布は通りすがりません」


 毛布の中から、くぐもった声がした。


「リオ」


「はい」


「魔王は倒した」


「倒しましたね」


「世界は救われた」


「救われましたね」


「つまり今日は寝ていい」


「三ヶ月ずっとその理論で寝てますよね」


 毛布が少しだけ沈黙した。


「継続は力だ」


「怠惰を格言で補強しないでください」


 僕は机の上に式次第を置いた。


「三日後、王国主催で凱旋式典があります」


「断る」


「まだ最後まで言っていません」


「王国、主催、式典。この三つで十分だ」


「判断が早い」


「戦場では一瞬の判断が生死を分ける」


「寝台の上で戦場の顔をしないでください」


 毛布の隙間から、金色の髪が少し見えた。


 アルト・ヴァイン。

 魔王を討った勇者。

 戦場では誰より早く前に出て、誰より強く、誰より仲間を信じる人だった。


 魔王城の最深部で、闇の王を前にしても、彼は一歩も引かなかった。

 千の魔物に囲まれても笑っていた。

 世界が終わりかけた夜にも、「大丈夫だ」と言った。


 その人が今、毛布に負けている。


「演説があります」


 毛布がぴたりと止まった。


「演説?」


「はい。勇者アルトによる演説」


「リオ」


「はい」


「演説って剣で斬れないのか?」


「斬れません」


「魔法なら?」


「燃やしたら式典がなくなる可能性はあります」


「それだ」


「採用しません」


 アルトさんは、ようやく毛布から顔を出した。


 眠そうな目。

 寝癖のついた金髪。

 整えば絵画みたいな顔なのに、今は完全に休日の兄だった。


「国民には、もう十分手を振っただろ」


「討伐直後に一回だけです」


「一回振った」


「回数ではなく時間の問題です。あれ、三秒でした」


「濃い三秒だった」


「観客席の半分は気づいていませんでした」


 アルトさんは枕に顔を伏せた。


「俺はもう英雄の仕事をやりきった」


「英雄の仕事って魔王を倒して終わりなんですか?」


「違うのか?」


「少なくとも王国は、式典、演説、握手、記念像、各国使節との会食までを英雄業務に含めています」


「魔王より悪質だな」


「魔王に失礼です」


 僕は式次第を読み上げた。


「開会の辞、感謝状授与、勇者アルトによる演説、聖女セラフィナによる祝福の祈り、魔法使いミリアによる魔王討伐戦解説、剣士ガレンによる剣技披露、勇者パーティー全員による仲睦まじい握手」


