変化
日差しが眩しい快晴の朝。
厩舎で馬の準備を待って居たアレスの下に、エレナは息を切らして駆け寄った。
「アレス様、おはようございます」
「……走って来たのか?」
アレスは、いつもと違い額に汗を浮べるエレナの様子を見て言った。
「はい。今日は寝坊してしまって」
昨夜は恐ろしい夢を見てばかりで何度も目が覚めてしまった。朝方漸く眠りに付いたけれど、おかげでいつもと同じ時間に起きる事が出来なかった。
「起きられないなら来るな。毎朝無理に馬を駆る必要は無いだろう」
「いえ。アレス様とお話できる唯一の時間ですから何が有っても来ます。それに私、馬を駆るのが大好きですから」
にこりと笑って言うと、アレスは呆れたのか目を反らしそれ以上何も言わなかった。
相変わらず素っ気無いアレス。
(でもこうやって話せるだけでも幸せ)
アレスと数人のアレスの側近と共に、風を切って草原を駆ける。
青い空。爽やかな風。
悪夢でだるかった身体が軽くなる。
(気持ちがいい)
アレスの背中を追って駆けていると、嫌な事は全て忘れられそうだった。
アレスが時々立ち寄る、小さな湖の畔をエレナはとても気に入っていた。銀色の湖面に美しい花。緑の自然。とてもゆったりとした気持ちになる。
最近のアレスはよくこの湖に立ち寄るから、エレナは内心喜んでいた。
今日もアレスは湖の畔で休憩を取った。
馬に水を飲ませるとエレナはのんびりと辺りを散策する。
アレスの隣にずっと居たい気持ちは有る。
けれど、強引に着いて来ている自分が張り付いていてはアレスが疲れてしまうだろうと遠慮しているのと、自分自身が散策を楽しむ為だった。
花の美しさを眺め、湖の冷たい水に手を浸す。
ひんやりとしていて、気持良い。
いつもだけれど、静かな銀色の湖面を眺めているといろいろな事が頭に浮かぶ。
主にアレスの事で、その話をフィーアにすると、それは湖面を通して無意識に自分の内面を見ているんだと言われて妙に納得した事が有った。
それ以来湖面を眺める事を楽しみにしていたけれど、今日頭に思い浮かんだのは、アレスの事ではなくカーナ家の屋敷で会ったセーラ姫とカヤの事。それからフィーアと話したカーナ家の秘密についてであった。
(カーナ家の当主達は私が思っている以上に恐ろしい事をして来たの?)
王が代わる時に現れる四つの名前。
(どういう事なの?)
考えると不安を感じ頭が痛くなる。痛みを吐き出す様に無意識に大きな息を吐いていた。その時、いつの間にか近付いて来ていたアレスに声をかけられた。
「何をしている?」
「アレス様……あの、湖を見ていたんです」
アレスはエレナの言葉を無視して険しい表情で言った。
「何を考えていた?」
「え?」
アレスに言われた事の意味が理解出来ず、エレナは戸惑う。いつもにエレナの行動に呆れて言う「何を考えてるんだ?」と言った事とは違う意味だと思えたから。
「随分と険しい顔をして湖を見ていた。お前がそんな顔をするのは初めて見た。何を考えていたんだ?」
「険しい顔……私がですか?」
そんなつもりは無かった。ただ気がかりな事が多くて憂鬱な気持ちにはなっていたけれど。
「少しは自覚した方がいい。お前は感情が顔に出やすく、王太子妃としては失格な程無防備だ」
「……失格」
アレスのはっきりとした言葉が胸に突き刺さる。王太子妃として失格と言う事はアレスの妻としても相応しくないと言う事なのだから。
「も、申し訳有りません。これからは気をつけます」
「気にする必要は無い。改善しろと言ってる訳ではない」
「でも……」
「お前が王太子妃として過ごすのは一時なのだから無理に変える必要は無い。それより朝から様子がおかしいのはなぜだ?」
アレスは、相変わらずエレナとの離縁の意思を変える気配は無い。会話の中でもその事実を思い知らされる。
「朝起きられなかった事でしたら悪い夢を見たからです。だから今日は元気が出なくて……」
落ち込みながらも答えると、アレスの表情がまるで怒っているかの様に厳しくなった。
「夢見が悪かったのが本当だとしてもお前はそれを引き摺る性格ではない。ここはお前が気に入っている場所だろう。いつもなら嫌な事は忘れ楽しんでいるはずだ」
「……」
「神官長から何か言われたのか?」
「お父様から?」
「婚儀の日からもう三ヶ月を過ぎた。神官長がお前に何か命令を下すとしたらそろそろだろう」
「命令ってどんな命令ですか?」
アレスの言葉は予想外で、本当に分からなかった。
「とぼけているのか?」
アレスはますます険しい顔になる。
「とぼけてなんていません」
父とは王宮の宴で会って以来顔すら見ていないのだから。
連絡が有るとしたら、昨日の里帰りの件だろう。
もしかしたら昨日フィーアと予想した通り、セーラ姫が神官長に報告して既にアレスの耳に入っているのかもしれない。
