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じゃらじゃらと揺れ動く飾りに目がいった。ああいうのを服にぶらさげている軍人は、大体貴族様らしい。どれもこれも、陽の光を反射してきらきら光っている。あれを一つでもむしり取れたら、さぞ高値で売れるだろう。
目だけぎょろりと動かして、物陰からそっと獲物の様子をうかがう。やけに図体がでかい。そういう奴は、総じてノロマだ。
それに、貴族の軍人は弱い奴らしかいない。やたらと偉そうにしてくるが、全員マヌケなのでさほど不愉快にはならなかった。むしろ絶好のカモなので、ガラの悪い傭兵連中よりはよほど好きだ。
獲物はきょろきょろ辺りを見渡している。だが、その気の抜けた様子からして警戒のためと言うより見物していると言ったほうが正しいのだろう。荒れ果てた街が珍しいのか。いいご身分だ。誰のせいでこうなったかも知らないで。
獲物が足を止めた。ゴミみたいにしなびた野菜のかけらを並べた露天商の前だ。
今だ。深呼吸を一つして飛び出す。背中側に金目の物はない。ふくらんだズボンのポケットにそっと手を伸ばす。猫のようにすばしっこく、鴉のように目ざとく。音は立てていなかったし、獲物は自称商人と喋っている。するりと財布を抜き取っても、気づいた様子はちっともなかった――――それなのに。
「スリか? この私を相手に盗みを働くとは、ずいぶんといい度胸だな」
「ッ!?」
手首が、強い力で掴まれた。獲物はこちらを見もしない。見ていないのに、どうして気づかれてしまったのか。
「は、はなせよっ!」
痛い、痛い痛い痛い痛い!! 痩せ細った腕は今にももげてしまいそうだった。さぁっと血の気が引いていく。逃れようともがくが、それはまったくの無駄に終わった。
(貴族はチョロい。貴族はバカばっかりだ。でも、もしヘマをしたら……!)
貴族を怒らせてひどい目に遭った奴のことは何人も見てきた。
けれど自分は一度だってそんなヘマをしたことがなかった。だから、今回も大丈夫だと思った。実入りのいい仕事がそっちから歩いてきてくれたから、これで今日はちょっとまともなものが食べられるはずだった。
どうしよう、どうやって逃げ出そう。自称商人と目が合った。関わり合いになりたくないと言いたげに彼はそっと目をそらし、媚びた笑みを浮かべて獲物を見上げた。
「さすがですね、旦那。そのガキは、ここらじゃちょっと有名な盗人でさぁ。軍人さんも、あっしらみたいな商人も、かなり被害に遭ってるんだ。どうかしっかりお灸を据えてやってください。今のままじゃ、まともな大人に育ちやしねぇ」
余計なことを。そっちだってあこぎな商売をしているだろう。反論しようと開いた口は、喋るためではなく舌を噛むために使う羽目になった。
「ッ!!」
獲物の手が手首から離れた。衝撃のあまりへたりこむ。両手は自然に頭頂を押さえていた。拳骨だ、とわかった矢先に視界が涙でにじんだ。涙なんて、とうに枯れたと思っていたのに。よりによって痛くて泣くなんて、すごくかっこ悪いじゃないか。
「なんだ、こんな小さな子供だったのか。ずいぶん手慣れているから、もう少しいっているかと思ったが……ずいぶん痩せた身体だな。孤児か何かか?」
「へえ。そいつは父なし子のミカルでさぁ。何年か前に母親が死んじまいましてね、それからこうやって人様に迷惑かけながらこそこそ生きてるロクデナシなんですよ」
獲物がようやくこっちを見た。痛みのあまり動けないミカルに代わって自称商人がべらべら喋る。うるさい、うるさい。お前に一体何がわかる。
「その財布がほしいならやろう。ただし、罪は罪だ。見過ごすわけにはいかん」
「うわっ……!? なにすんだよ、この人さらい!」
獲物……いや、狩人の腕がぬっと伸びた。逃げる間もなく捕まってしまう。
「人さらいじゃない。ヴァルムートだ。ディエル中佐と呼べ。……私はこの街における様々な権限を、一時的なものとはいえ陛下から賜っている。罪人を法に照らして罰を与えるのも私の仕事だ」