「最後の何だ」


「仲睦まじい握手です」


「誰と誰が?」


「全員です」


 アルトさんは、ものすごく困った顔をした。


「セラフィナ、怒ってるか?」


「怒っていないと思いますか?」


「……いつも微笑んでいる」


「あの人は怒っている時ほど微笑みます」


「そうだったのか」


「討伐旅の二年目には気づいてください」


 アルトさんは真剣に考え込んだ。


「ミリアは?」


「欠席理由書を全六十二ページで送ってきました」


「短いな」


「感覚が麻痺しています。普通は一枚でも長いです」


「ガレンは?」


「仲直りのため木剣を持参するそうです」


「元気そうでよかった」


「よくありません。式典会場で決闘が始まります」


「ガレンらしいな」


「懐かしむところではありません」


 アルトさんは寝台の上であぐらをかいた。


 少しだけ、勇者の顔に戻る。


「みんな、そんなに怒ってるのか?」


「怒っています」


「なんでだ?」


「それを本人の前で言ったら、たぶん聖女様に治療されながら説教されます」


「治療されるなら大丈夫じゃないか?」


「心の傷は増えます」


 アルトさんは首を傾げた。


 本気でわかっていない顔だった。


 この人は、仲間を大事にしていないわけではない。

 むしろ、誰より大事にしている。


 ただし、言葉が足りない。

 説明も足りない。

 ついでに日常生活の危機感も足りない。


 魔王城を脱出した日の夜。

 全員ぼろぼろで、世界中が歓喜している中で、アルトさんは仲間たちに向かって言った。


『じゃあな』


 そして本当に寝に行った。


 あれはひどかった。

 記録係として冷静に書くなら、ひどかった。


「アルトさん」


「なんだ」


「三日後の式典、出てください」


「嫌だ」


「即答しないでください」


「演説がある」


「短くていいです」


「握手がある」


「手を出すだけです」


「セラフィナがいる」


「います」


「ミリアもいる」


「います」


「ガレンも木剣を持ってくる」


「そこは僕が止めます」


 アルトさんはしばらく黙った。


 窓の外から、王都のざわめきが聞こえる。

 広場の方では、もう式典の準備が始まっているのだろう。


 遠くから子供の声がした。


「勇者様の旗、こっちー!」


 アルトさんは、その声を聞いて少し目を伏せた。


「リオ」


「はい」


「俺が出ないと、困るか」


「ものすごく困ります」


「お前が?」


「主に僕の胃が」


「そうか」


 アルトさんは寝台から降りた。


 床に足をつけ、伸びをする。

 その動作だけで、空気が少し変わった。


 だらしない寝癖のままでも、やはりこの人は勇者なのだと思う。


「わかった。出る」


「本当ですか」


「ああ」


「演説も?」


「短ければ」


「握手も?」


「相手が手を出してくれれば」


「逃げませんか?」


「逃げない」


「王城の客室から逃げた前科があります」


「あれは戦略的撤退だ」


「では今回は?」


「たぶん逃げない」


「言い直しましたね」


 アルトさんは聖剣を手に取った。


「リオ」


「はい」


「まず、どこへ行く?」


「教会です。聖女様に参加をお願いしに行きます」


 アルトさんの手が止まった。


「セラフィナのところか」


「はい」


「俺も行った方がいいか?」


 少し考える。


 勇者が直接謝る。

 発想としては正しい。


 ただし、今のアルトさんをそのまま聖女様の前に出すと、たぶん祈りの名を借りた口撃で心を削られる。

 そしてアルトさんは削られた理由を理解しない。

 さらに聖女様が怒る。


 地獄の循環である。


「今日はやめましょう」


「なぜだ」


「まず僕が下地を作ります」


「下地?」


「地雷原を歩けるようにする作業です」


「セラフィナは地雷原なのか?」


「今のアルトさんにとっては」


 アルトさんは神妙に頷いた。


「わかった。なら任せる」


「はい。アルトさんは身支度をしてください」


「式典は三日後だろ」


「三ヶ月寝ていた人は、まず社会復帰に時間がかかるんです」


 僕がそう言うと、アルトさんは少しだけ笑った。


 魔王城で何度も見た、気の抜けた笑い方だった。


「リオがいると、旅の続きみたいだな」


「旅の続きなら、もう少しまともな依頼がよかったです」


「そうか? 魔王よりは楽だろ」


 僕は式次第を見た。


 勇者による演説。

 仲睦まじい握手。

 聖女の祝福。

 ミリアの解説。

 ガレンの剣技披露。


 それから、まだ見ぬ大量の問題。


「どうでしょうね」


 僕は深く息を吐いた。


「少なくとも、魔王は毛布に隠れませんでした」



 王都中央教会は、いつ来ても白い。


 壁も白い。

 柱も白い。

 床も白い。

 祈りに来る人々の表情まで、どこか清らかに見える。


 僕の胃痛だけが場違いだった。


 教会の大扉をくぐると、礼拝堂には多くの人が集まっていた。

 魔王討伐後、王都には傷を負った兵士や、呪いの後遺症に苦しむ人々がまだ多く残っている。


 その中心に、聖女セラフィナ・ルーチェはいた。


 長い銀髪。

 白い法衣。

 柔らかな微笑み。

 差し伸べる手には淡い光。


「もう大丈夫ですよ。痛みはすぐに引きます」


「ありがとうございます、聖女様……!」


「無理はなさらないでくださいね。焦らず、少しずつ歩きましょう」


 美しい。


 完全に聖女だった。

 絵に描いたような慈愛。

 吟遊詩人が見たら、その場で三曲くらい作りそうな光景である。


 僕は礼拝堂の柱の陰から、その様子を見守った。


 このまま帰りたい。


 なぜなら僕は知っている。


 聖女セラフィナは、外では本当に聖女なのだ。

 誰にでも優しく、弱き者に手を差し伸べ、苦しむ人を放っておけない。


 そして仲間内では、同じ口から毒が出る。


 しかも、だいたい正論である。


 やがて最後の負傷者の治療が終わり、セラフィナは静かに息をついた。

 周囲の修道女たちが礼を言い、患者たちが頭を下げる。


 セラフィナは微笑んだまま、こちらを見た。


「リオさん」


「……お疲れさまです、聖女様」


「柱の陰で気配を殺すのはおやめください。暗殺者かと思いました」


「暗殺者は胃を押さえながら立っていないと思います」


「それもそうですね。では、王城からの使いですか」


「なぜわかるんですか」


「リオさんがその顔をしている時は、だいたい王城か勇者様です」


「最近、その二つの区別がつかなくなってきました」


 セラフィナは修道女に後を任せると、礼拝堂の奥にある小さな応接室へ僕を案内した。


 白いテーブル。

 白い椅子。

 白いカップ。

 出されたお茶まで色が薄い。


 僕は席についた瞬間、深呼吸した。


「それで、勇者様は生きていましたか?」


「開口一番がそれですか」


「棺の手配が必要かどうか、教会として確認しておく必要があります」


「生きています」


「残念です」


「聖女様」


「失礼。祈りの言葉が少し本音に寄りました」


 セラフィナは優雅にカップを持ち上げた。


 外から見れば、慈愛に満ちた聖女の休息。

 中身は勇者への棘で満ちている。


「三日後の凱旋式典についてです」


「存じています」


「参加をお願いしに来ました」


「勇者様が棺でご出席なさる場合、弔いの祈りとして参加すると返答したはずですが」


「棺から離れてください」


「では、担架でも構いません」


「寝具からも離れてください」


 セラフィナはにこりと微笑んだ。


「リオさん。私は式典が嫌なのではありません」


「そうなんですか?」


「国民の前で、世界を救った事実を分かち合うことには意味があります。傷ついた人々に、これから先の希望を示すことも大切です」


「では、なぜ欠席を?」


「勇者様の隣で、慈愛の笑顔を保つ自信がありません」


「正直ですね」


「嘘はよくありませんから」


 聖女は、嘘をつかずに人を刺す。


 厄介である。


「アルトさんは参加すると言っています」


 カップの音が、かすかに止まった。


「本当に?」


「はい」


「誰が起こしたのですか」


「僕です」


「まあ」


 セラフィナは目を細めた。


「それは偉業ですね。魔王討伐より難しかったでしょう」


「本人にも似たようなことを言いました」


「勇者様は何と?」


「魔王よりは楽だろ、と」


