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境界の鳥、あるいは至高の取引

意識の深淵を抜けた先、ルナリアを待っていたのはかつて、現実のどこにも存在しなかった色彩の奔流だった。

抜けるような蒼穹の下、極彩色の花々が咲き誇り、風が吹くたびに甘い香りが鼻腔をくすぐる。足元を流れる川は水晶のように透き通り、水音さえもが調べのように心地よい。

ふと、一歩踏み出したルナリアは自分が裸足であることに気づいた。真っ白なレースのワンピースを揺らし、足の裏で柔らかな芝生の感触を確かめる。


「……自由だわ」


誰の視線も、義務も、献身も必要ない。

ただ自分として呼吸し存在している。

充足感に満ちた笑みを浮かべた彼女の前に、一羽の鳥が舞い降りた。その羽根は光を反射するたびに七色の宝石のように煌めき、長い尾羽が優雅な軌跡を描く。


『ルナリア……我らが愛しき子よ』


響いてきたのは、男でも女でもない、玲瓏とした中性的な声だった。


「貴方……様は?」


『我は理の編み手。現象の推移を司り、魂の総量を管理する者。そなたたちが「神」と呼ぶ概念の一端に過ぎぬ』


鳥は傲然と首をもたげ、その神秘的な瞳でルナリアを射抜いた。


「神……様。……私は、死んだのでしょうか」


『死、あるいは新生。そなたの「魂」は肉体という粗末な器を焼き切り、我らの領域へと踏み込んだのだ。そなたは、我らから見れば特異な存在……。魔力を介さず、魂の熱量そのもので世界を書き換える「祈り」の主。いわば、神の愛し子(マナ・チャイルド)なのだからな』

 

鳥はルナリアの周りを優雅に旋回する。


『そなたがこれまで「不具」と蔑まれ、苦しんできたその空っぽの器こそが、神域と繋がるための門であったのだ。そなたが願えば雨が降り、そなたが祈れば命が繋がれた。だが、その対価は常にそなた自身の魂であった。今そなたはすべてを使い果たし、ここへ辿り着いたのだよ』


ルナリアは自らの胸に手を当てた。そこにはもう、凍えるような寂しさも心の痛みもない。


『さて、選ぶがよい。そなたの望むままに。永劫の安寧が約束されたこの地で、何にも縛られぬ「自由」を得るか。あるいは、再び不自由な肉体に縛られた現世へと「目覚める」か。このまま我らの膝元で過ごせば、二度と誰かのために傷つくこともない』


「自由……」


その問いに、ルナリアの心は凪のように静かだった。

あの世界にあるのは不具と蔑まれた記憶と、誰かのために削り続けた命の残滓だけだ。

戻る理由などどこにもないはず。

それなのに──。


(……どうして)


だが鳥は冷ややかに目を細めると、虚空に大きな鏡を現出させた。


『……ふむ。そなたの魂の奥底には、未だ断ち切れぬ未練が(よど)んでいるな』


鏡の中に、現実世界の光景が映し出される。

そこは、見覚えのない美しい温室だった。柔らかな光が差し込むベッドの傍らで、一人の男がルナリアの冷たい手を握り静かに語りかけている。


「……レグナード様……」


かつての傲慢な魔術師の面影はどこへ行ったのか。数年の時を経たのか、少し大人びた彼の横顔には消えることのない焦燥と、深い慈しみが刻まれている。

鏡の向こうから聞こえてくる、今にも壊れてしまいそうなほど寂しげな声。


(どうして貴方は愛おしい唯一を呼ぶような、あんなに切実な熱を孕んだ声で私を呼ぶの?)


戸惑い揺れるルナリアを見透かすように、鳥は低く喉を鳴らした。


『……ふむ。そなたの魂の輝きは、磨かれる前の原石のままだ。ならば戻るがよい、愛しき子よ』


ルナリアの瞳に熱い涙が滲んでいく。


『我ら「神」と呼ばれる存在は、決して慈悲深く高潔なだけではない。絶対の力を有するがゆえに、誰よりも傲慢で尊大、そして不遜なのだ』


バサリ、と力強く鳥が羽根を広げた。その瞬間、周囲の色彩が揺らぎ、強大な威圧感が世界を支配する。


『愛しき子よ、取引をしよう。そなたの死後の魂を我が譲り受けることを代償に、その未練──現世への祈りを叶えてやろう。そなたが望めば帰してやってもいい』


それは慈悲などではなく、至高の存在による「横取り」に近かった。神でさえ欲しがるほどの純粋な魂。その価値を、ルナリア本人がまだ気づいていないだけなのだ。

温かな羽根がルナリアの身体を包み込み、耳元で神が囁く。


『さあ、言え。祈れ。そして──汝の真実を願いなさい』


ルナリアは零れ落ちた涙を拭い、鏡の中の男を見つめて、はっきりと自分の想いを言葉にした。

もう誰かの身代わりではない、彼女自身の意志として。

刹那、鮮やかな世界は一転して深い静寂の闇へと塗り替えられた。その暗闇の中に、一点の光を放つ一本の道が現れる。


『行きなさい。そなたが思う道へ。お前を呼ぶその声が、迷わぬための道標となるだろう』


背中をぐっと強く押され、ルナリアは歩き始めた。

重力を取り戻し、痛みを思い出し、けれどそれ以上に温か「誰か」が待つ場所へ。


『なあに……我らにとって人間の一生など、瞬き一つの時間に過ぎぬ。待っているぞ、愛しき子よ。存分に生を謳歌し、その果てに……最高に光り輝く魂を、我がもとへ届けるがよい』


神の不遜な笑い声が遠ざかっていく。

ルナリアは光の差す方へ、確かな足取りで駆けていった。

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