「知らねぇよ! 軍人が今さらしゃしゃり出てきてしきろうとしてんじゃねぇ! この街がマクスファレンに攻め込まれたのは誰のせいだ!? お前らが役立たずだったから父さんは死んだんだ、お前らが守ってくれなかったから母さんは死んだんだ! 軍人が我が物顔で通りを歩いてたら、またマクスファレンの軍隊が来るだろうが! どうせ肝心な時に俺らを見捨てて逃げ出すんだ、だったら最初から有り金全部置いてとっとと帰りやがれ!」
「なんだって? どうやらお前は、帝国軍人というものを誤解してしまっているようだな。嘆かわしい。こんな子供を失望させるほど堕落した者が、この誉れ高い軍服に袖を通していたとは」
わめくミカルのことなど意にも介さず、ヴァルムートと名乗ったその男は悠々とミカルの身体を担ぎ上げた。最初こそ暴れたが、この図体のでかい軍人はミカルが何をしてもどこ吹く風だったし、下手なことをして落ちると怪我をするのは自分だと気づくと馬鹿らしくて抵抗もやめた。
それに、無駄に動くと腹が減る。そもそも、もうそんな元気もない。今日はまだ何も食べていなかった。一昨日は酒場の残飯をかっぱらってきたから珍しく豪勢な食事ができたが、昨日口にしたのは鼠とか水たまりの水とかそういうものだ。それは大体いつも食べている物と同じで、ようするにろくなものにありつけた試しは数えるほどしかなかった。
――――だから、連れて行かされた先で聞かされた脳髄を揺さぶる魔王のような恐ろしいお説教も、振る舞われた柔らかいパンと温かいスープも、ひどく心に染みていった。
*
人はとても簡単に死ぬ。そのことは、よく知っているつもりだった。今さらそれについて心を揺さぶられることなんてない、はずだった。
真夜中の屋敷は重苦しい沈黙に包まれている。静寂の中で鳴り響いた柱時計の鐘は、いつもより大きく聴こえた。そのせいだろう。今まで眠っていた赤子が目を覚ましてぐずりはじめてしまった。
悲しみに暮れながらも葬儀の支度に奔走する使用人達や屋敷の主人は、その子に構う余裕がない。泣いている赤子をあやすことを任されたのは、手持無沙汰のミカルだった。
「君も、俺と同じか……」
兄姉のように慕っていた夫婦の、たった一人の忘れ形見。小さくも重い命のぬくもりを抱きあげる。背中を軽く叩きながらしばらく揺り動かしていると、次第に泣き声は止んでいった。
「……いや、君は一人じゃないな。だって君にはみんながいる。閣下も、たくさんの使用人達も、それから……俺もいる」
この子は、たった一日で両親を一度に失った。この子自身はそのことを理解できていないだろう。だからこんなにも無邪気に笑って、ミカルに手を伸ばしているのだ。
両親の顔なんて、この子はすぐに忘れてしまう。そもそも、彼らの顔を認識できていたかもわからない。けれどこの子はきっと、飢えも寒さも知らずに育つだろう。たとえ両親がいなくても、その不在の愛の代わりにはならなくても、別の愛がこの子を包んでくれるのだから。
「地を這って暗がりで生きるみじめさも、隙間風の吹く夜にあえぐひもじさも、生を免罪符にする苦しさも、親の顔もわからない寂しさも、目の前で親を失う悲しさも、君は何一つとして知らなくていいんだ。そんなものを感じなくていいように、俺達が君を守るから。だから、大丈夫だよ……ロザリィ、」
君は、綺麗なままでいてくれ。いつでも笑っていてくれ。そして、誰よりも幸せになってくれ。
* * * * *
「おや、旦那様。今日はずいぶんすっきりしたお顔ですね。よく眠れましたか?」
「ああ。懐かしい夢を見てな。おかげで自分の原点に返った気分だ」
起こしに来た女中は、「それはようございました」と微笑んで水差しに手を伸ばした。差し出された水を、礼を言って受け取る。冷たい水が喉に染みた。
