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雨色の傘  作者: ハルタ
恋色の雨
6/6

6話


 日の角度がさらに鋭くなった多目的室。しばらく響いていたシャープペンシルがノートを引っ掻く音がひとつ分止まる。


「そういえば」


 あづさが少し声を弾ませて再び口を開いた。物を書く音がふたつに増え、ひとつ止まった。話題が変わった事に少しの不安と安堵を感じながら神田はノートから視線を離しあづさをみやる。


「神田君、また女の子フったんだって?」


 ほんのりと微笑みながらあづさは何かをノートに書きながらそう言った。神田はむっと眉間に皺を寄せる。面白くない。神田はぽいとシャープペンシルを放り出し、ぎしっと音を立てて椅子の背もたれに背を預けた。


「……女子の噂ってマジ怖ぇな」

「真紀ちゃんは特に好きだから」

「それを俺に言う三戸もだろ」

「あ……、ご…ごめんなさい…」


 しまった、怒らせてしまった。あづさは顔を上げる事も出来ず、代わりにシャープペンシルを持つ手を止めた。この2年で神田とは随分親しくなったが、こういう話題の切り出しかたは未だよく解らずにいた。


 当然だ、と、あづさは思う。だって探っているのだから。浅ましい自分を隠して尋ねようとしているのだ。自然に話すようにはいかないだろう。元より会話能力は高くない。


「別に、怒ったわけじゃねぇよ…ごめん、キツい言い方した」


 ばつが悪そうに神田はノートに視線を落とす。あづさはほっと胸を撫で下ろす。一拍置いてから、あづさはそろりと神田に話しかけた。


「ううん。私も、ごめんなさい…」

「…いいよ」

「神田くん、あの…」

「ん?」

「その…まだ、言ってないの?神田くんの好きな人に…」


 言って、ちくりと胸が痛む。自傷癖などないが、訊かずにはいられなかった。


「…まだ、約束が…」

「あ、前に言ってた…?」


 こくり、と神田は無言で頷く。そのことにほっと安堵して、同じだけまた胸が痛んだ。


 神田の人気は高校に入ってさらに高まった。一年生の時だけで7人もの女子生徒から告白をされ交際を申し込まれていた。それも他校の生徒を含めて。だが、神田はそのことごとくを断り続けていた。


 神田が4人目をフッた後すぐに開催された勉強会で真紀がその理由を迫まり、ついぽろりといった様子で神田がこぼしたのが、好きな人の存在だった。好きな子がいるから付き合わない。それは誰なのかと真紀が詰め寄れば、ひどく鬱陶しそうなそうな顔で約束があるから告げられずにいるのだと神田は答えた。


 そう、はっきり言い切った神田の言葉はあづさの心臓をさっくりと切った。がっかりした、という表現がぴったりだったように思う。次いで思ったのは、神田にのめり込む前に引導を渡してもらえてよかったという安堵だった。


「…神田君が好きな人が、神田君の事を好きだと良いね」


 神田から好きな人がいると聞いてから、ずっと願い続けて来た本心がするりと口から滑り出た。言ってから少しの照れで頬に熱がじわりと集まる。そして、身体のどことも言えない内側にちくりと、痛みを感じる。


 神田に恋人が出来ればいい。幸せになって欲しい。そう思っているのは決して嘘ではない。それを親友の真紀に話した時は、どれだけお人好しなのだ、悲劇のヒロイン気取りかと怒鳴られた。自分でもそう思うよと泣いてしまったのは本当に恥ずかしい。けれど、本心でもある。神田が笑っているのが好きだ。振られるのは怖い。でも、この気持ちを告げたいとも思う。引導を渡されてなお捨てられない想いなのだ。


 だから、あづさはひとりで賭けをしていた。テストで神田に勝ったら想いを告げる。それまでに神田と彼の想い人が恋仲になったら、絶対になにも言わずに祝福するのだと。


 神田が、あづさの言葉にどこか自嘲気味に微笑んだ。


「…俺も、心底そう願うよ……」


 ちくり。ちくり。


 心に決めていても、やはり痛い。


 しん、と静まり返った多目的室。時折、お互いに質問し、返事をする以外は、シャープペンシルがノートの上をいく音と時計の秒針が進む単調な音だけが響いていた。





 夕日がとうとう姿を消し、蛍光灯のない多目的室の中で手元の文字が見えづらくなった頃、神田はことんとシャープペンシルをノートの上に置くと、ぐっとひとつ伸びをしてから、右足であづさの左足のつま先をこつんと優しく小突いた。


「三戸、あとどれくらい?」

「あ、もう終わり」

「じゃあそろそろ帰ろうぜ」

「そうだね」

「どっか、寄ってくか?」

「うん。寒いし、何か温かいもの飲んで帰ろっか」

「したら裏門から商店街だな」

「そだね」

「前言ってたカフェ行くか?」

「うん!え、あ〜…確か今日はお休み…」

「残念、じゃあどこ行く?」

「うーん…」


 コートを着て、他愛もない話をしながら玄関ホールへと向かう。しんと静まり返った廊下はひんやりと冷たい。遠くで野球部の「あーッした!」という声が聞こえた。どこの部活ももう終わったのだろう。校舎内にも廊下から見える校庭にも生徒の姿はほとんどなかった。


