15.死の樹海
「これが夜行蔦の樹液から作ったせき止めだよ。この蔦はね、昼間は乾いた地味な木肌をしてるけど、夜になると樹皮がぱっくり割れて新しい蔦を一気に伸ばすんだ。そのときにじみ出る樹液が頑固な咳を止める特効薬になるのさ」
ある日、オルガが完成した薬を見せながらそんなことを教えてくれた。
普段、夜に出歩くことは固く禁じられている。それでも、夜にしか見られない植物の姿に目を輝かせて興味津々になっている私を見かねて、ある日の夜、オルガは夜の採集に連れ出してくれた。
ランタンの明かりに照らされた森で、乾いた木肌がミシミシと音を立てて割れ、みずみずしい蔦と樹液があふれ出す瞬間を、私は息をのんで見つめた。
鑑定を使えば薬効や名前は一瞬で分かる。けれど、昼間はあんなに固く乾いていた木肌が、夜の生長に合わせて樹液をあふれさせるその生々しい変化は、自分の目で確かめてこそ実感できる面白さだった。
(素晴らしい……!)
「昼間の乾燥による防衛機構が、夜間の生長圧によって解き放たれて成分が活性化するのですね。これなら抽出のタイミングを数分単位で極めれば、もっと純度の高い薬が作れそうです」
夢中で帳面に書き留めながら呟くと、隣にいたオルガがあきれ果てたように眉をひそめた。
「お前……まだ6歳になったばかりだろう? 一人前の薬師みたいな口を叩くんじゃないよ」
採集を終え、ランタンを手に夜道を歩いて店へと戻っていると、暗闇の向こうからおぼつかない足取りで歩いてくる人影があった。
「すまん、この近くに村はあるか……? 怪我をしちまってな……」
掠れた声で声をかけてきたのは、泥にまみれた外套を羽織り、肩に古びた荷袋を掛けた一人の旅人だった。腕には包帯が巻かれ、靴底には森の黒い土がこびりついている。
「こんな時間にどうしたんだい。まあいい。ついてきな。」
オルガは、男をそのまま薬師店へと招き入れた。
店に入り、明かりの下で男は疲れたように椅子に腰を下ろした。
「傷を見せな」
オルガが言うと、男は傷口の包帯を解いた。
「大した傷じゃないんだがな。枝に引っかけただけだ」
「枝に引っかけた傷なら、どうして周囲が紫色になってるんだい」
男は黙った。
私は傷口を見て、すぐに気づいた。
「毒が入っています」
「……わかるのか?」
「傷の周囲に壊死しかけた部分があります。毒性のある樹液です」
「そうだ。森の中で妙な木に触れた」
オルガは薬草をすり潰し、傷口を洗い、毒を中和する薬を塗った。
男は苦痛に顔をしかめながらも、しばらくすると腕の紫色が薄れていった。
「助かった」
「こっちの子が毒を見抜いたんだよ」
男の視線が私へ向く。
「随分小さいが、嬢ちゃんも薬師か?」
「はい」
「まだ違うだろ」
「…そうでした」
「……あの、それはどんな木でしたか?」
「ああ…たしか――」
「葉の形、樹皮の色、樹液の匂い。触れたときの感覚は?」
男は困ったように眉を寄せた。
「ずいぶん詳しく聞くな」
「種類を特定したいので」
「特定してどうする」
「次に同じ木を見つけたとき、採取できるかもしれません」
「採取するのか?」
「薬効があるなら」
「…?」
男はオルガを見た。
オルガは深々とため息をついた。
「気にしなくていい。こいつは植物の話になると、誰にも止められないんだ」
旅人は苦笑しながら、森で見たものを話し始めた。
北へ向かうほど、植物の種類が変わっていくこと。
普通の森では見ない色の花が咲いていること。
夜になると、木々の間に青白い光が浮かぶこと。
地面から伸びた蔓が、足に絡みついて動きを止めること。
私はいつの間にか身を乗り出していた。
男が話す植物の一つ一つを聞き逃さないように、じっと耳を傾ける。
そして、森のさらに北西。
そこには、人が近づかない場所があるという。
「死の樹海だ」
その名前を聞いた瞬間、胸がきゅっと締まった。
「入ったんですか?」
「いや…。入ったわけじゃない。森の中でも、あそこだけは別物だ。空気そのものが違う。霧を吸えば肺が焼ける。道を間違えれば、確実に死ぬ」
「……では、どのくらいまで近づいたんですか?」
「樹海の外縁近くまでだ。あそこまで行けば、さすがに先へ進む気にはならなかった」
「よくこの程度の傷で帰ってこられたもんだ」
「運がよかった」
「どんな植物を見ましたか?」
「……」
男は少し考えるように黙った。
「入っていなくても、外から見えた植物があるはずです。大きさや色、形だけでも構いません」