知らなかったとはいえ皇子もいた場に踏み入った罰として、ミカルには一か月の減棒と三週間の自宅謹慎が言い渡されていた。その謹慎期間が毒に蝕まれた身の療養を兼ねたものだというのは言うまでもない。今日はその謹慎が解ける日で、決行をロザレインに告げて以来初めてディエル邸に足を踏み入れる日でもあった。
ミカルを刺したナイフには本当に毒が塗られていた。解毒剤を処方したのは他ならないユールチェスカだ。周囲が止めるのも聞かず、ユールチェスカは素早く解毒剤をミカルに注射した。彼女は、「頑丈そうな人だから何もしなくても命に別条はないだろうけど、自分の始末は自分でつける」と言っていたらしい。何を思ってユールチェスカがミカルをそう称したのかはわからないが。やけに身体が丈夫だというなら、ヴァルムート直伝の特訓のおかげか、あるいは断じて好んで食べていたわけではない幼少期の悪食のせいだろう。
ミカルの意識は二日後には戻っていた。ロザレインにヴァルムート、ベルナとローディルや、シュリスをはじめとした部下達。見舞いと称して入れ代わり立ち代わり様々な者がミカルの家にやってくる。おかげで女中も大変そうだった。もともと少なくない給金を渡しているが、今月は少し色を付けたほうがよさそうだ。
「今日は十時からディエル邸に行く。昼食と夕食の支度はしなくて大丈夫だ。いつもの通り、一通りの家事が終わったら帰って構わない。戸締りだけしておいてくれ」
「かしこまりました。さ、朝食の用意ができていますよ。早く召し上がって、お出かけの準備をなさいませ」
ちらりと時計を見る。八時。なるほど、確かに少し急いだほうがいいかもしれない。今日は大切な日だ。支度に時間をかけたほうがいいというのは、男も女も変わらないだろう。
*
「改めまして……ただいま帰還いたしました、ロザリィ」
「ミカル!」
応接間を開けて微笑む。ロザレインがぱっと顔を輝かせて立ち上がった。
「よかった。もうすっかり元気そうね」
「ええ、おかげさまで。これはお見舞いに来ていただいたお礼です。ロザリィ、どうぞ受け取ってください」
ロザレインに跪いて白いユリの花束を渡した。ロザレインは嬉しそうにそれを受け取って左手で抱え、右手をミカルに差し出す。ミカルは苦笑してその手の甲にキスをした。
「お祖父様ったら寝坊してしまったのよ。きっと昨日飲みすぎたせいね。すっかり高いびきで、じいやが起こそうとしても全然聞こえてなかったの。もうすぐいらっしゃると思うけど……」
「閣下もお疲れなんですよ。エルセトから飛んで戻ってきて、ロザリィと殿下の離縁の手続きに奔走していらっしゃいましたからね」
サージウスの名誉は地に落ちた。彼の妃だったロザレインにまでいわれのない悪評が飛び火することを恐れたヴァルムートは、半ば強引にロザレインとサージウスを離縁させたのだ。
サージウスがディエル家の後ろ盾すら失っては困ると皇室はごねたが、態度を翻して離縁をねだるロザレインを前にしてヴァルムートが手心など加えるはずもない。怪しげな薬に翻弄されなかった歴戦の老将は、その一喝をもって可愛い孫娘の四か月に渡る結婚生活をなかったことにした。
「ええ、そうね。わたくしは、殿下と離縁したの。今のわたくしは、誰のものでもなくってよ」
ロザレインは花束を愛おしげに抱きしめる。頬を染めたロザレインの視線の先には、ミカルに取られたままの右手があった。
「ねえ、ミカル。高貴な花は、誰にも手折られてはいけないわ。けれど……美しい花には、それを守り慈しむ庭師が必要だと思わない? すぐにしおれてしまう儚いその花をこの世のすべてから守り抜いて、その気高さと華麗さを永遠に保てる庭師。そんな人に、一人だけ心当たりがあるのだけれど」
「その技量を花に認められるのは、庭師にとってはこのうえない誉れでしょう」
「……傍には、いてくれるのね」
す、と。ロザレインの瞳が淡い期待と諦観に細められる。
ロザレインの言葉は、『我がミンネに白百合を』の一節をもじったものだ。だからミカルは戯曲の台詞通りの答えを返した。