「では次に魔王が復活したら、勇者様を毛布で包んで封印しましょう」


「その発想はありませんでした」


「私にはあります」


 あるのか。


 僕はお茶を一口飲んだ。

 薄いのに、なぜか胃に染みる。


「聖女様。アルトさんに怒っている理由を、確認してもいいですか」


「確認、ですか」


「はい。説得のために、正確に把握したいので」


「リオさんは記録係でしたね」


「今も半分そうです」


「では記録してください」


 セラフィナは、いつもの穏やかな笑みのまま言った。


「私は、勇者様が魔王討伐後に何も言わず、何も説明せず、何も振り返らず、『じゃあな』の一言で全員の前から消えたことに、少しだけ怒っています」


「少しだけ」


「少しだけです」


「聖女様の少しは、王城の大聖堂くらい広いですね」


「リオさん」


「はい」


「治療しましょうか」


「健康です」


「残念です」


 僕は記録帳を開いた。


 実際、あの日のことは僕も覚えている。


 魔王を倒した直後。

 全員が限界だった。

 聖女様は最後まで治癒魔法を使い続け、魔力切れで立っているのもやっとだった。

 ミリアさんは結界の維持で意識を失いかけていた。

 ガレンさんは盾を失い、片腕を吊っていた。

 アルトさんも、もちろん重傷だった。


 それでも全員、生きていた。


 だからこそ、何か言葉が必要だったのだと思う。


 ありがとう。

 助かった。

 終わったな。

 少し休もう。


 何でもよかった。


 けれどアルトさんは、言葉を探すのが下手すぎた。


「勇者様は、私たちを信頼していたのでしょう」


 セラフィナが静かに言った。


「言わなくてもわかる。そう思っていたのだと思います」


「たぶん、そうです」


「ですが、リオさん」


「はい」


「わかることと、言ってほしいことは、別です」


 その声には、毒がなかった。


 だから少し困った。


 セラフィナが怒っているのは、嫌いだからではない。

 どうでもいい相手なら、こんなに怒らない。


 たぶん、期待していたのだ。


 勇者アルトという人が、最後にこちらを見て、何か言ってくれることを。


「……それは、本人に伝えるべきだと思います」


「伝えました」


「いつですか」


「解散直後の手紙で」


「アルトさん、読んでいない可能性があります」


「でしょうね」


 セラフィナは微笑んだ。


「なので次は、治癒魔法で直接心臓に届けようかと」


「それは医療ですか、攻撃ですか」


「祈りです」


「祈りの範囲が広すぎます」


 僕は額を押さえた。


 まずい。

 思ったより根が深い。


 ただ、まだ完全に断絶しているわけではない。

 セラフィナはアルトさんのことを見限っていない。

 怒っているし、棺の話をするし、毛布封印の案も持っているが、たぶん見限ってはいない。


 そこが救いだった。


「聖女様。式典に出てください」


「勇者様のために?」


「国民のために」


 セラフィナの目が少し変わった。


「王都には、まだ魔王軍との戦いで傷ついた人が多くいます。さっき礼拝堂にいた人たちもそうです。あの人たちは、勇者パーティーが並んで立つ姿を見たいはずです」


「……」


「本当の仲がどうであれ、今はその姿が必要です」


「リオさん」


「はい」


「意外と卑怯な説得をしますね」


「胃を犠牲にして覚えました」


 セラフィナはカップを置いた。


 しばらく沈黙する。


 やがて、彼女は小さく息を吐いた。


「わかりました。参加します」


「ありがとうございます」


「ただし条件があります」


「何でしょう」


「祝辞の内容に、私の裁量を認めてください」


「却下します」


「まだ内容を言っていません」


「内容を聞く前に却下な場合もあります」


 セラフィナは、少しだけ楽しそうに笑った。


「では、案だけでも見ますか?」


「怖いですが、見ます」


 彼女は机の引き出しから、一枚の紙を取り出した。


 すでに用意してあった。


 嫌な予感がした。


「書き出しだけです」


「お願いします」


 セラフィナは清らかな声で読み上げた。


「勇者様、このたびは長期睡眠からの一時的なご帰還、誠におめでとうございます」


「破りましょう」


「まだ一文目です」


「一文目で致命傷です」


「では、少し柔らかくします」


「お願いします」


「勇者様、このたびは寝台より王国へ一時的に御出陣くださり」


「方向性が変わっていません」


「では、棺を入れますか?」


「なぜ悪化するんですか」


 セラフィナは紙を胸元に戻した。


「冗談です」


「半分くらい本気でしたよね」


「七割です」


「増えましたね」


 彼女は窓の外を見た。


 教会の庭では、治療を終えた子供が母親に手を引かれて歩いている。

 まだ足取りはおぼつかない。

 けれど、笑っていた。


「リオさん」


「はい」


「勇者様は、式典で逃げませんか」


「たぶん逃げません」


「たぶん」


「本人も、たぶん逃げないと言っていました」


「信用できませんね」


「はい」


「では、私が逃げ道に結界を張ります」


「治癒魔法の人ですよね?」


「逃走防止も広義の治療です」


「広義が広すぎます」


 それでも、少しだけ空気が軽くなった。


 セラフィナは参加する。

 祝辞は危険だが、参加はする。


 一歩前進だ。


 ただし、勇者の逃走防止結界つきで。


「ありがとうございます、聖女様」


「リオさん」


「はい」


「無理をしすぎないでくださいね」


 急に、声が優しくなった。


「あなたは戦えませんし、魔法も使えませんし、聖剣も持てませんし、体力もありませんし、胃も弱いですから」


「心配の中に悪口を混ぜないでください」


「事実です」


「事実が一番刺さるんです」


 セラフィナは立ち上がり、僕の前に小さな薬包を置いた。


「胃薬です」


「ありがとうございます」


「勇者様に会う前、魔法使いに会う前、剣士に会う前、式典前、式典中、式典後に飲んでください」


「一日が胃薬で埋まります」


「足りなければ追加します」


「そんなにですか」


「リオさん」


 聖女は慈愛の笑みで言った。


「この件に関しては、魔王討伐より長引く可能性があります」


 僕は薬包を見下ろした。


 薄い紙に包まれた、白い粉薬。


 聖女の祝福より、今の僕には頼もしく見えた。


「次は魔法塔ですね」


「ミリアさんですか」


「はい。欠席理由書六十二ページの人です」


「リオさん」


「はい」


「先に胃薬を飲んでいきなさい」


 僕は素直に従った。


 聖女の助言は、たいてい正しい。


 言い方に棘があるだけで。



 王都東区に、王立魔法塔はある。


 塔と呼ばれているが、正確には塔の形をした巨大な迷路である。

 外から見ると一本の白い塔。

 中に入ると廊下が曲がり、階段が増え、扉が勝手に移動し、気づけば自分が何階にいるのかわからなくなる。


 魔法使いたちはそれを「空間拡張式研究施設」と呼ぶ。


 僕は「帰り道に悪意がある建物」と呼んでいる。


 受付の魔術師に用件を伝えると、彼はすぐに顔をしかめた。


「ミリア・ノートレイン研究主任ですか」


「はい。式典の件で」


「ああ……」


 受付の魔術師は、僕を気の毒そうに見た。


「お待ちください。先ほどから、関連文書が届いています」


「関連文書?」


 彼は受付机の下から、紐でくくられた紙束を取り出した。


 厚い。


「これは?」


「ミリア主任から、あなた宛てです」


 表紙には、几帳面な字でこう書かれていた。


『勇者パーティー凱旋式典への欠席理由および参加困難性に関する一次報告書』


 一次。


 僕はその二文字を見逃さなかった。


「すみません」


「はい」


「二次もありますか」


「現在印刷中です」


「帰っていいですか」


「お気持ちはわかります」


 受付の魔術師は、深く同情した顔で言った。


「主任は第五研究室にいます。廊下をまっすぐ行って、階段を二つ上り、赤い扉を無視し、青い扉に入らず、緑の扉に軽く会釈してから、右です」


「緑の扉に会釈?」


「しないと拗ねます」


「扉が?」


「はい」


 魔法塔は、やはり帰り道に悪意がある。


 僕は胃薬を飲んでから、指示通りに進んだ。


 赤い扉を無視する。

 青い扉に入らない。

 緑の扉に軽く会釈する。


 緑の扉は、満足げに蝶番を鳴らした。


 もう帰りたい。


