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その日は朝からずっと雨が降っていた。夏の訪れを運ぶ雨だ。空を覆う暗い雲から降り注ぐどしゃぶりの雨は、けれど地上の幸せを曇らせることができなかった。
「もしもやり直せるのなら、今度はもっと素敵な式を挙げたいと思っていたのよ。まさにこんな風な、ね」
ヴァルムートの前で、ロザレインはそう言って笑った。彼女の視線の先には、彼女が愛した男がいる。
「そこで、わたくしは祝福に満ちた結婚をするの。愛して愛されて、たまには喧嘩もするでしょう。そんな人と添い遂げるのよ」
ロザレインにとっては二度目となる花嫁衣裳。一度目も二度目も、ロザレインは幸せそうな笑みを浮かべていた。一度目は、その笑みもすぐに陰って涙に濡れてしまったが……二度目はきっと、そんなことにはならないだろう。
「やり直し、させてくれるんでしょう?」
「もちろんです。永遠の愛と幸せを約束しましょう。貴女に笑っていてもらうためならば、私は何度失敗をしてもやり直します。成功を掴むその日まで」
ミカルは強く頷いた。ヴァルムートが認め、手塩にかけて育てた愛弟子だ。彼ならきっと、ロザレインを正しく愛して守ってくれる。
二十年以上前のあの日、駐屯地から連れ帰った小さな孤児。ヴァルムートの財布を盗もうとしたその少年は、長い年月をかけてヴァルムートの一番の宝物を奪っていった。そしてヴァルムートは、あの財布と同じように宝物を彼に渡した。
「ほら、婿殿。そろそろ式が始まるぞ。さっさと行って来い」
「承知いたしました、お義祖父様」
しかめっ面を作ってみせると、ミカルは苦笑して控室を出ていった。
神の像の御前で神父と共に待つ花婿のもとに花嫁を連れて行くのはヴァルムートの役目だ。今日の主役の片割れはどうせすぐにこの可憐なる花嫁を独占できるのだから、少しぐらい待ちぼうけを食らえばいい。
「……お祖父様、本当にありがとう。貴方の孫であれて、わたくしは幸せでした」
「何を言う。お前はこれまでもこれからも、ディエル家の者だ。今さら感謝などいらんわ」
「ええ、そうでしたわね!」
頭を撫でれば、ロザレインは破顔して腕にしがみついてくる。最愛の孫娘を伴い、ヴァルムートも控室を出た。
招いた客人はさほど多くない。ヴァルムートと古くからの付き合いがある老貴族や古参の軍人とミカルの友人や部下、そしてヒルデリザとディエル家の使用人達。ロザレインと年が近そうな令嬢はそういない。
……下手に付き合いを深めると悪い虫がつくし、唯一女主人役として頼れそうなヒルデリザですら人好きのしない性格だったせいで、今まではそれでもいいと思っていたが、少し心配になってきた。
神父の仲介のもと、神の御前で結婚の報告をする――――そんな中、ひときわ大きな雷鳴が轟いた。
「ロザリィ! ミカル!」
それに呼応するように、神の像が倒れ込む。参列者が騒めく中、ヴァルムートがいっとう大きく声を張り上げた。
横にそれていた場所に立っていた神父は無事だが、腰を抜かしてへたり込んでいる。土埃が辺りにもうもうと立ち込める中、誰もが目を凝らしてロザレイン達が立っていた場所を見つめていた。
「ご安心なさってください。この通り、私達は無事ですから」
ミカルの声は、少し離れたところからした。
ミカルの腕の中にはロザレインがいる。どちらも怪我をした様子はなかった。像が倒れてくることに気づいて、素早くミカルがロザレインを抱えてその場から離れたようだ。大事なく、ヴァルムートはほっと胸をなでおろした。
「どうやら神は、花嫁のあまりの美しさに嫉妬してしまったみたいね。一度目にはなかった兆しだけれど……きっとこの二度目の結婚は、神が我慢ならないほど末永く幸せにあふれたものになるからでしょう」
ミカルに抱かれたまま、ロザレインは自信に満ちた笑みを浮かべる。傲慢な姫君の前では凶兆も何の意味もなさない。勇敢な花婿に、そして機転の利く花嫁に、万雷の拍手が降り注いだ。
「――ああ、ああ、素晴らしい。これが人の力ですか。お二人は、神が紡ぎし死の運命を乗り越えました。人の手に堕ちた愛し子に、神はすでに興味もなく。最後の一矢が阻まれた今、神はついにその寵愛を諦めたのです」
声が聞こえた。声のするほうを振り返ったヴァルムートだが、声の主らしき者はいなかった。