 階段を下りきる。がらんとした玄関ホールにつくと下足箱の鉄製の小さな戸をかちゃんと鳴らして、靴を取り出す。何度か買い直したローファー。前に買い替えたのはいったいいつだったか。足の形に広がって、すこし擦れて色のはげたそれ。不思議と愛着が湧くそれをそっと床において、足をおさめる。


 ふと顔を上げてあづさは「あ」と声を上げた。なんだろうとつられて顔を上げた神田も、同じように「あ」と呟いた。


「雨…」

「さっきまで晴れてたのにな…」


 ざーっと音を立てて降りしきる雨。それほど強いわけではないが、傘なしで駅まで歩くのは少し辛そうだ。


「どうしよ…傘……」

「あるぜ」


 振り返れば、傘立てから紺色の大きな傘を抜き取る神田。あづさはぽかんとそれを眺めた。


「…その傘って、もしかして」

「うん。あんときの」


 神田は先に玄関ホールを出ると、それをバンっと音を立てて開き、当然のようにあづさをその下へ招く。ごめんねとありがとうを言ってあづさは遠慮がちにその大きな傘の下に入った。


 ふたりの関係が大きく変わったあの日の傘。丁寧に使われていたのだろう。2年以上も経ったというのに、古びた様子はない。鈍く光る銀の骨には錆も浮いていない。骨と骨の真ん中の部分が、少しだけ色が変わっているくらいだろうか。


 変わったのはむしろ自分達の方だとあづさは思う。雨も手伝ってもう真っ暗な通学路。結局商店街には行かずに帰ることにしたふたりは、古く小さな街灯だけが頼りなげに照らしている林の脇道を歩いていた。


「…なんだか、不思議だね」


 あづさは静かに言葉を紡ぐ。ざーっと降り続く雨の音が混ざって、あづさの声は蓄音機から聞こえてくるようだ。神田は黙って、耳を傾けた。


「あのとき、神田くんが戻って来てくれなかったら、私達は今こうして一緒に歩くこともなかったのかも知れないね」

「…そうだな」

「ありがとう、神田くん」


 微笑んで、あづさは神田を見上げた。


 あの時、神田が戻って来てくれなかったら、傘に入れてくれなかったら、昔の話をしなかったら、神田の家からは遠く離れたあづさの家の最寄り駅まで送ってくれなかったら、あの問いかけをしてくれなかったら——


 きっと今のふたりの関係はなかった。





 見上げてくるあづさを見ながら神田は思った。


 あの青臭い問いかけをしたことで酷く遠回りをしている。だが一方で、決して間違った選択ではなかったと、最近は思うようになった。あの問いかけをしたからこそ、あづさは今、こうして自分の隣を当然のように歩いている。これは、あの日ただあづさを遠い駅まで送っただけでは築けなかっただろう関係によってなりたっている。


 そもそもテストで自分が負けるということは、あづさに想いを伝えることと同義。だが、二十回近くあったテストで勝ち続けたのはきっと、まだ時期じゃなかったからだと神田は言い聞かせ続けていた。そのおかげで、今こうして親しい友人としての関係を築けたのだと。


 しかし、そのテストももう残すところあと1回。それが終われば、大学受験。あづさと神田は違う大学に進学を希望している。


 そうなる前に、あづさにこの気持ちを伝えたい。フラれてもいい。覚悟もある。そもそもフラれたところで一度や二度で諦める気はない。17年に及ぶ片思いはそうやすやすと朽ち果てるものではないのだから。とにかく知ってもらいたい。離ればなれになるまえに。あづさに、自分がどれだけあづさを想っているのかを。


 そう思った瞬間、するりと言葉が滑りでた。


「三戸さ、諦めないで頑張ってくれよ。次のテスト」


 ざーっと降り続く雨の中、ぴんと張りのある神田の声があづさの耳に届いた。歩を止め、あづさに向き直り、ほんの少し微笑んで神田はあづさに告げる。


「勝ってよ。俺に」


 珍しい神田の柔らかい笑みとそして言われた内容に驚いて、あづさはただただ神田を見つめる以外になにも出来ないでいた。神田はその笑顔をそのままに続けた。


「勝って、俺に言わせてくれよ…答え」

「……」

「三戸」

「…うん」


 じわ、と胸に広がる言葉と熱。あづさは小さく頷いて、そのまま視線を下に落とし、上げることが出来なかった。頭上から神田の柔らかく軽い声が降って来た。


「手ぇ、抜かねぇから」

「……矛盾してるよ神田くん」

「手加減して欲しい?」


 声のトーンが変わった。ふと見上げればそこには挑戦的に笑む神田がいた。それを見て、あづさは緩やかに首を振る。


「ううん。しないで。私絶対頑張るから」


 ふたりは顔を見合わせてくすりと笑った。そしてまた、雨の中駅へと向かって歩き出す。




 降り続く雨は勢いを増す。


 まるであの日の再現をするかのように。




 完

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