 第五研究室の扉には、貼り紙がしてあった。


『入室前に以下を確認すること。

一、用件は明確か。

二、根拠はあるか。

三、感情論ではないか。

四、勇者アルトの代理ではないか。

五、勇者アルト本人ではないか。

六、勇者アルト本人である場合、まず反省文を提出すること』


 僕は四番で少し迷った。


 代理ではない。

 たぶん。

 少なくとも本人ではない。


 僕は扉を叩いた。


「リオ・グレイです」


 中から、すぐに声が返ってきた。


「入室を許可。なお、現在の私は怒っていない」


 初手から怪しい。


「失礼します」


 第五研究室は、紙と本と魔導具で埋まっていた。


 壁一面の本棚。

 宙に浮かぶ小さな黒板。

 勝手に羽ペンを走らせる記録用紙。

 机の上には水晶球が三つ、魔力計が二つ、冷めた紅茶が一杯。


 その中心で、ミリア・ノートレインは書類に囲まれていた。


 紺色のローブ。

 肩で切りそろえた黒髪。

 眠そうにも見える青い目。

 整った顔立ちなのに、表情がずっと論文の序文みたいに硬い。


 彼女は羽ペンを置き、僕を見た。


「結論から言うと、私は怒っていない」


「はい」


「ただし別紙Aを参照」


「怒ってない人は別紙Aを作らないんですよ」


「別紙Aは感情の証明ではなく、状況の補足」


「その補足は何ページありますか」


「二十八ページ」


「怒っていますね」


「分類上は失望」


 ミリアさんは、机の上から一冊の冊子を差し出した。


 受付でもらった紙束とは別物だった。


「これは?」


「要約版」


「要約版がこの厚さなんですか」


「努力した」


「努力の方向性が厳しいです」


 表紙にはこう書かれていた。


『勇者アルト・ヴァインの説明不足に起因する共同戦線終了後の心理的齟齬について』


「題名だけで胃が重いですね」


「胃痛なら聖女に薬をもらったはず」


「なぜ知ってるんですか」


「リオの胃痛頻度は討伐旅の終盤から三割増加している。今回の任務内容から推定すると、聖女が胃薬を渡す確率は八十七パーセント」


「怖いくらい当たっています」


「外した。私は九十二パーセントと見積もるべきだった」


「そこはどうでもいいです」


 僕は要約版を開いた。


 目次があった。


 第一章、勇者アルトの発話量不足。

 第二章、解散時挨拶『じゃあな』の情報密度について。

 第三章、聖女セラフィナの微笑頻度と怒気相関。

 第四章、剣士ガレンの善意が物理攻撃に変換される過程。

 第五章、記録係リオ・グレイの胃痛とパーティー内緩衝材機能。


「僕の章があります」


「重要だから」


「読まなくていいですか」


「読んだ方がいい。あなたは自己評価が低い」


「今その話をすると、またページ数が増えそうなのでやめましょう」


 ミリアさんは小さく頷いた。


「合理的判断」


 僕は冊子を閉じた。


「三日後の式典に参加してください」


「参加困難」


「理由は?」


「提出済み」


「六十二ページを要約してください」


「要約版を渡した」


「さらに要約してください」


 ミリアさんは少し眉を寄せた。


 難問を出された顔だ。


「……不快」


「一単語になりましたね」


「過度な圧縮により情報が欠落した」


「でも本音に近づきました」


 ミリアさんは黙った。


 机の上の羽ペンだけが、勝手に紙の上を走っている。

 ちらりと見ると、こう書いていた。


『リオの指摘により、要約時の感情成分漏出を確認』


「それ、記録しないでください」


「自動記録」


「止められますか」


「止める理由がない」


「僕にはあります」


 ミリアさんは羽ペンを指で止めた。


 珍しく、少しだけ視線を落とす。


「私は、怒っていない」


「はい」


「失望している」


「はい」


「混乱している」


「はい」


「あと、たぶん」


「たぶん?」


「寂しい」


 言ってから、ミリアさんは自分で驚いたような顔をした。


 研究室が静かになった。


 宙に浮かぶ黒板の文字まで止まる。


 僕は、余計なことを言わないように気をつけた。


 ミリアさんは感情を扱うのが下手だ。

 だから理屈にする。

 報告書にする。

 分類して、章立てして、注釈をつけて、感情ではないことにしようとする。


 でも今、一単語だけこぼれた。


「寂しかったんですね」


「断定しないで」


「では、寂しかった可能性が高い」


「許容」


 面倒くさい。


 でも、少しだけかわいいとも思う。


「勇者様は、何も説明しなかった」


「そうですね」


「魔王討伐後の魔力残滓の解析も、各地の結界維持計画も、戦後処理も、パーティーの今後も、全部未整理だった」


「はい」


「なのに『じゃあな』だけで終わった」


「はい」


「私は、次に何をすればいいかわからなかった」


 ミリアさんの声は、いつもより少し低かった。


「世界を救うために、ずっと計算してきた。必要な魔力量、敵の配置、結界の強度、全員の負傷率、勝率。全部数字にして、全部予測した」


「……」


「でも、終わった後にどうすればいいかは、誰も教えてくれなかった」


 僕は、記録帳を閉じた。


 今は記録する場面ではない気がした。


「ミリアさん」


「なに」


「式典に出ませんか」


「話を聞いていた?」


「聞いていました」


「なら、なぜその結論になる」


「たぶん、式典は区切りになるからです」


 ミリアさんの目が、少し細くなった。


「区切り」


「はい。魔王討伐は終わった。でも、誰も終わったことをちゃんと確認していない。アルトさんも、聖女様も、ガレンさんも、ミリアさんも」


「……」


「国民のための式典ですが、たぶん皆さんのための式典でもあります」


 言ってから、自分で少し驚いた。


 僕にしては、かなり真面目なことを言った気がする。


 ミリアさんは僕をじっと見た。


「リオ」


「はい」


「その発言、記録していい?」


「駄目です」


「なぜ」


「恥ずかしいので」


「では匿名化する」


「誰が言ったかすぐわかります」


「では『某胃痛持ち記録係』にする」


「ほぼ名指しです」


 ミリアさんは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 笑った、のかもしれない。


 討伐旅の間にも数えるほどしか見たことがない顔だった。


「参加する」


「ありがとうございます」


「ただし条件がある」


「嫌な予感がします」


「魔王討伐戦解説の時間を十分に確保してほしい」


「どれくらいですか」


「最低三時間」


「式典が終わります」


「短縮して二時間」


「国王陛下が寝ます」


「では九十分」


「民衆が帰ります」


「では六十分」


「屋台の売上だけ伸びます」


「四十五分」


「まだ長いです」


「三十分」


「十分」


「二十五分」


「なぜ戻るんですか」


 ミリアさんは腕を組んだ。


「魔王討伐戦を正確に解説するには、前提となる魔力循環理論から説明する必要がある」


「国民は勇者様の顔を見に来るんです」


「顔だけでは情報量が足りない」


「足りているんです、式典では」


 僕は式次第を取り出した。


「五分でお願いします」


「不可能」


「では三分」


「悪化している」


「長くすると、広報局が変な演出を足します」


「変な演出?」


「巨大な魔王模型を爆破するとか」


 ミリアさんの表情が変わった。


「危険。魔王の外形を不正確に再現した模型が流布すると、後世の研究に悪影響が出る」


「ですよね」


「五分で参加する」


「ありがとうございます」


「ただし、模型がある場合は私が監修する」


「仕事を増やさないでください」


 これで二人目。


 勇者アルトは参加。

 聖女セラフィナも参加。

 魔法使いミリアも参加。


 残るは剣士ガレン。


 たぶん、参加自体は一番簡単だ。

 問題は、参加方法である。


 僕が要約版の報告書を机に戻そうとすると、ミリアさんが首を振った。


「それは持っていって」


「なぜですか」


「参考資料」


「重いんですが」


「内容も重い」


「そういう意味ではありません」


 彼女はさらに一枚の紙を差し出した。


「これは?」


「勇者に渡す用」


 表題を見た。


『勇者アルト・ヴァインへの確認事項一覧』


 項目数、百八。


「多いです」


「厳選した」


