揺り籠の箱庭
離宮の温室を支配するのは、かつての死を待つ静寂ではない。
極彩色の花々が放つ芳醇な香りと、クリスタルの噴水が刻む規則正しい水音。そして、机の上でさらさらと流れる羽ペンの音だ。
ルナリアは、天蓋のカーテン越しにその背中を眺めていた。
五年の歳月を眠り続けていた体は、レグナードが施した高精度の保護魔術と、あの境界の地で受けた神の加護によって驚くほど健やかだった。ただ長らく使っていなかった筋肉が重く、起き上がるのに少しばかりの気合が必要なだけだ。
レグナードはルナリアが目覚めてから一度もこの温室を離れず、学院の試験の採点や魔導原書の解読といった公務のすべてを、彼女のベッドサイドに持ち込んでいた。
「……レグナード様」
「ん、起きた? 何かあったらすぐに言ってね。気分が悪いとか、喉が渇いたとか」
羽ペンを置き振り返ったレグナードの口調は、かつてのよそよそしさが嘘のように穏やかだった。合間に向ける眼差しは、壊れ物をいたわるような熱を帯びている。
「少し、お話ししたくて。この温室、私が眠る前とは随分変わりましたね」
ルナリアの問いに、レグナードは手元の紙を置いた。
ここはかつて、放置された古い温室だった。今は足元には毛足の長い絨毯が敷き詰められ、真っ白な円卓の上にはクリスタル食器が並んでいる。侍女のソフィアが運んでくるのは、宝石のように輝く季節のスイーツと最高級の茶葉の香り。
「なにか不満?」
「いいえ。ただ……どうしてそこまでしてくださるのか、分からなくて」
ルナリアは視線を伏せ、レースのシーツを握りしめた。
「レグナード様は……お姉様が、お好きだったのではないのですか?」
その問いに、温室の空気が一瞬で凍りついた。
レグナードの指先が微かに震える。
レグナードは椅子を立ち、ベッドの傍らまで歩み寄った。そのままルナリアの前に膝をつくと、彼女の細い手を自分の両手でそっと包み込む。
「ごめんね……全部、僕が悪いんだ。僕が愚かだったせいで、二人もの大切な人を傷つけてしまった」
「レグナード様……?」
不思議そうに首をこてんと傾げるルナリアに、レグナードは自嘲めいた笑みを浮かべた。
「……少し、馬鹿な男の話を聞いてくれる?」
彼は遠い目をして、語り始めた。
魔力が暴走し、内側から身体を焼き切られるような激痛の中で死を覚悟したあの日。泥濘に沈む意識を繋ぎ止めたのは、誰かの温もりだった。自分を壊さんばかりに強く抱きしめ、必死に「生きて」と祈り続けてくれた幼い少女の震える声。
「朦朧とする意識がようやく浮上したとき、目の前にいたのは涙を浮かべたソレイア様だった。だから僕は自分を救った『奇跡』は彼女のものだと、疑いもしなかった」
レグナードの告白に、ルナリアは驚きに目を見開いた。記憶の底に眠っていた、泣きじゃくりながら必死に抱きしめた熱い体の男の子。
「……あの時の男の子は、レグナード様だったのですか?」
「うん。あの時はまだ魔力制御が未熟でね。生命維持にすべての魔力を割いていたから、成長が止まっていたんだ。だから君よりも小さかったけれど……本来の魔力量に見合う成長が始まったら、あっという間にこうなってしまった」
少し困ったように笑うと、レグナードは繋いだ手に力を込めた。
「僕はね、最初から今まで……ずっと君が、ルナリア様が好きだったんだ。あの日、命を繋いでくれた君に魂ごと惚れていた」
真っ直ぐな言葉に、ルナリアは耐えきれず視線を落とした。胸の奥が震える。けれど、どうしても消えない影が一つあった。
「……お姉様は……ソレイアは……」
「フラレたよ」
予想外の言葉に、ルナリアがパッと顔を上げた。
「あの方はさ、愚かな僕のことをスパッと振って、君の幸せだけを願っていたよ。大事な双子の妹である、君のことをね」
「……ソル……」
姉の深い愛を知り、ルナリアの目からポロポロと涙が溢れ出した。レグナードはその頬をそっと手で包み、指先で目元の雫を優しく拭う。
「僕は君を愛してる。今すぐ信じてほしいとは言わないよ。だけど……いつか、僕の気持ちを受け入れてくれたら嬉しい」
ルナリアの瞳に戸惑いと熱い涙が混じり合う。そんな彼女を、レグナードは壊れ物を慈しむような眼差しで見つめ直した。
「それにね、君に謝らなきゃいけないことがもう一つあるんだ」
「……謝ること、ですか?」
「僕はね、もう君の婚約者だよ」