「たった二度、されど二度。わたくしめの気まぐれが功を奏したようで何よりです。悪魔の呪いも、これにて終わりとなりましょう。ですがどうか恐れなさるな。悪魔の助力などなくとも、お二人は運命を切り拓いていけるのですから」
その声は拍手の音に掻き消える。気のせいだったのだろうか。
「お二人の愛は神をもしのぐ奇跡となり、奇跡を救いとしてみせた。であるなら、その想いは刺となって心に深く刺さるでしょう。……ええ、ええ。あのお二人は、悪魔に魅入られてしまったのですよ。ですから、今後何が起ころうと、行きつく先は変わりません」
幻聴が聞こえてくるとは、ずいぶんもうろくしてしまったようだ。
「お二人の人生には、これからも幸が続くことでしょう。たとえ舞台の上の主役が変わったとしても、同じことでございます」
苦笑を浮かべ、ヴァルムートは前に向き直った。
「悲しみ、痛み、そして喜び。一度抱いたそれは、決して消えませぬ。もはや新たな奇跡は必要ないでしょう。一度でも悪魔がもたらす奇跡に縋った者は、決して同じ轍は踏まないのです。たとえその奇跡のすべてがなかったことにされたとしても、最適解が心に刻まれているのですから。ですが、これまでの日々が無意味になったとは断じなさるな。それがあったからこそ、この答えに辿り着いたのですからね。……さて、わたくしめはそろそろお暇させていただきましょう。祝いの場に、悪魔はお呼びではありません」
声は、それきり聞こえなくなった。
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* * *
ベッドに寝そべるコーリスは、することもないまま窓の外を見ていた。
だるい身体を襲う咳はずっと止まない。咳をするたび、幻肢痛がコーリスをさいなむ。血の混じった痰を吐き出すのはまだいいほうで、ひどいときは喀血が止まらない。多分もう、この身体は長くないのだろう。むしろ今までよく持ったほうだ。
すべての罪が暴かれたあの日から四十年が経った。父に逆らってまで望んだ、ユールチェスカの手による断罪が訪れる日は永遠に来ない。だが、死による贖いも求められなかった。ユールチェスカはもちろんコーリスでさえ、生きて罪を償えと言われたのだ。父の傀儡として生きてきたコーリスにできることなんて、何一つとしてなかったのに。
失ったものは多い。父は処刑され、キルトザー家は位を剥奪された。サージウスはコーリスを裏切り者としか思っていないだろう。ユールチェスカには二度と会えない。それから、片腕と両方の足。使い物にならないと判断された片腕は斬り落とされ、両足はがれきに下敷きになった後遺症で不自由になった。こんな身体で、一体何を償えというのか。息をするだけで罪深く、それを突きつけられること自体が罰だった。
ユールチェスカは、とっくに死んでしまっているだろう。もともとユールチェスカは、いつ謀殺されるとも知れない身だ。ユールチェスカに死んでほしい人間はいくらでもいる。彼女の生を信じるには、虜囚の日々は長かった。
けれどコーリスはまだ生きている。コーリスは父のおまけでしかなく、コーリス自身に価値があったわけでもなかったからだ。
そんな自分がどうして生かされたのかもわからないまま、それでもコーリスは死んでしまうその一瞬まで生きようと決めていた。それを考え、探し、そして死ぬまでがこの贖罪に課せられた意味なのだろう。そしてその日々が終わる瞬間がもうすぐ来るのだと、他ならない自分が一番知っていた。
「……ん」
ふと、どこからか蝶が飛んできた。どこぞの隙間から入り込んできたのだろう。鉄格子越しの窓を外だと勘違いしたのか、蝶はそのまま窓に向かって飛んでくる。
鉄格子の合間に張られた蜘蛛の巣が、その蝶の行く手を阻んだ。蜘蛛の姿こそないが、蝶はそこから逃れようと必死にもがいている――――それが、誰かの姿に重なった。
その位置なら、車椅子に移らなくても届くだろう。重い身体をなんとか起き上がらせて、そっと腕を伸ばす。コーリスの指に巣の残骸が絡みつき、解き放たれた蝶は鱗粉を散らして飛び立った。それを目で追うコーリスだったが、いつの間にか蝶は消えてしまっていた。どうしてそれが残念なのかもわからないまま目を伏せて、
「――貴方は、お優しい方ですねぇ」
ぞわり、背筋に怖気が走った。
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