「する前は?」


「三百四十二」


「努力は認めます」


 僕は紙束を抱えた。


 腕が重い。

 胃も重い。

 ついでに話も重かった。


 ただ、少しだけ前に進んだ気はする。


「ミリアさん」


「なに」


「式典当日、怒っていないという説明を壇上で始めないでくださいね」


「必要ならする」


「必要ありません」


「状況による」


「状況を作らないでください」


 ミリアさんは無表情で頷いた。


 信用できるような、できないような頷きだった。


「次はガレン?」


「はい。訓練場へ行きます」


「木剣を持っているはず」


「やっぱりですか」


「彼は善意を物理で表現する」


「知っています」


 ミリアさんは、僕の抱えた紙束を見て言った。


「リオ」


「はい」


「腰を痛めないように」


「心配してくれるなら、紙を減らしてください」


「それはできない」


「なぜですか」


「必要情報だから」


 魔法使いの優しさは、重い。


 物理的にも。


 僕は報告書を抱え、第五研究室を出た。


 緑の扉に会釈をし、青い扉を避け、赤い扉を無視して、なんとか受付まで戻る。


 受付の魔術師が、僕の紙束を見て言った。


「増えましたね」


「はい」


「主任にしては少ない方です」


「魔法塔の基準を外に持ち出さないでください」


 僕は魔法塔を出た。


 太陽がまぶしい。

 外の空気が軽い。


 腕の中の報告書だけが、現実みたいに重かった。


「さて」


 次は訓練場。


 剣士ガレン・ブレイド。


 勇者パーティーの前衛。

 豪快で、真っ直ぐで、裏表がなく、仲間思いで、悪い人ではない。


 悪い人ではないのだ。


 ただ、話し合いの場に木剣を持ってくる。


 僕は聖女様にもらった胃薬の包みを見た。


「……追加でもらっておけばよかった」



 王都北区の訓練場は、今日も騒がしかった。


 剣を打ち合う音。

 兵士たちの掛け声。

 教官の怒号。

 木人が倒れる音。

 木人が折れる音。

 木人だったものが空を飛ぶ音。


 最後の音は、たぶん普通の訓練場では聞こえない。


 僕は紙束を抱えたまま、訓練場の入口で足を止めた。


 中央の砂地に、大男がいた。


 背が高い。

 肩幅が広い。

 短く刈った赤銅色の髪。

 日に焼けた肌。

 腕は丸太みたいで、立っているだけで周囲の空気が熱い。


 剣士ガレン・ブレイド。


 勇者パーティーの前衛。

 魔王軍の重装兵をまとめて吹き飛ばし、巨人族の斧を正面から受け止め、魔王城の門を「鍵が見つからん」という理由で斬った男である。


 そのガレンさんが、木剣を構えて叫んだ。


「ぬおおおおおおおおっ!」


 木人が十体、まとめて宙を舞った。


 兵士たちが拍手した。


 いや、拍手している場合ではない。

 備品が死んでいる。


「ガレンさん!」


 僕が声をかけると、ガレンさんはぱっと顔を輝かせた。


「リオ!」


 次の瞬間、彼は木剣を担いだまま、一直線に走ってきた。


 速い。

 大きい。

 怖い。


「うわっ」


 僕はとっさに紙束を盾にした。


 ガレンさんは僕の目の前で急停止した。

 風圧で要約版の角がめくれる。


「久しぶりだな、リオ! 元気か!」


「声量で紙が震えています」


「そうか! すまん!」


「謝罪の声量も同じですね」


「む、いかんな。では小声で言おう」


 ガレンさんは真剣な顔で、少しだけ身をかがめた。


「すまん!!!!」


「感嘆符が増えました」


 本人は小声のつもりらしい。


 訓練場の端にいた兵士が振り返った。

 小鳥が三羽、空へ逃げた。


「それで、今日は何の用だ。王城か?」


「はい。三日後の凱旋式典についてです」


「おお! 式典か! 出るぞ!」


「ありがとうございます。話が早くて助かります」


「全員が出るならな!」


「全員出ます」


「ならば俺も出る!」


 簡単だった。


 勇者、聖女、魔法使いの後だと、あまりにも簡単だった。

 一瞬だけ泣きそうになる。


 だが、油断してはいけない。


「それでリオ」


「はい」


「仲直りの決闘は、式典の前か後か?」


 ほら来た。


「ありません」


「何がだ」


「仲直りの決闘です」


 ガレンさんは、不思議そうな顔をした。


「仲直りするのだろう?」


「はい」


「ならば決闘がいる」


「いりません」


「なぜだ?」


「普通は話し合うからです」


「話し合いなら、剣を交えながらでもできる」


「できません」


「戦場ではよくやったぞ」


「戦場だからです」


 ガレンさんは腕を組んだ。


 木剣を持ったまま腕を組むので、木剣の先が隣の兵士の兜をかすめた。

 兵士が静かに後退する。


「しかし、俺は思うのだ」


「はい」


「腹を割って話すには、まず腹を狙うべきではないか?」


「比喩を物理に変換しないでください」


「そうか?」


「そうです」


「では、胸襟を開くには?」


「服を斬らないでください」


「まだ何も言っていない」


「顔に出ています」


 ガレンさんは驚いた顔をした。


「リオはすごいな。俺の考えがわかるのか」


「旅の間に鍛えられました」


「ならば、俺が今何を考えているかわかるか」


「木剣をもう一本持っていくべきか悩んでいます」


「なぜわかった!」


「わかりたくありませんでした」


 ガレンさんは感心したように頷いた。


「やはりリオは小さいが強い男だ」


「身長の話は不要です」


「すまん!」


「だから声が大きいです」


「すまん」


 今度は少しだけ小さかった。

 訓練場の小鳥は戻ってこなかったが、努力は認めたい。


「式典では、剣技披露があります」


「任せろ!」


「ただし、会場を壊さない範囲でお願いします」


「どの程度なら壊していい?」


「壊さない範囲です」


「床は?」


「駄目です」


「壁は?」


「駄目です」


「天井は?」


「論外です」


「では空気は斬っていいか?」


「空気なら」


「よし!」


 嫌な予感がした。


「ちなみに、空気を斬るとどうなりますか」


「衝撃波が出る」


「駄目です」


「なぜだ!」


「壁が壊れます」


「では弱める」


「弱めた結果は?」


「机が割れる程度だ」


「駄目です」


 ガレンさんは心底困った顔をした。


 世界最強級の剣士が、机を割らずに剣を振る方法で悩んでいる。


 この人は、基本的に善人である。

 裏表がなく、仲間思いで、誰より正面から向き合おうとする。


 ただし、向き合う時の初速が突撃である。


「ガレンさん」


「なんだ」


「式典で一番大事なのは、民衆に安心してもらうことです」


「うむ」


「なので、観客を不安にさせる剣技は避けましょう」


「不安にさせる剣技とは?」


「地面が割れる」


「なるほど」


「壁が割れる」


「なるほど」


「国王陛下の冠が飛ぶ」


「それはまずいな」


「まずいです」


「では、木剣で舞う程度にする」


「舞えるんですか?」


「できる。昔、祭りでやった」


 意外だった。


 ガレンさんは戦場の印象が強いが、地方の武芸祭りに出た経験があるらしい。


「それでお願いします」


「わかった! 民を安心させる剣だな!」


「はい」


「つまり、敵を斬る剣ではなく」


「はい」


「不安を斬る剣!」


「言い方は少し物騒ですが、方向性は合っています」


 ガレンさんは満足そうに笑った。


「よし、任せろ」


 これで剣技披露は、たぶん大丈夫。

 たぶん。


 あとは仲直り決闘の件だ。


「それと、木剣は一本までです」


「なぜだ」


「決闘に見えるからです」


「一本でも決闘はできるぞ」


「そういう情報はいりません」


「では素手か?」


「もっと駄目です」


 ガレンさんはまた腕を組んだ。


「リオ」


「はい」


「俺は、皆と仲直りがしたい」


 急に、声の調子が変わった。


 大きいけれど、まっすぐで、少しだけ不器用な声だった。


「勇者も、聖女も、ミリアも、皆すごいやつだ。俺は皆を尊敬している。旅の間、何度も助けられた。何度も背中を預けた」


「はい」


「だが、魔王を倒してから、皆がばらばらになった」


 ガレンさんは木剣を見下ろした。


「俺は頭がよくない。聖女のように気の利いた言葉も言えん。ミリアのように難しいこともわからん。勇者のように、皆の中心にも立てん」