驚きのあまり、ルナリアの涙が止まった。零れんばかりに目を見開く彼女に対し、レグナードは事も無げに続ける。
「陛下への根回しも、周囲への説明もすべて済ませてある。文句は言わせないよ」
「えっ……あ、あの……っ」
絶句するルナリアの額に、レグナードは自分の額をコツンと優しく合わせた。至近距離で見つめ合う瞳の中に、かつての冷徹な「魔導師」ではなく、一人の「男」としての情熱が揺れている。
「ねえ、ルナリア様。体調が戻ったら、君はこれから何がしたい? 賑やかな街を見て回る? それとも遠くへ旅に出る? そうだ、海を見に行くのもいいかもしれないね」
「……っ、レグ……ナード様……」
「君はもう『自由』だよ。誰かを照らすための影でも、蔑まれる月姫でもない。どこへだって行けるし、何だってできる。僕はそれを、君と一緒にやりたいんだ」
温室に差し込む光が、ヒラヒラと舞う花びらとクリスタルの水音をキラキラと輝かせる。それは、彼女の新しい人生を祝福する旋律のようだった。
翌朝。
二人の「日課」が始まった。
レグナードはルナリアの手首に指を添え、極めて真剣な面持ちで全身状態の確認をする。けれど国一の魔導師である彼をしても、ルナリアの内に眠る「祈り」の力の正体だけは掴みきれなかった。
魔力とは根本的に異なる、神聖で不可知なエネルギー。その「理」から外れた力の存在をまざまざと見せつけられ、レグナードは知性ゆえの焦燥に突き動かされるように問いかけた。
「……あのさ。ルナリア様、君はまだ『祈り』の力を使えるのかい?」
ルナリアはぽかんとした顔で彼を見つめ返した。そしておもむろにレグナードの両手をぎゅっと握りしめ、静かに目を閉じる。瞬間、レグナードの全身が羽毛に包まれるような温かな感覚が駆け抜けた。蓄積していた疲労が霧散し、寝不足で沈んでいた思考が嘘のように晴れ渡っていく。
「レグナード様が元気になりますようにって、祈りました」
はにかむように微笑んだルナリアの指先が、スーッとレグナードの目の下をなぞる。隈が消えた肌に触れる彼女の指は、春の陽だまりのように温かかった。
「……まだ、使えるみたいです」
深く重いため息。
レグナードの眉間に、深い苦悩の皺が刻まれた。
「……ルナリア様。これから毎日、僕と一緒にその力の制御方法を勉強しようね。二度と、君の魂を勝手に削らせるような真似はさせないから」
目をパチパチと瞬かせるルナリアに、レグナードは貼り付けたような、けれどどこか危ういほど美しい笑みを浮かべて問いを重ねた。
「ところで……君は境界の地で、神と何を話したの?」
「ええと、力の話とか……あとは、取引、とか……」
「取引?」
ルナリアが辿々しく語る「死後の魂を神に明け渡す」という誓約の内容を聞いた瞬間、レグナードの顔から血の気が引いた。
「……死後の魂を神に? 君は馬鹿なの……?」
「で、でも……そうしないと現世へ帰してくれない気がしましたし。それに、貴方の声が聞こえたから。どうしても、戻りたくて……」
純粋すぎる愛の告白。
レグナードは絶句した。その愚かな選択の理由が「自分」であったという事実に、彼の傲慢な知性は完膚なきまでに打ちのめされる。
「……なら、君が神に召されるその瞬間まで、一分一秒でも長く僕の側に繋ぎ止めるよ。神が痺れを切らして諦めるほどにね」
それからの日々、離宮の温室は世界から切り離されたかのような密やかな時間が流れていた。
レグナードはソフィア以外の王宮関係者を一切、ルナリアに近づけさせなかった。彼女の世界は今、このガラス張りの箱庭と、目の前の男だけで完結している。
夜が来れば、レグナードはベッドサイドのソファに深く身を沈めた。
ルナリアが眠りにつくまで、彼は術式の難解な話や庭に咲いた花の話を、彼女と共に慈しむように楽しんだ。ルナリアの呼吸が穏やかなリズムを刻み始めると、彼はようやく溜まった書類に手をつける。
──彼は眠らない。
数時間おきに浅い眠りから跳ね起き、真っ先に彼女の胸の上下を確かめ、頬に触れて体温を確認する。
彼女が今もここにいて、呼吸をしているか。
再び、神の手によって天へと連れ去られてはいないか。
かつて世界の理を愛した天才は、今や一人の少女が吐き出す吐息の数に、その全存在を懸けていた。
「おやすみ、ルナリア。いい夢を……」
月光が差し込む温室で、彼は眠れる愛おしい人に執着と情愛の口付けを落とした。