「いや、そんなことを細かく覚えているわけじゃない」
「では、植物以外に何か変わったものは? 木の幹や地面、苔、蔓など、普通の森と違っていたものを教えてください」
「リゼット!」
「すみません」
「ただ、死の樹海に近づくにつれて明らかにそれまでとは植物や空気が変わっていった」
「どのように変わっていったんですか? 植物の色や大きさ、密生の仕方、それから空気の匂いや温度に変化はありましたか?」
男はしばらく私を見つめたあと、諦めたように口を開いた。
「巨大な花があった。人の背丈ほどもある花弁を開いて、近づいた獣を丸ごと飲み込む花だ」
「食虫植物のようなものですか?」
「さあな。だが、牙のようなものがあった」
「花の色は?」
「白に近い灰色だ」
「葉は?」
「地面に広がっていた。黒っぽい」
「匂いは?」
「……甘かったな」
私は急いで紙を取り出した。
男の証言を一つずつ書き留める。
巨大な花。
灰白色の花弁。
黒い葉。
甘い匂い。
獣を捕食する性質。
まだ不確かな情報ばかりだ。
それでも、私の胸は高鳴っていた。
死の樹海。
誰も近づかない場所。
誰も知らない植物が、まだ数え切れないほど眠っている場所。
「その辺りには、薬草もありますか?」
男は少し考えた。
「……あると思う。いや、薬草かどうかは知らんが、傷を負った仲間が、青い苔を傷口に塗っていた。すぐに出血が止まったよ」
「青い苔……。」
「ただし、そいつは翌朝には眠ったまま起きなかった」
「鎮静作用が強すぎたのかもしれませんね」
「そういう問題じゃない。死んだんだ」
「……」
私は筆を止めた。
「リゼット」
オルガの声がした。
「行きたいと思っているんだろう」
「……」
「駄目だよ」
「まだ何も言っていません」
「顔に書いてある」
「……オルガさん」
「なんだい」
「死の樹海へ行くには、何が必要ですか?」
「行くなと言ってるんだよ」
「準備の話です」
「聞く耳を持ちな」
「食料。水。服装。森の中で迷わないための道具。地図。薬品。魔物への対処法。それから――」
「もう計画を立て始めてるじゃないか!」
オルガの怒鳴り声が店内に響いた。
けれど私は、もう決めていた。
今すぐではない。
毒を持つ植物や生き物、毒霧、胞子を吸い込むような危険は、私の耐性なら問題ないはずだ。
(……私自身は平気でも、服などが痛む可能性はあるけれど)
ただ、毒耐性があっても、すべての危険を無視できるわけではない。
植物が魔物のように動く場合。
足場が崩れる場合。
書籍や物語の知識だけでは追いつかない魔物に襲われる場合。
死の樹海は、前世の山や森とは違う。
そこへ行くということは、単に珍しい植物を探しに行くという意味ではない。
命を懸けて、未知の生態系へ踏み込むということだ。
まだ幼い身体では、体力も足りない。
知識も足りない。
経験も足りない。
危険に対処する力もない。
だから、学ぶ。
薬草のことを。
毒のことを。
森のことを。
魔物のことを。
この世界のことを。
実力をつけて、いつか。
私は、まだ見ぬ植物たちに会いに行く。
*****
深夜、私は自分の部屋で紙を広げた。
旅人から聞いた話が頭から離れなかった。
森は村の北側に広がっている。
探せば探すほど、北へ進むほど、植物の種類が変わっていく。
さらに北へ。
そこから西へ寄った先に、人の近づかない場所がある。
死の樹海。
私はまず、村の位置を書いた。
次に、村の外へ続く道を描き、その先に森を置く。
北へ向かう街道。旅人が通ったという道筋。聞いた話を思い出しながら、少しずつ線を伸ばしていった。
もちろん、正確な地図ではない。
実際に見たわけでもなければ、距離も方角も正確にはわからない。
ただ、旅人の言葉を頼りに、知らない場所を紙の上へ写し取っていく。
森のさらに北西。
私はそこに、大きく丸をつけた。
そして、その中に名前を書く。
死の樹海。
書き終えた文字を見つめる。
その文字は、恐ろしい場所の名前であるはずなのに
私には、まだ誰も開いていない植物図鑑の表紙のように見えた。
まだ、そこへ行く方法も、いつ行けるのかもわからない。両親やオルガが許してくれるとも思えなかった。
それでも、紙の上にその場所を描いてみると、遠くにあったはずの樹海が、ほんの少しだけ近づいたように感じられた。
私は地図に、さらに小さく書き足した。
――未知の植物がある場所。