「……」


「だから、どうすればいいかわからん」


 僕は少し黙った。


 ガレンさんは、単純な人ではある。

 でも、鈍いわけではない。


 ただ、自分の感情を細かく分けるのが苦手なのだ。

 心配も、寂しさも、後悔も、全部まとめて「よし、向き合おう」になる。


 そして向き合う手段が決闘になる。


「ガレンさん」


「なんだ」


「決闘じゃなくて、謝罪をしましょう」


「謝罪」


「はい」


「誰にだ」


「全員に」


「俺は何を悪いことをした?」


「たぶん、悪いことというより、怖がらせています」


「怖がらせている?」


「仲直りのために木剣を持ってくる人は、怖いです」


 ガレンさんは目を見開いた。


「そうなのか」


「そうです」


「俺は、皆に本気だと伝えたかっただけだ」


「伝わる前に身構えられます」


「なるほど……」


 ガレンさんは深く頷いた。


「では、木剣は置いていく」


「ありがとうございます」


「盾は?」


「置いていってください」


「鎧は?」


「式典用の軽装で」


「兜は?」


「いりません」


「予備の短剣は?」


「なぜ出てくるんですか」


「礼装に合う」


「合いません」


「そうか」


 僕は念のため、記録帳を開いた。


「式典当日の持ち物を確認します」


「うむ」


「木剣なし」


「なし」


「盾なし」


「なし」


「兜なし」


「なし」


「予備の短剣なし」


「なし」


「謝罪のための決闘なし」


「なし」


「腹を割るために腹を狙わない」


「狙わない」


「胸襟を開くために服を斬らない」


「斬らない」


 よし。


 これだけ確認すれば大丈夫だろう。


 ガレンさんは真剣な顔で言った。


「リオ」


「はい」


「謝罪には、菓子折りが必要か?」


「それは必要かもしれません」


「そうか! では訓練場で一番強い菓子を用意する!」


「菓子に強さはいりません」


「甘さか?」


「そっちです」


「なるほど!」


 少し前進した。


 この人は、きちんと言えばわかってくれる。

 きちんと言うまでが大変なだけだ。


 ガレンさんは木剣を武器棚に戻した。


 その様子を見て、僕はほっと息を吐く。


 これで四人全員、式典に参加する。


 勇者アルト。

 聖女セラフィナ。

 魔法使いミリア。

 剣士ガレン。


 全員の参加を取りつけた。


 ここまでで、すでに一仕事終えた気分だった。


 しかし、問題はここからである。


 四人を参加させるだけなら、まだいい。


 四人を同じ控室に入れる必要がある。

 四人を同じ壇上に立たせる必要がある。

 四人に仲睦まじい握手をさせる必要がある。


 僕は現実から目を逸らしたくなった。


「リオ」


「はい」


「俺は、何と言って謝ればいい」


「そうですね」


 僕は少し考えた。


 ガレンさんに長い台詞は向かない。

 飾った言葉も向かない。

 短く、まっすぐ、誤解されない言葉がいい。


「まず、『木剣を持ってきてすまなかった』です」


「そこからか」


「そこからです」


「わかった」


「次に、『俺は皆とまた話がしたい』」


 ガレンさんは、ゆっくり繰り返した。


「俺は、皆とまた話がしたい」


「はい。それで十分だと思います」


「そうか」


 ガレンさんは少しだけ目を細めた。


「言葉とは、難しいな」


「はい。たまに剣より難しいです」


「リオは、それで戦っているのだな」


「戦っているつもりはありませんが」


「いや、戦っている」


 ガレンさんは大きな手で、僕の肩を軽く叩いた。


 軽くのはずなのに、体が少し沈んだ。


「お前は強い」


「だから身長の話は」


「身長ではない」


 その声があまりにまっすぐだったので、僕は少しだけ返事に困った。


「……ありがとうございます」


「うむ!」


 ガレンさんは満足そうに頷いた。


 その瞬間、訓練場の教官が駆け寄ってきた。


「ガレン殿! そろそろ次の訓練を」


「おお、そうだった!」


「次は何の訓練ですか」


「式典用に、物を壊さない剣技の練習だ!」


「それは助かります」


 ガレンさんは訓練場の中央に戻った。


 そして木剣を構える。


「見るがいい、リオ! これが不安を斬る剣だ!」


 踏み込み。

 振り下ろし。

 空気が鳴った。


 次の瞬間、訓練場の端にあった水桶が真っ二つになった。


 水が盛大に流れ出す。


 兵士たちがどよめく。


 ガレンさんは振り返って、真剣に言った。


「リオ! 水桶は不安に含まれるか?」


「含まれません!」


 前進はした。


 したはずだ。


 ただ、式典会場の備品には保険をかけた方がいい。


 僕は記録帳に、そう書き足した。



 三日後。


 王都は朝から祭りのようだった。


 大通りには旗が並び、広場には屋台が並び、王城前には人が並んでいる。

 子供たちは木の剣を振り回し、吟遊詩人は勇者の歌を歌い、商人は「勇者まんじゅう」を売っていた。


 勇者まんじゅう。


 勇者様に許可を取ったのだろうか。

 たぶん取っていない。


 ちなみに隣の屋台には、聖女クッキー、魔法使い飴、剣士串焼きがあった。


 剣士だけ食べ物の方向性が違う。


 そんな王都の熱気をよそに、王城の控室は冷えていた。


 温度ではない。


 空気が。


「……」


「……」


「……」


「……」


 勇者アルト。

 聖女セラフィナ。

 魔法使いミリア。

 剣士ガレン。


 世界を救った四人が、控室にそろっている。


 そろっているだけで、誰も話さない。


 アルトさんは椅子に座り、明らかに眠そうな顔で式次第を眺めている。

 セラフィナ様は窓際で微笑んでいる。微笑んでいるが、笑ってはいない。

 ミリアさんは机の端で議事録を取り始めている。

 ガレンさんは部屋の中央に直立している。式典用の軽装だが、なぜか姿勢が決闘前である。


 僕は扉の前に立ち、全員を見回した。


 全員いる。


 それだけで偉業だった。


 できれば、このまま凍らせて舞台まで運びたい。


「皆さん」


 僕は手を叩いた。


「今日は世界を救った英雄として、仲良く並んでください」


「並ぶだけなら可能です」


 セラフィナ様が、にこやかに言った。


「心の距離は別料金ですが」


「請求先は王国でお願いします」


「高くつきますよ」


 ミリアさんが羽ペンを止めずに言った。


「補足。心的距離の平均値は討伐前と比較して約四・七倍に拡大している」


「測ったんですか」


「推定値」


「推定で小数点を出さないでください」


 ガレンさんが一歩前に出た。


「ならば詰めよう!」


「精神的にです」


「物理的に近づけば、精神も近づくのではないか?」


「今の一歩で聖女様が半歩下がりました」


 セラフィナ様は微笑んだまま言った。


「ガレンさん。悪意はないとわかっていますが、その距離感は破城槌です」


「破城槌」


 ミリアさんが議事録に書いた。


「有用な比喩」


「書かないでください」


「記録は重要」


「僕の仕事を取らないでください」


 アルトさんが式次第から顔を上げた。


「リオ」


「はい」


「帰っていいか?」


「帰れる人間がいると思わないでください」


「まだ始まってない」


「始まる前だから逃がさないんです」


 アルトさんは残念そうに椅子へ沈んだ。


 その様子を見て、セラフィナ様が微笑む。


「勇者様。寝台以外に座れることを確認できて安心しました」


「セラフィナ」


「はい」


「怒ってるのか?」


 控室の空気が、さらに冷えた。


 僕は一瞬、全身が固まった。


 今、それを聞くのか。

 ここで。

 式典直前の控室で。


 セラフィナ様の微笑みが深くなった。


「いいえ、怒っていませんよ」


「そうか」


「はい」


 ミリアさんが小さく言った。


「虚偽の可能性、九十八パーセント」


「ミリアさん」


「補足すると、セラフィナの微笑角度が通常時より二度上昇している」


「分析しないでください」


 ガレンさんが真剣な顔で頷く。


「つまり怒っているのだな」


「ガレンさんも乗らないでください」


 セラフィナ様はにっこりした。


「怒っていません。ただ、勇者様が三ヶ月ぶりにまともな衣服を着ていることに感動しているだけです」


「この服、リオが用意した」


「でしょうね」


「なぜわかる」