だから今日のアレスはエレナの様子を気にして、怖い顔をしているのではないか。
「お父様はアレス様に何か言って来たんじゃないですか?」
「神官長とは夜会以来会っていない。なぜ俺の所に連絡が入る思うんだ?」
「え……」
予想ははずれ、余計な事を言ってしまっただけになり、アレスは益々不審そうにエレナを見つめる。
(どうしよう……)
昨日からの事、カーナ家の歴史に載っていた四つの名前の事、その事で不安な気持ちになっている事。
それらはアレスに正直に言える事ではなかった。嘘を吐いて外出した事は許されない事だし、名前の事はアレスのカーナ家への不審を更に大きくしそうだった。
(何とか誤魔化さなくちゃ……)
アレスの涼しげな青みがかった目が、エレナを真っ直ぐ見つめる。
「アレス様……」
こんな時なのに、頭が上手く回らない。元々機転の利いた対応なんて出来ない性格で、その上相手がアレスではもうどうしようも無かった。
「わ、私、何も考えていませんでした。怖い顔をしていたのは……特に意味は無いと思います」
結局、誤魔化す事なんて出来る訳は無く、強引に無かった事にした。
楽しいはずの遠乗りもその日は緊張感でいっぱいで、心が休まらなかった。エレナの何も考えていなかった発言をアレスは追求しなかったけれど、信じてくれた様にも見えなかったから。
部屋に戻り着替えを済ませると、直ぐにフィーアに湖での一件を報告した。
「アレス様って本当に鋭いわ。ちょっとぼんやりしていただけなのに、いつもと違うって気付かれたの」
「エレナ様が分かり易いんですよ」
フィーアは呆れた様に言い、乗馬で乱れたエレナの髪を整えてくれた。
「それはアレス様にも言われたわ。感情が直ぐ出て王太子妃失格だって……でもその内王太子妃じゃなくなるから直さなくていいって」
段々と小さな声になるエレナを、居間の長椅子に促しながらフィーアは淡々と言った。
「思い出してはいちいち落ち込まないで下さい。いつもの事じゃ有りませんか」
「そうだけど」
「それよりエレナ様の話を聞いて、私、驚きました」
「どうして?」
アレスに冷たくされるのはいつもの事で、フィーアだってたった今自分でそう言っていたのに。
「王太子殿下は私の予想以上ににエレナ様の事を理解している事が分かりました」
「どういう事?」
「エレナ様が感情を表に出し安い事。楽観的な事を知っています。基本的な性格を理解しているって事ですよ。それにエレナ様が湖を気に入っている事にも気付いていたんですよね……王太子殿下は意外にもエレナ様の事をよく見ていますね」
「アレス様が、私を見ていたって言うの?」
そんな事信じられない。アレスはエレナに何の関心も無いはずなのに。
(でも……もしフィーアの言う通りだったら)
少しはアレスの心が変わって来ていると言う事だろうか。疎ましがられても近寄り続けた効果が出て来たのだろうか。
「エレナ様、誤解されるといけませんので言い直しますけど、王太子殿下がずっとエレナ様を見ていたって事ではないですよ。あの王太子殿下ならチラッと見ただけでエレナ様の事を有る程度理解出来ると思います。ただそうするのは全くの無関心では無い証拠かと思います」
「わ、分かってるわ。誤解なんてしてないわ」
実のところ、かなり浮ついた気持ちになったけれど。
「それなら良かったです。ところでアレス様に余計な事を言ってしまいましたね」
「お父様の事?」
「そうです。きっと今頃王太子殿下はいろいろ調べていると思います。昨日の外出の事が知られるのも時間の問題ですね」
「そんな……ねえ、いつ頃知られてしまうと思う?」
「私には分かりませんけど。でも王太子殿下が本気で調べたら数日中にはばれてしまうんじゃないでしょうか」
「う……やっぱりそうなの? アレス様には昨日の事知られなくないのに」
「今更悔やんでも仕方無いです。本当は追求された時正直に言った方が良かったかとは思いますけど」
「でも話したらますますカーナ家が嫌われるでしょ? そうしたら私の事もますます嫌いになるわ」
焦燥感でいっぱいになるエレナに、フィーアはのんびりした様子で答える。
「そうでしょうか?」
「そうよ」
「私はエレナ様は王太子殿下の前では正直で居る事が一番かと思いますけど。カーナ家の事でエレナ様がこれ以上嫌われてしまう事は無いかと思います」
「もう嫌われ切っているから?」
「そうは言っていませんけど。とにかくもう成り行きに任せるしか有りませんよ。その事はもう忘れて今は今日のお茶会の事に集中して下さい。王太子妃として初のお茶会なのですよ?」
フィーアはそう言いながらてきぱきとエレナの身支度を進めて行く。その姿は忙しそうで、とてもエレナの愚痴につき合わせられる雰囲気では無かった。
不安な気持ちのまま上の空でお茶会を終えたエレナは、ほっとする間も無くその夜王太子アレスの呼び出しを受けた。