この花を摘み取って誰の目にも触れない場所で飾ってほしいと願う貴婦人に、自分はあくまでも温室を守る庭師にすぎないと騎士は答える。ゆえに二人の関係はそこから変わることがなく、精神的な結びつきによる崇高な愛のままでいられた――――けれど、ここはあの戯曲の世界ではないのだ。
これは泡沫の夢ではなく、大仰な舞台でもない。つまらない悩みはとっくに捨てた。欲深く罪深いことの何が悪い。理想の騎士は演じきった、あとは役者が素顔を晒すだけだ。
「ロザリィ。これから先もその栄誉は、その者以外の誰にも与えませんよう。そうでなければ、その庭師は嫉妬に狂って花を摘み取り、誰の目にも触れない場所に飾ってしまうかもしれません。そうなれば、きっと多くの人が悲しむでしょう。……そんな恥知らずな真似は、私もしたくはありません」
ロザレインの右手に添えた手に力を込める。握ったこの手はもう決して離さない。同じ過ちを繰り返しはしないと決めたのだ。他の男にみすみす彼女を譲るようなことは、もう二度としてたまるか。
「かつての私は愚かだった。本当に大切なことに気づかず、失ってからようやくわかった。何もかもが手遅れになった後で、すべてをやり直したいと願った。……諦めと絶望が生んだ、ありえない夢物語です。けれど奇跡は、何故か私のもとに舞い込んだ。だからこそ、今度は後悔しない選択をしたい」
たとえ神に叛いても、たとえ悪魔に身をゆだねても。
だから、ロザリィ。どうか、この想いを受け取ってくれ。
「おお、ミカル! もう来ていたか! すまんすまん、なかなか書類が見つからなくてなぁ! まさかエルセトに忘れてきたかと思って焦ったわ!」
ロザレインの返事を聞く前に、ドアが勢いよく開く。数枚の書類を手にしたヴァルムートが意気揚々と応接間に入ってきた。ヴァルムートはこの数週間で一気に若返ったように見える。今が楽しくて仕方ないのだろう。
「こんにちは、閣下。書類が無事見つかったようでなによりです。これで養子縁組の話を先に進められますね」
「ああ。各所に根回ししただけで、ろくに手をつけられなかったからな。だが、ようやく本腰を入れられる」
ミカルがヴァルムートの養子になるのは、以前から考えられていたことだ。今日ミカルがディエル家に招かれたのは、その養子縁組の話のためだった。仮定の段階を出なかったそれが、ようやく現実味を帯びてくる。
ロザレインははっとした顔で手を振りほどこうとする。けれどミカルはそれをさせなかった。華奢な少女の手を逃がさないよう掴んでおくことぐらい、ずるい大人の男にとってはたやすいことだ。
「ロザリィ、式の日取りはいつがいい? 再婚があまり早いとなんだかんだうるさい連中もいるだろうが、お前に対する殿下の冷遇ぶりと、キルトザー家の陰謀を暴いた功労者の名は誰もが知るところだ。表立って文句を言われはせんだろう」
「……式? お祖父様、何を言ってらっしゃるの?」
「何を、だと? お前には伝えたつもりでいたが……まさか慌ただしさのあまり、そう思い込んでいただけだったか? お前ならきっと喜んでくれると思っていたからこそ、私の頭の中だけで結論付けてしまったと?」
ヴァルムートは目を丸くする。それについては唯一の肉親である彼から伝えるべきだと思ったのでミカルは黙っていたのだが、まだ何も聞かされていなかったとは。
ロザリィと呼ぶと嬉しそうにしていたのは、ミカルがそう呼ぶ理由を知っていたからではなかったようだ。道理で、見舞いのときはもちろん今日ですらもなんとなく温度差があるわけだ。もう誰にはばかることなく添い遂げられるのに、ロザレインがずっとどこかミカルを試すように不安そうにしていた理由がようやくわかった。
「私はディエル家の養子になります。願わくばロザリィ、貴女の婿として。……貴女を愛しているんです。どうか、私の妻になると言ってくださいませんか?」
そのときのロザレインの顔を、ミカルはきっと一生忘れないだろう。