「勇者様がご自分で用意したなら、左右の靴下が違います」


 アルトさんは足元を見た。


「今日は同じだ」


「僕が確認しました」


「リオ、助かった」


「礼は式典が終わってからお願いします」


 ミリアさんが羽ペンを止めた。


「確認事項がある」


「今ですか」


「今」


 彼女は紙を一枚取り出した。


 あの百八項目の一覧だ。


 嫌な予感がした。


「勇者アルト。問一。魔王討伐直後に『じゃあな』と発言した際、その発言に含めた情報量を述べよ」


 アルトさんは真剣に考えた。


「またな、くらいの意味だった」


 ミリアさんの羽ペンが止まった。


 セラフィナ様の微笑みが止まった。


 ガレンさんが目を見開いた。


 僕は天井を見た。


「アルトさん」


「なんだ」


「それを三ヶ月前に言ってください」


「言ってなかったか?」


「言っていません」


「そうか」


 アルトさんは全員を見回した。


「じゃあ、今言う」


 そして、あっさりと言った。


「また会えてよかった」


 控室が静かになった。


 さっきまでの冷えた沈黙とは違う。

 少しだけ、何かが止まったような沈黙だった。


 セラフィナ様は目を伏せた。

 ミリアさんは紙を見たまま動かない。

 ガレンさんは腕を組んで、大きく頷いた。


「うむ! 俺もだ!」


 声が大きい。


 でも、今回は少し助かった。


 空気が動いた。


「勇者様」


 セラフィナ様が静かに言った。


「そういうことは、解散時におっしゃるべきでした」


「すまん」


「軽いですね」


「すまない」


「少し良くなりました」


「本当に、すまない」


 セラフィナ様は少しだけ目を細めた。


「……治療は後にしておきます」


「何の治療だ?」


「勇者様の言葉不足です」


「治るのか?」


「長期治療になります」


 アルトさんは少し困った顔で僕を見た。


「リオ」


「僕に振らないでください」


 ミリアさんが紙に線を引いた。


「問一は不完全ながら回答あり。追加質問は式典後に延期」


「百八問全部やる気ですか」


「厳選した」


「今日はやめましょう」


「では三十問」


「減らしてください」


「十問」


「式典後にしましょう」


「保留」


 ガレンさんが、急に背筋を伸ばした。


「俺も言うことがある」


 全員の視線が向く。


 ガレンさんは真正面から、三人を見た。


「木剣を持ってこようとして、すまなかった!」


 控室の外で、近衛兵がびくっとした。


 声が大きい。

 だが、内容は正しい。


「俺は、皆とまた話がしたい!」


 その言葉も、まっすぐだった。


 セラフィナ様が少しだけ笑う。


 今度は、ちゃんと笑った気がした。


「ガレンさん」


「なんだ」


「木剣を持ってこなかったことは、とても良い判断です」


「リオに止められた」


「リオさんは今日、一番の功労者ですね」


「今のところ報酬は胃薬だけです」


 ミリアさんがガレンさんを見た。


「確認。予備の短剣は?」


「置いてきた」


「盾は?」


「置いてきた」


「兜は?」


「置いてきた」


「隠し武器は?」


「ない!」


 ガレンさんは堂々と答えた。


 ミリアさんは頷いた。


「身体検査の必要性、低下」


「するつもりだったんですか」


「必要なら」


「必要ありません」


 少しだけ、控室の空気が変わっていた。


 まだぎこちない。

 まだ距離はある。

 でも、最初よりはましだ。


 このまま何事もなく式典へ出られれば、成功と言っていい。


 そう思った瞬間、扉が叩かれた。


「失礼いたします」


 入ってきたのは、王城の広報官だった。


 妙に晴れやかな顔をしている。


 嫌な予感がした。


「勇者パーティーの皆様、ご準備はよろしいでしょうか」


「はい。もう出られます」


 僕が即答すると、広報官は笑顔で頷いた。


「ありがとうございます。では、舞台上での流れを最終確認いたします」


「式次第は確認済みです」


「はい。加えて、演出が二点ほど追加になりました」


 僕の胃が反応した。


「追加」


「まず、勇者様の登壇時に白鳩を百羽放ちます」


 アルトさんが首を傾げた。


「白鳩?」


 セラフィナ様が微笑む。


「平和の象徴ですね」


 ミリアさんが眉を寄せる。


「室内で百羽?」


 ガレンさんが目を輝かせる。


「斬らなくてよいのか?」


「斬らないでください」


 広報官は笑顔のまま続けた。


「さらに、勇者パーティーの皆様には、最後に手を取り合って国民へ向けて一礼していただきます」


 控室がまた静かになった。


 握手だけではない。

 手を取り合う。

 一礼。


 難易度が上がっている。


「それは、誰が考えましたか」


「広報局です」


「またですか」


「感動的かと」


「現場を見てから感動してください」


 広報官は不思議そうな顔をした。


 この人は何もわかっていない。

 幸せそうで何よりだ。


 僕は四人を見た。


 アルトさんは眠そうだが、逃げてはいない。

 セラフィナ様は微笑んでいるが、毒は少し弱まっている。

 ミリアさんは議事録を閉じた。

 ガレンさんは胸を張っている。


 いける。


 たぶん。


 いや、いくしかない。


「皆さん」


 僕は低い声で言った。


「舞台上では、武器を出さない。資料を配らない。祝辞に毒を混ぜない。寝ない。鳩を斬らない」


「条件が多いな」


「全部基本です」


 アルトさんが立ち上がった。


 セラフィナ様も続く。

 ミリアさんが紙をまとめる。

 ガレンさんが大きく頷く。


 四人が、扉の前に並んだ。


 かつて魔王城へ向かった時と同じ顔ぶれ。

 ただし、あの時より問題は日常的で、胃に悪い。


 広報官が扉を開ける。


 外から、大歓声が聞こえた。


 国民が待っている。

 世界を救った英雄たちを。


 そして僕は、舞台袖で祈った。


 どうか。


 どうか、王城が壊れませんように。



 王城前広場には、見渡す限りの人が集まっていた。


 広場の中央に設けられた巨大な壇上。

 その周囲を埋め尽くす民衆。

 王城のバルコニーには国王陛下と各国の使節。

 空には青い旗がはためき、楽団が勇ましい曲を奏でている。


 そして舞台袖には、胃を押さえる僕がいた。


 なぜ記録係が式典本番の進行補助までしているのか。

 考えてはいけない。

 考えると、たぶん胃薬が足りなくなる。


「それでは皆様、お待たせいたしました!」


 司会者の声が広場に響いた。


「魔王を討ち、世界に光を取り戻した英雄たちの登場です!」


 歓声が爆発した。


 僕は小声で言う。


「皆さん、ゆっくり。武器は出さない。鳩は斬らない。資料は配らない」


「わかっている」


「わかっています」


「理解」


「うむ!」


 返事だけなら頼もしい。


 まず、勇者アルトが壇上へ出た。


 その瞬間、広場が揺れた。

 民衆の歓声。

 子供たちの叫び声。

 勇者の旗がいっせいに振られる。


 アルトさんは一瞬だけ足を止めた。


 逃げるか。


 僕は身構えた。


 しかしアルトさんは、逃げなかった。

 眠そうな目を少しだけ細めて、民衆へ手を振った。


 今度は三秒ではない。

 ちゃんと五秒。


 成長である。


 続いてセラフィナ様が出る。


 歓声の質が変わった。

 祈るような声。

 涙ぐむ人。

 手を合わせる人。


 セラフィナ様は慈愛の微笑みで、静かに頭を下げた。


 完全に聖女だった。

 さっきまで棺の話をしていた人とは思えない。


 次にミリアさん。


 魔法使いたちがざわめいた。

 王立学院の生徒らしき集団が、なぜか一斉に筆記具を構える。


 ミリアさんは壇上に立つなり、懐から紙を取り出しかけた。


 僕は舞台袖から全力で首を振る。


 ミリアさんは少し不満そうに紙を戻した。


 危ない。


 最後にガレンさんが出る。


 兵士たちから大きな歓声が上がった。

 剣士串焼きの屋台の主人まで叫んでいる。


 ガレンさんは胸を張り、民衆に向かって大きく手を振った。


 手を振るだけで風が起きた。

 最前列の少年の帽子が飛んだ。


 まだ被害は軽微だ。


 四人が壇上に並ぶ。


 その光景に、広場の熱気がさらに高まった。


 勇者。

 聖女。

 魔法使い。

 剣士。


 かつて世界の終わりに立ち向かった四人が、今、王都の光の中に立っている。


 それは、素直にすごい光景だった。


 僕は少しだけ、胸が熱くなった。


 ほんの少しだけ。


 直後、白鳩が百羽放たれた。


「多い」


 思わず声が出た。


 白鳩は空へ向かう。

 はずだった。


 しかし、そのうち十数羽が壇上の屋根に迷い、数羽が国王陛下のバルコニー方面へ飛び、三羽がアルトさんの肩に止まり、一羽がミリアさんの頭に乗った。


 ミリアさんが固まる。


 ガレンさんが小声のつもりで言った。


「リオ! 鳩がミリアを制圧しているぞ!」


「斬らないでください!」


 ミリアさんは頭の上の鳩を見上げられず、目だけで僕を見た。


「除去希望」


「ゆっくり手で」


「飛行経路が非合理」


「鳩に合理性を求めないでください」


 セラフィナ様がそっと手を伸ばし、ミリアさんの頭の鳩を逃がした。


「大丈夫ですか?」


「問題ない」


「少し羽がついています」


「問題が発生した」


 セラフィナ様が小さく笑った。


 ミリアさんは不服そうだったが、怒ってはいなかった。


 少なくとも、報告書を出すほどではない。


 たぶん。


 式典は進む。


 国王陛下の感謝状授与。

 勇者アルトの演説。


 アルトさんは演台の前に立った。


 広場が静かになる。


 僕は祈った。


 短く。

 短く。

 できれば、眠いと言わないで。


 アルトさんは民衆を見渡し、少しだけ言葉を探した。


「魔王は倒した」


 いきなり結論だった。


「でも、俺一人じゃ無理だった」


 セラフィナ様が目を上げた。

 ミリアさんの羽ペンが止まった。

 ガレンさんが真剣な顔になる。


「ここにいる皆がいたから勝てた。王国の兵士も、魔法使いも、教会の人たちも、各地で戦った人たちも、記録を残してくれたリオも」


 僕は一瞬、自分を指差した。


 今、僕を入れたか。


「だから」


 アルトさんは少し困った顔で、でも逃げずに言った。


「ありがとう。また会えてよかった」


 広場が、一拍遅れて歓声に包まれた。


 短い。

 短すぎる。

 でも、アルトさんにしては十分だった。


 セラフィナ様は静かに拍手をした。

 ミリアさんは何かを書こうとして、やめた。

 ガレンさんは大きく頷いていた。


 僕は、少しだけ息を吐いた。


 次は聖女の祝福。


 セラフィナ様が前に出る。


 僕は舞台袖から口の動きだけで言った。


 毒なし。


 セラフィナ様は、こちらを見て微笑んだ。


 信用できるような、できないような微笑みだった。


「この日を迎えられたことを、光の神に感謝いたします」


 よかった。

 普通だ。


「勇者様をはじめ、共に戦った仲間たち、そして今を生きるすべての人々に、癒やしと安らぎがありますように」


 完全に聖女だ。


「なお、長期睡眠から目覚めた方にも、適切な社会復帰がありますように」


 混ぜた。


 広場の民衆は意味がわからず、ありがたい祈りとして受け取った。

 アルトさんだけが首を傾げた。

 ミリアさんは小さく頷いた。

 ガレンさんは感動していた。


 まあ、致命傷ではない。


 次はミリアさんの魔王討伐戦解説。


 持ち時間は五分。


 ミリアさんは演台に立ち、民衆を見た。


「結論から言うと、魔王討伐は複数要因の収束によって成立した」


 学院生たちが一斉に筆記を始めた。


 まずい。

 授業になる。


「詳細は全十二章の資料にまとめてあるが」


 僕は舞台袖から全力で首を振る。


「本日は配布しない」


 よし。


「要約する。勝因は、勇者の突破力、聖女の継戦支援、剣士の前線維持、各地の支援、そして記録係による情報整理」


 また僕が入った。


 今日の皆さん、なぜ僕を巻き込むのか。


「以上」


 四分余った。


 広場が一瞬ざわめいた。

 短すぎると思ったのかもしれない。


 だが、王立学院の生徒たちは泣きそうな顔で拍手していた。

 たぶん、長い講義に慣れているのだ。


 次はガレンさんの剣技披露。


 僕は祈った。


 床が割れませんように。

 壁が壊れませんように。

 国王陛下の冠が飛びませんように。


 ガレンさんは木剣を持っていない。

 かわりに儀礼用の細い剣を持っている。

 刃は潰してある。

 安全確認済み。


 たぶん。


「これより、不安を斬る剣を見せる!」


 言い方。


 だが、動きは美しかった。


 踏み込みは静かで、剣筋は滑らかで、風は起きても物は壊れない。

 戦場で見せる破壊の剣ではなく、祭りで見せる祈りの剣だった。


 民衆が息をのむ。


 最後にガレンさんが剣を掲げると、広場が拍手に包まれた。


 壊れたものはない。


 奇跡だ。


 僕は記録帳に書いた。


『ガレンさん、何も壊さず剣技披露に成功』


 これは後世に残すべき記録である。


 そして、最後の難所が来た。


「それでは皆様!」


 司会者が声を張る。


「勇者パーティーの皆様に、仲睦まじい握手をお願いしましょう!」


 壇上の四人が固まった。


 広場の民衆が期待に満ちた目で見ている。

 国王陛下も微笑んでいる。

 広報官は満足そうだ。


 現場のことを何も知らない人々の笑顔は、まぶしい。


 僕は舞台袖から小声で指示する。


「右手です。武器じゃなくて右手を出してください」


 ガレンさんが右手を出す。

 アルトさんも右手を出す。


 二人は握手した。


 ガレンさんが力を入れすぎないか心配だったが、アルトさんは普通に耐えた。

 さすが勇者。


 次にアルトさんとセラフィナ様。


 少しだけ間があった。


 セラフィナ様が微笑む。


「逃げませんでしたね」


「リオに止められた」


「よい判断です」


 二人は握手した。


 短い。

 でも、ちゃんと手は重なった。


 次にアルトさんとミリアさん。


 ミリアさんは少し迷ってから、手を出した。


「追加質問は式典後」


「少なめで頼む」


「努力する」


 握手。


 最後に、全員が順番に手を取り合う。


 ぎこちない。

 明らかに慣れていない。

 ガレンさんの手が大きすぎて、ミリアさんが少し困っている。

 セラフィナ様は笑顔だが、アルトさんの手を逃がさないように押さえている。

 アルトさんは眠そうだが、逃げてはいない。


 それでも。


 四人は手を取り合い、民衆へ向かって一礼した。


 広場が、今日一番の歓声に包まれた。


 僕は舞台袖で、壁にもたれた。


 終わった。


 成功だ。


 王城は壊れていない。

 鳩は誰も斬っていない。

 資料は配られていない。

 祝辞の毒も軽傷で済んだ。

 ガレンさんは何も壊さなかった。

 アルトさんは寝なかった。


 これはもう、勝利と言っていい。


 魔王討伐後、最大の勝利かもしれない。


 そう思った瞬間だった。


「なお、ここで王国より重大なお知らせがございます!」


 司会者の声が響いた。


 僕は顔を上げた。


 聞いていない。


 広報官が満面の笑みで僕に親指を立てた。


 やめろ。

 その笑顔はやめろ。


「勇者パーティーの皆様には、この平和を国中に届けるため、今後一ヶ月、王国各地を巡る親善旅行にご参加いただきます!」


 壇上の四人が、同時にこちらを見た。


 アルトさん。

 セラフィナ様。

 ミリアさん。

 ガレンさん。


 四人の目が、はっきりと僕に言っていた。


 聞いていない。


 僕も言いたい。


 聞いていない。


「もちろん、旅程調整および同行記録係は、勇者パーティーを最もよく知るリオ・グレイ君に務めていただきます!」


 広場から拍手が起きた。


 なぜ拍手する。


 僕は舞台袖で固まった。


 宰相が遠くから、実に満足そうに頷いている。


 セラフィナ様は慈愛の笑みを浮かべたまま、目だけで僕を刺している。

 ミリアさんはすでに必要物資リストを書き始めている。

 ガレンさんはなぜか嬉しそうだ。

 アルトさんは、口の動きだけで言った。


 逃げていいか。


 僕は首を横に振った。


 駄目です。


 広場は歓声に包まれている。

 世界は平和だ。

 人々は笑っている。

 勇者パーティーは並んでいる。


 そして僕の胃は、また救われなかった。


「……魔王討伐後の世界」


 僕は聖女様にもらった胃薬を取り出しながら、つぶやいた。


「思ったより、ずっと平和じゃない」

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